第41話 何気ない日常が、一番幸せ


 青空の下、陽光が差し込む緑豊かな学園内を、イザベラが跳ねるような足取りで歩いていた。


 濃紺色のドレスが身体のラインを際立たせ、金糸の刺繍が施されたリボンが、風に揺れる。

 背中に流れる髪は艶やかで、黄金の絹糸のように柔らかく煌めていた。


 だがその姿を目にした学生達は皆、喉の奥で小さな悲鳴をあげながら青褪め、身体を硬直させる。


「なにかしら……?」


 怯えられることはあったが、ここまでの反応は初めてである。

 訝しみながら歩みを進めると、特進科の校舎近くで見慣れた後ろ姿が目に入った。


「パメラ!」

「あ、イザベラ様、おはようござ……ッ!? ウ、ウワァァァッ!!」


 イザベラに声を掛けられたその女子生徒は、嬉しそうに振り向き――そして、これ以上ないほど恐怖に目を見開いた後、バランスを崩して後ろにペタリと倒れた。


「ど、どどどどうされたのですか、その顔は!?」

「顔? ああ、そうそう少し目元が赤らんでしまって」

「え、ちがっ、もっとこう……見たほうが早いです! 確かこの辺に鏡があったはず……!」


 大慌てでカバンの中に手を入れ、ゴソゴソと中身を漁った後、パメラは手鏡をイザベラへと差し出した。


 そのただならぬ様子にイザベラは眉をひそめ、鏡に映った自分の顔を覗きこんで息を呑む。


「こ、これはッ!?」


 ギルとの婚約が嬉しくて昨夜は明け方まで眠れず、しかも一晩中泣いたため、ほんのりと目が腫れているのには気が付いていた。


 とはいえ、少し赤らむ程度だったのに……。

 なんだか視界が狭い気がして、通学中の馬車内で目を擦っていたせいだろうか。


 いつもは柔らかに瞳を覆うまぶたが、まるで蜂に刺されたかのようにプクリと腫れ、目が三割がた閉じている。


 専属護衛騎士のジョルジュがいれば指摘してくれたのだろうが、本日は非番のため、別の騎士。


 学園の門をくぐる直前に心配そうな視線を向けられたのだが、こんなにひどくなっているとは思わなかった。

 「問題ない」と声を掛けたので、それ以上は何も言えなくなってしまったのだろう。


 今日はどうしても、ギルに会いたかったのに。


 イザベラは手鏡に映る自身の顔を見つめたまま、言葉を失ったのである――。



 ***



「冷やしますので、しばらくそのままでお願いします」


 パメラは水に浸した布をギュッとしぼり、ソファーに横たわるイザベラのまぶたの上にそっと置いた。


「これじゃあ、ギル様の朝稽古を見に行けないわ……」


 腫れた目を覆うように布を乗せ、しょんぼりとするイザベラに「大丈夫です。すぐに元通りですよ!」とパメラが励ましの声を掛ける。


 日次恒例、いつもの豪華なイザベラルーム。

 護衛騎士が窓を開けると、少し籠もった空気を一掃するように、気持ちのよい風が吹き込んできた。


「ほらイザベラ様、朝稽古の声が聞こえますよ!!」

「……誰の声だか分からないわ」

「まぁそれはそうですが、でもあの中にギル様がいると思うだけで、元気が出ませんか?」


 イザベラは動きを止めて耳を澄ますが、稽古に励む青年達の声にギルと判別できそうなものはなく、小さく溜息を吐いた。


「それにしても、ここまで酷くなるとは思わなかったわ」

「……そのわりにご機嫌ですね?」


 ソファーに横になりながら、考えるように顎へ手を当てるイザベラの口元が、珍しく緩みきっている。


 頬が淡く薔薇色に染まっているところを見ると、ギル絡みだろうとは思うのだが……目が腫れるほど泣く状況が想像できず、パメラは首を捻った。


「……ふふふ」

「一体何があったんですか?」

「ん―、どうしようかしら……?」


 目を冷やしていた布を水につけ、再びイザベラの目元に当てながらパメラが問いかけると、なにやら勿体ぶった様子で聞いて欲しそうにしている。


 あ、これ、たぶん長くなるやつだ。


 イザベラとの付き合いもかれこれ半年以上。

 つい最近は一ヶ月もの間、ともに山籠もりという名のバカンスを楽しんだ仲である。


 さらには嘘がつけない素直な性格なので、考えていることが駄々洩れなのだ。


「あまり深刻なお話ではなさそうなので、それではまたの機会にします」

「……パメラ、お待ちなさい。お前には色々と協力してもらったから、特別に教えてあげるわ」


 目の上に布を乗せていて見えないはずなのに、パメラはガシリと肩を掴まれ逃げられない。


 結局話すのですねと軽くツッコミを入れながら、イザベラが寝転んでいるソファーの床に、そのままペタリと座り込んだ。


「実は昨日、ギル様との婚約が成立したのよ!」

「うわぁ!! ついにですか!? おめでとうございます!!」

「ありがとう。パメラが手伝ってくれたおかげよ」


 二人をずっと近くで見守ってきたパメラにとっても、婚約が成立したことはまるで自分のことのように嬉しかった。


「それでね、婚約が成立したのが嬉しくて……わたくし昨夜は一晩中、涙が止まらなかったの」

「ええッ、一晩中!? だから目が腫れていたんですね!?」

「今日はギル様と喜びを分かち合おうと思っていたのに、困ったことになったわ」


 まさか一晩中泣いていたとは……。

 元々怖い顔がさらにちょっと怖くなったくらいで、ギルは気にしないのでは? と思わなくもないが、そこは恋する乙女心なのだろう。


「寂しいからって、シャツを嗅ぐのは止めてくださいね」

「ギル様に頂いたシャツは美しく額装して部屋に飾ってあるから、残念ながら取り出し不可よ!」

「永久保存用にしたのですか……」


 話している間も、嬉しくてたまらないのだろう。

 イザベラの両手はいつの間にか祈るように胸元で組み合わされ、声が弾んでいる。


「こんなに幸せで、どうしたらいいのかしらッ!? それにその、ギ、ギル様はわたくしをとても愛してくださっているようだし」

「そうですねぇ」

「わ、わた、わたくしもギル様をその、愛しておりますから、これは!!」

「はい。婚約者同士、間違いなく両思いですね。……イザベラ様が幸せそうでなによりです」


 すっかり生暖かくなった目元の布を両手で押さえ、キャーキャー言いながら、イザベラはソファーの上でゴロゴロ左右に揺れている。


 美しい所作で周囲を圧倒する彼女が、こんな姿を見せるとは。

 人目もはばからず、もう大はしゃぎである。


「それだけじゃないわ! 闘技場での、愛の告白を覚えているかしら? ギル様の発言が素敵に装丁されて、わたくしの手元に届けられたの。あっ、もうだめ、思い出すだけで……!!」


 話したくて堪らないらしく、次から次へと衝撃の事実が明らかになる。


 アレを本にしたのか……。


 パメラは遠い目をして、気持ちのいい風が吹き込む窓へと視線を向け……そして、ギシリと固まった。


「素敵に装丁?」


 よく通る落ち着いた声が、二人の耳へと届く。

 戸惑うような響きと驚きを含んだ声に、大はしゃぎだったイザベラの動きがピタリと止まる。


 自分の発言が記録され、それも美しく装丁されて本になった挙げ句、イザベラの手元に保管されているという事実に、思わずといった様子でギルの声が漏れた。


「珍しく朝稽古に姿を見せないから、心配して来てみたら……」

「ええと、ギル様はいつから……?」

「一晩中、涙が止まらなかったあたりかな」


 かなり序盤から聞かれていたと知り、イザベラは恥ずかしさのあまり、凍り付いたように動かなくなってしまった。


「目、大丈夫?」


 軽々と窓枠を越え、ギルが室内へと入って来る。

 一方レナードは開け放たれた窓にもたれ、腕組をしながら見守っている。


「イザベラ、心配だからちょっと見せて」

「腫れているので駄目です」

「……大丈夫、恥ずかしくないから」


 気遣うギルの声にそれ以上は拒否できず、イザベラは起き上がり、恐る恐る目元の布を外した。


「ああ、本当だ。少し腫れてる。痛くはない?」

「はい。でも怖い感じになっていますので、あまり御覧にならないほうが」

「怖いわけないだろ? 一晩中泣いてたの?」

「……はい」


 しばらく冷やしていたので、登校時に比べれば多少良くはなっていたが、相変わらず腫れている。


 心配そうに覗き込むギルと至近距離で目が合い、全部聞かれていたことが恥ずかしくて堪らないイザベラは、顔を隠すように俯いた。


「実は俺も嬉しくて、昨日はなかなか眠れなかった」

「はい、わたくしもです……!」


 ギルも同じ時間を過ごしていたと知り、イザベラの頬が嬉しさに上気する。


「でも、さすがに本は恥ずかしすぎるかな」

「やっぱりそうですよね……処分したほうがよろしいですか?」


 せっかくの宝物を処分しなければならないのかと肩を落とし、イザベラはシュンと落ち込んでいる。


 その様子が可愛くて堪らないとでも言うように、ギルは優しく頭を撫でながら、考えるように視線を落とした。


「持っててもいいけど……気になるから、後で俺にも見せてくれる?」

「ありがとうございます! 勿論です。二冊ありまして、片方はお父様から。もう片方は国王陛下からです!」

「「「国王陛下からッ!?」」」


 そういえば、国王陛下の姪だった。

 その場にいた三人が声を合わせて叫ぶ中、イザベラは何を驚いているのだと小首を傾げる。


 ――何気ない日常と、大好きな婚約者・・・

 本日ジョルジュは不在だが、すっかりお馴染みのメンバーで過ごす時間が嬉しく、幸せで堪らないのだろう。


 イザベラは少し腫れた瞼を気にしながらも、満面の笑みを浮かべたのだった。


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