3時限目は理科

 圭太が勤め先の食品メーカーで営業所の係長から所長代理に昇格した。同時に等級も6から7にワンランク昇級し、これは本社や支社支店の課長代理と同格である。

 この昇級による経済的な恩恵は青木家にとってとても大きい。基本給が等級6への昇級時の倍、つまり月6万円の昇給となる。賞与を合わせれば年間100万円以上の収入増で、将来の退職金も増額となるのだ。家計のやりくりに苦労し、節約生活に疲弊していた早苗は、手放しで大喜びだ。

「凄い凄い。凄いよ。青木家の経済危機はこれでジエンドだね」

 普段は楽観的な圭太であるが、早苗の無邪気な喜びようには不安を覚える。今日、所長から内示があった時、早苗と抱き合って喜ぶのだろうな考えていた圭太だが、ここは世帯主の威厳を示すべく慎重派に宗旨替えを決めた。

「いやいや、この先確実に出費が増えることを考えれば、ある程度の節約は続けた方が良いよ」

 しかしそんな圭太の提案も舞い上がっている早苗には全く伝わらない。

「ねえねえ、所長に昇格した時は車をまた買おうね。所長に相応しい高級車とか。いや待って。大企業の幹部社員は地球環境のことも考えないといけないから、電気自動車とかが良いかも」

「何ばかなことを。所長なんていつのことやら。それに所長って言うけど世間の課長だからね」

「課長は中間管理職だけど、所長は何と言っても一国一城の主よ。あぁ私もいずれ所長夫人か」

 所長代理は準管理職とも呼ばれ、圭太の営業所では営業事務の女性スタッフ3人が部下となり、営業所内の事務や庶務を統括することになる。また所長の手が回らない時は、所長代理が上司として担当者と得意先に同行することもある。

 何よりこれまでの所長代理が圭太より一回り以上若い全国採用社員で、年上の圭太を小馬鹿にするような言動が目に余っていた。そんな“嫌な上司”がいなくなるだけでも圭太は清々する思いだ。

 圭太と同じ地域限定社員の田中所長に今回異動はなかった。これからは所長、所長代理、係長に昇格した野田、事務スタッフなど、多くが地域限定社員となるので、一体感が増し、所内の雰囲気も良くなりそうだ。

 圭太がこのように思うのも無理はなく、全国採用と地域限定採用の間には、制度面だけでなく心の距離感など、さまざまな壁があるということだ。

 かつては、全国採用だけが働く本社や支社では無縁の問題であったが、最近では働き方や仕事に対する意識も多様になり、東京での地域限定を希望する優秀な若い社員も少しずつ増えて来ているようである。

 現在の制度では全国から地域への変更は出来ないが、いずれその制度も改訂されて、本社や支社で地域限定社員が活躍することになるだろう。

 支社で毎月開催される営業会議に所長が都合で出席出来ない時は、所長代理がまさに“所長の代理”で出席する決まりである。圭太は自分の担当先だけでなく、営業所全体の販売先についても把握しておかなければならないぞと意を新たにした。

「大変だ。ますます忙しくなるぞ」

 圭太は所長代理としてがむしゃらに働く姿を想像し、これまで以上に所長を目指す、いや所長になるぞという思いを強くした。

「そうなれば生活も楽になる。何より早苗も喜ぶしな」


 この日は半年に一度、管内の支店と営業所から全ての営業担当者が支社の大会議室で一堂に会する重要な会議が開催される。マーケティング戦略会議。この会議では販売方針の共有の他、新商品発表会に向けた各種の説明も行われる。

 圭太の会社では、春と秋の年2回、新商品やリニューアル品が発表されるタイミングに合わせ、取引先を招待して新商品発表会が開催される。この発表会は日程をずらしながら、全国6支社の管轄エリア毎に順次開催される一大イベントである。

 マーケティング戦略会議は朝の9時から夕方の5時まで、支社長の挨拶に始まって今年度上期の販売方針、販促及び広告宣伝計画、組織別の販売予算、新商品などの説明が次々となされる。本社のマーケティング担当や支社の営業統括部門の話す側も、そして支店や営業所の営業担当の聴く側も、それぞれが発する熱気は凄まじい。

 昼食時間は新商品の試食に当てられ、途中の休憩でも説明時に質問が出来なかった疑問点について各担当者を捕まえて至る所で熱心な質疑が今回も繰り広げられることだろう。

「この販促と広告で、これだけの販売予算をどうやって達成するのか?」

「新商品の実力を信じてください。既存の売上をキープ出来れば、新商品の売上によって必ず予算は達成出来ます」

毎年恒例の質疑応答の風景である。

 この会議を受けて、全国の支店や営業所では支社から通達された組織予算案まで積み上げなければならない。案ではなく実質的には指示である。従って通常の営業活動を終えた後、各担当者が担当先毎に組み立てた販売予算の擦り合わせを課長や所長と繰り返し、最終的に組織予算まで積み上げるのにしばらく残業の日々が続くことになるのである。


 今回のマーケティング戦略会議も司会進行役の簡単な開会宣言の後、支社長の熱くて長い挨拶からスタートした。

「・・・という訳で今回の新商品たちも他にない、他社さんには真似出来ない、画期的なものです。皆さん自信を持って得意先と商談し、スーパーの棚に並べ、レストランの厨房に送り込んでください。またテレビCMについては、新商品としては異例の6000GRPを予定しており、タレントには若者に絶大な人気アイドルグループの・・・」

 支社長のあいさつは終わる気配がない。レジュメでは10分となっているのだが、既に10分を過ぎている。

「おいおい、俺の言うネタがなくなるじゃないかよ」

 本社の広告宣伝部長が用意したプレゼン資料では、テレビCMの出稿量6000GRPが最大の見せ場であったのだ。

「苦労して効果音まで用意して盛り上げようと思ったのによ」

「タレントとの契約はまだ終わっていないのに、名前を出して大丈夫ですかね」

 隣に座る広告宣伝部の企画課長が冷静な反応を示したが、部長は身振り手振りで熱弁を続ける支社長を苦々しく睨みつけている。

 支社長のスピーチによる5分オーバーは、広告宣伝部長の説明時間を短縮することによってその後の議題もスケジュール通りとなった。

 そして質疑応答が時に激論となることが多い新商品の説明が始まった。この春は新商品もリニューアル品も例年より多く、ぶっ続けで2時間掛けて説明と試食が繰り返される。

「・・・となります。従いましてこのシリーズは単品での導入ではなく、必ずシリーズ並べて定番化するようにしてください。その時のアピールポイントですが・・・」

「・・・とのグループインタビュー結果が出ました。そこでその不満を解消し、欲しいとの声が多かった機能を実現したのがこちらの・・・」

各商品の開発担当者には、簡潔な表現でありながらも熱い思いが溢れている。

 いよいよ今春の目玉となる画期的な新商品の説明が始まった。圭太の会社としては初めて、家庭用と業務用で同じ機能を活用した製品の同時発売だ。

 これまではまず家庭用で発売し、評判を見極めてから業務用で発売する、あるいはその逆であった。そして初の試みとしてテレビCMも家庭用製品と業務用製品で同時期に放映し、同じタレントを起用する予定という。


 家庭用と業務用の開発担当者が同時に登壇して新商品の説明が始まった。

「結論から申し上げます。ハイパーエマルション イージー&プロクッキング製法。これを活用した画期的な新製品であるエマルショニストを発売します」

 営業担当者から好意的な反応は起こらなかった。わずかに隣同士で見合って苦笑いしたり、正面のモニターを見ながら首を捻る光景が所々に見られる程度である。

「ハイパーオマル何とかなんて言われてもな・・」

圭太は隣に座る同じ営業所の野田係長に小さく息だけで話し掛けたが、親父ギャグは無視された。

「皆んなの反応のなさに開発担当者も困ってますよね」

 家庭用の開発担当者は一つ咳払いをし、半ばきょとんとし、そして半ば不思議なものでも見るような目をしている営業担当者を見回し、カラフルなパワーポイントのページをひとつ進めて説明を再開した。

「まずエマルションについて説明します。こちらのイメージ図をご覧ください」

 モニターにはアニメ風のイラストでエマルションを説明するページが投影されている。左側には胸に“油”と大きく書かれた黄色いシャツを来た人物と、同じく“水”と書かれて水色のシャツを着た人物が、お互いに背中を向け合って、腕を組んで立っている。

 顔は双方とも怒りの表情で、一方は右手の人差し指と中指を交互に動かして左肘のあたりをトントンと叩いている。もう一方は右足を少し前に出し、踵を支点にして足の裏で地面をタンタンと踏んでいる。静止画なのでそのように見えるよう描いているだけで、要するに“油”と“水”は仲が悪いと言いたいのだ。

 画面の真ん中には大きく太い矢印が右を向いている。そして矢印の先、その右側には、左側でいがみ合っていた“油”と“水”が満面の笑顔で正面を向いていて、その間には小さな男の子がこれまた笑顔でいる。

 胸から腹にかけて大きく縦に“乳化剤”と書かれた緑色のシャツを着て、両側に立つ“油”と“水”と手を繋いでいる。

「ご存知のように油と水は本来混じり合わないものなのですが、乳化剤の働きによって油と水を結び付けます。これがエマルションです」

 後ろの方から大きな声が上がる。

「乳化とエマルションの違いは何でしょうか?」

「油と水を混ぜることを乳化と言います。そして混ざり合った状態になったものがエマルションです」

 一番前に座って熱心にメモを取っていた若手が続く。

「すみません。界面活性剤と言うのがありますが、乳化剤との違いは何ですか」

「まず界面というのは混ざり合うことのない性質の異なる物質の境界ということになります。今回の場合は、油相と水相の境界を意味します。この境界において混じりやすくする物質が界面活性剤ですので、乳化剤と同じと言えます。ただ、一般的には乳化剤は食品に、界面活性剤は洗剤など食品以外に用いられる表現になります。我々は乳化剤と呼びましょう」

 圭太が眠そうな目を擦りながら野田の耳元に口を寄せる。

「やつは絶対に理系だな」

「バリバリの文系ですよ」

圭太はどうも理解出来てないようである。

 開発担当者は用意しておいた透明のプラスティックボトル2本を手に取って説明を続ける。

「皆さんから見て右側、キャップが白のボトルですが、油と水を混ぜたものです」

会場の皆んなが見やすいよう、左手に持ったボトルをゆっくりと左から右に動かす。

「そしてキャップが赤のこちらのボトルには油と水の他に少量の乳化剤が入っています」

今度は右手のボトルを右から左に動かし、逆に左から右へゆっくりと戻してからテーブルに置いた。

 いつの間にかモニターには白いキャップと赤いキャップのボトルが大きく写されている。ややキツネ色をした油が上に、そして透明な水が下に、綺麗に分離している状態はどちらのボトルも同じに見える。

「サラダ油は透明で水と違いが分かりにくいので、琥珀色のコーン油を使用しています。比重の軽い油が上に、水は下にあります。これを強く振ります」

 開発担当者は白いキャップのボトルを握り締め、そして上下に激しく振る動作を繰り返してからボトルをテーブルに置いた。

「今現在は物理的な力で混ざり合っているようには見えますが、化学的には分離しています。このまましばらく置いておきます」

 次に赤いキャップのボトルを右手で持ち上げ、開発担当者は皆んなに見えるようにボトルを右左にゆっくりと動かす。

「このボトルに油と水と乳化剤が入っています。今はまだ分離していますが、これを少し振ります」

 ボトルを強く振り続けると、油と水だけのボトルとは違い、やや白濁した色をして完全に混じり合ったように見える。モニターには振ったばかりのボトルが赤白2本並んでいる。

「混じり合ったように見えた白の方ですが、既に分離が進んでいて、いずれ元の完全に分離した状態になります。一方の赤の方ですが、こちらは乳化剤の効果で完全に混じり合っていますので、時間が経ってももう分離はしません」

 開発担当者は乳化の説明をする際、“ご存知のように”と前置きしていたが、説明を聞いている営業担当者の多くが“へぇー”とか“スゲェー”などと感嘆の声をあげている。どうやら乳化について知らない営業担当は案外と多いようだ。なかには“なるほど”とか“分かりやすいね”と言っている者たちは、“乳化”は知識として理解しているものの、実体験は初めてなのであろう。

「乳化作用を利用した最もポピュラーな食品はマヨネーズでしょう。マヨネーズの主原料はご存知のように油とお酢、そして卵ですよね」

 用意したマヨネーズの容器を後ろの方まで見えるように高く掲げ、開発担当者の説明が続く。

「油と酢だけなら分離して、このように混じり合うことはありません。卵黄に含まれるレシチンと言われる成分が乳化剤の働きをしています。もちろん長時間混ぜ続けないとこのように滑らかなクリーム状にはなりませんが」

先程のしらけた雰囲気からは一変し、会議室の至る所で会話が交わされている。


 開発担当者は徐ろに家庭用の新製品を紙袋から取り出し、シリーズ3品を横一列に並べた。横に立っていた業務用の開発担当者も段ボール箱にシンプルな文字だけが書かれた新製品を3品取り出して並べる。

 2人の開発担当者は目でお互い合図をすると、打ち合せ通りなのか、今度は業務用の開発担当者が説明を引き継いだ。

「エマルショニスト。家庭用、業務用共通の製品名になります。バリエーションはチーズ&ベーコン、バター&ポルチーニ茸、ガーリック&アンチョビの3種類です。ベースの油は全品ともスペイン産のエキストラバージンオリーブオイルを100%使用しています」

 支社の若いスタッフが紙皿に入った試食用のパスタを手際良く配って歩く。1人3枚の紙皿には自社のチーズ&ベーコン、現在市場で最も売れているライバルメーカーの同レシピ品、そして日頃より試作をお願いしている有名シェフが作ったもので、こちらには乳化剤などは使用していない。

「それではまず試食してください」

「違いのポイントは何ですか」

「先入観を持たずに試食してみてください。そして感じたことをそのまま教えてください」

 通常の試食であれば、あたかも誘導するかのように違いを強調することもある。今度の新製品は余程の自信作なのであろう。

 圭太はいかにもそれらしく、まず目でじっくりと3つの試食品を観察し、次にプラスチックのフォークで持ち上げたりかき混ぜたりした。そして順番に匂いを嗅いだのち、ようやくシェフの試作品を口に入れ、やや上を向いて目を瞑ってゆっくりと咀嚼する。続いて同じ要領で他社品、そして最後に当社品の順で試食をして行く。

「早く食べないと次が来ますよ」

 野田係長は試食品を完食していた。一方の圭太は一口ずつしか食べていないので、皿には半分以上が残っている。

「そんなにガツガツ食べたら味の違いなんか分からないだろう」

「逆に普通そんな食べ方します?私は生活者の立場で美味しいかどうかを見たいんですよ」

「それで生活者代表の評価はどうなんだ」

「抜群にうちの新商品でしょう。明らかに違いますよ」

「どこがどう違うんだ」

「シェフと比較して、うちと他社品がそれぞれどう違うかですよね」

「その通り。一流シェフの味が手軽に家庭で楽しめるか、外食チェーンで再現出来るか、コンビニの惣菜バイヤーが納得するか、だからな」

 次の試食品が配られたので、圭太は野田との会話を中断してまた同じように時間をかけて評価する。野田は相変わらず一口で頬張り、何度か咀嚼すると飲み下して水を飲む、を繰り返している。よく見ると野田の手帳には走り書きのメモが見える。

「何を書いているんだ」

「感じたことですよ。開発担当者のお仕着せではなく、自分が感じたことを自分の言葉で表現しているんです」

「いつもそうしているのか」

「はい。新入社員の頃に当時の係長に教わりました。商談に生かせると」

「商談に」

「そうです。バイヤーに響くそうです。実際そうですよ」

「なるほど。もしあまり美味いと感じない時はどうするんだ」

「正直に言います」

「それじゃあ売れるものも売れなくなるじゃないか」

「足りないと思うことを正直に伝えた上で、美味しく食べられるようなメニュー提案をします」

「その方が説得力がある訳か」

「バイヤーも“正直だ”と信頼してくれます」

 この係長は確かに成績優秀で、圭太はその理由が今更ながら分かったような気がした。他の営業所員にもそれぞれのノウハウがあるかもしれない。そのノウハウを皆んなで共有出来れば営業力は確実に上がる。

 明日から早速、一人ひとり面談をしてみようと圭太は少しわくわくする気持ちを感じていた。


 最後の試食も終わり、いよいよ本格的な質疑応答が始まる。

「それではご質問やご意見のある方は挙手をお願いします」

参加者のおおよそ半数の手が上がった。最初の質問者に若手が多いのはいつもと同じ光景だ。

「提案があります」

野田係長が右手を上げたまま立ち上がった。

「順番に当てますのでお待ちください」

「いえ、そうではなく。質疑応答の進め方についての提案です」

「どういうことでしょう」

「はい。一人でも多くの人が質問が出来るように、質問は一人一つとしませんか」

「賛成!」

何人かが賛意を示した。頷いている者も大勢いる。

 これまでの説明会では、一人でいくつもの質問をして顰蹙を買う者が必ず一人二人いた。

「分かりました。ご提案ありがとうございます。それではそのように進行しますので、ご協力をお願いします」

「それからもう一つ」

「まだ何か」

開発担当者は少し苛つき始めていた。限られた時間である。そのような提案は会議が始まる前に言ってくれと言いたげだ。

 しかし野田は落ち着いたものだ。

「はい。誰かの質問と同じような質問がある場合は、その場で立って意思表示をします。回答に納得すれば座り、関連質問がある者は挙手して質問します。これを繰り返せば議論が行ったり来たりせず、逆に時間の短縮になるのではないでしょうか」

「確かにそうですね。それに我々も皆さんの疑問や問題意識がどこにあるのか把握出来ますので、助かります。そのような進め方でよろしいでしょうか」

複数の「異議なし」と大きな拍手が会議室に鳴り響いた。

“野田のやつ、やるじゃないか”

圭太は満足げに腰を下ろす野田を頼もしく感じていた。

 開発担当者の指名を受けて、まず一人目が質問に立った。

「試食した他社品も乳化剤を使用していると思いますが、当社品との違いは何でしょうか」

質問が終わらない内から、野田の提案通りに意思表示のため、多くの営業担当者が椅子をがたがたと鳴らしながら立ち上がった。

「乳化剤の種類が違います。乳化剤は多くの製品が販売されていて、機能や特徴も千差万別です。今回の新製品には異例ではありますが、乳化剤メーカーと共同開発した乳化剤を使用しています。共同で特許も申請しますので、他社は真似出来ません」

「特徴は?」

「従来にはないクリーミーな乳化が出来ることです。舌触りではシェフ品を上回っていたのではないでしょうか」

 ここまでの説明でほとんどの営業担当者が着席した。

「さらに乳化剤に特有の苦味もありません。これは乳化剤そのものにマスキング効果を付与したことによります。試食したシェフからは“乳化剤でこれをやられたら俺たちが積み上げた技術が無意味になる”と、最大限の賛辞とお墨付きを頂きました」

ここで全ての営業担当者が着席した。

「他にご質問は」

 最近の新製品は他社品との差はあまりなく、セールストークで特長を過剰にアピールしていた。今回は他社品との差は歴然で、一流シェフ品をも上回っている。会場にざわめきが渦巻いている。開発担当者も満足げだ。

「すみません。売価のイメージを教えてください」

「価格ガイドラインはこちらになります」

 モニターには『新製品価格ガイドライン』という資料が投影されている。特約店への請求価格である仕切価格、特約店から小売店への販売価格である標準卸売価格、そして店頭価格であるメーカー希望小売価格が定番や特売別に表記されている。シリーズ3品とも同じ価格で、業務用は仕切価格のみとなっている。

「機能も味もうちのに勝てるものは市場にはない。TVCMを観た客が売場に押し寄せる。露出を意識した商談をするんだ。値引きせずにエンドに山積みしろ」

 支社長が立ち上がり、独特の大声で営業担当者を鼓舞する。

「業務用はとにかく試食だ。作ったものを持って行くんじゃないぞ。電熱器を持参してその場で作って食わせろ。テストキッチンにどんどん呼んでプレゼンしろ」

圭太の会社では全ての営業拠点に立派なテストキッチンが完備されている。

 支社長が腰を下ろしたので、開発担当者が後を受けて説明を続ける。

「今週末までには、電熱器や調理器具などをコンテナボックスに入れた試食商談用セットを各拠点に届けます」

「何セット頂けるのですか?」

「一人につき一セットです」

「家庭用担当者にも?」

「もちろんです」

新商品にかける会社の意気込みが分かるというものだ。

 この後、いくつか質疑応答があり、休憩を挟んで新商品発表会の説明が始まった。圭太の営業所では所長の指示で、既に主要な得意先には発表会の日程案内を進めている。

 一社でも多く、一人でも多く発表会場に足を運んでもらわなければならない。そして事前の商談でどれだけ得意先の高評価が得られるかに新商品発表会の成功が決まると言って良い。

 今日の会議を踏まえ、明日は各営業拠点で今後の進め方についてのミーティングが行われる。圭太が所長代理に昇格して初めての新商品発表会である。自身の担当先だけでなく、各担当者のサポートもしなくてはならない。

「よーし、やってやろうじゃないか」

「何ですって?」

「いーや、何でもない」


 所長の田中から司会進行を任された圭太は、幾分緊張気味に話し始めた。

「それでは昨日のマーケティング戦略会議を受けまして、新商品発表会に向けた打ち合わせを開始します。はじめに田中所長よりひと言お願いいたします」

「はい。昨日は丸一日の会議、その後の懇親会と皆さんお疲れ様でした。またこの時期が来ましたね」

 必死にペンを走らせてメモを取る者。滑らかにブラインドタッチでパソコンに打ち込む者。そして一言も聞き逃さず記憶に刻み込もうと所長の目をじっと見つめる者。昨日の疲れなど全く感じさせない、会議室はやる気に満ちている。

 会議に参加していないスタッフの元気な声が、壁越しに聞こえる。

「はい、はい、承知しました。和風だしの200gを20ケース追加ですね。はい、大丈夫ですよ。念のためファックスでもご発注頂けますか?いえ、受注センターではなく、営業所あてにお願いいたします」

「大変申し訳ございません。在庫を切らしておりまして、お届けが明後日になりまして。はい、はい、恐れ入ります。はい、もちろん朝一には。はい,はい、どうもありがとうございます」

 営業担当者が商談で担当エリアを飛び回ったり、会議に専念出来るのも優秀な内勤スタッフ達のお陰である。圭太は所長代理に昇格してスタッフの上司になったので、緊密なコミュニケーションを心掛けている。気持ち良く働いてもらうための心配りは不可欠だ。

 心配りと言っても大したことではない。外回りから会社に戻った時に「旨そうだから買って来た」とコンビニの肉まんでもアイスでも何でも良い、たまにそんな差し入れをするだけでスタッフからは「優しい」「私たちのことを大切にしてくれる」となるのだ。

 前任の若い所長代理は全国採用であることを鼻にかけて、地域採用に対して小馬鹿にしたような態度をとる。特にスタッフを下に見るような言動が目に余った。当然スタッフからは総スカンであった。

 明日から各担当者は得意先を訪問したりして、テストキッチンを利用したプレゼンや商談の日程調整を急ピッチで進めなくてはならない。主要な得意先に関しては、田中所長と圭太が分担して担当者と対応することも決めた。

 普段は温厚な田中所長もこの時期だけは部下への当たりが少しキツくなる。営業所全体がピリピリとした雰囲気になるので、圭太は逆に明るく振る舞うことを心掛けるようにしている。

「長田、サニーストアの村山本部長のアポはもう取れたか?」

圭太の問い掛けに若い長田は暗い表情で立ち上がった。

「いえ、それがまだ連絡がつかなくて」

 サニーストアは営業所では特に重要な得意先の一社である。そのため、田中所長と圭太、担当の長田と三人で訪問することになっている。自席で書類のチェックをしていた田中所長がさっと顔を上げて、長田に向かって何かを言おうとした。その厳しい顔付きから叱責であることは間違いない。

 圭太は立ち上がって田中所長の視線から長田を守るような位置まで移動した。

「村山本部長は多忙な方だからな。よし俺がアポを取ってやるよ」

「それが何度掛けても出て頂けなくて。メッセージも残しているのですが・・」

「まあ見てろって」

 田中所長は圭太に任せることにしたのか、元の書類に向き直っている。

「本部長、青木でございます。どうもご無沙汰しております。ええ、はい、ありがとうございます。相変わらずですが、お陰様で元気にやっています。はい、はい、いや今もその話をしてましてね。うちの長田が“本部長が電話に出てくれない”って言うもんですから、そうです、そうです、それで俺に任せろってことになりまして」

 本部長と親しげに会話する圭太の様子を見ながら、長田は次第に頬が緩んで行くのを感じていた。そして圭太のことを頼もしく、尊敬の眼差しで見つめている。

「お忙しいところ申し訳ありません。はい、はい、恐れ入ります。その日は所長の田中もお邪魔します。はい、そうなんですよ。はい、はい、いえいえ当然ですよ。営業所一番の最重要のお得意様ですから。フルメンバーでご対応させて頂きます」

 圭太が長田の方を向いて力強く右手の親指を笑顔で立て、長田は感謝の言葉を言いながら深々と頭を下げる。田中は二人を交互に見ながら小さく二度頷いた。


 新商品の目玉であるエマルショニストのサンプルとカタログ、さらに試食用の調理器具などが入ったコンテナボックスが大量に本社から届いた。サンプル置き場には入り切らず、会議室の奥半分が占拠されてしまった。

「さあ、いよいよ商談開始だな。みんな今日のうちに営業車にどんどん積み込んでくれよ。あれじゃあ会議も出来ないからな」

 圭太は庶務の責任者として事務所全体に響き渡るような声で営業担当に気合を入れた。

「やばいよ、荷台を整理しないと何も入らないよ」

「お前の車は後部座席も荷物で溢れかえっているからな」

 係長の野田が圭太に近づき、「ちょっといいですか?」と小声で言って打ち合わせブースに誘う。小さな丸テーブルに小さな腰掛け椅子が2脚。2人で打ち合わせるにはちょうど良いサイズ感である。

「どうした。難しい話か?」

「いえ、ちょっと提案がありまして」

圭太はマーケティング戦略会議で野田が司会に対して同じように言っていたことを思い出した。

「うん」

「今回のエマルショニストですが、競合品と較べても違いは明らかで、試食すればまず間違いなく高評価を得られると思います」

「俺もそう思うよ。それが何か問題でもあるのか?」

「問題はその効果の仕組みを正確に、そして分かりやすく説明出来るかということです」

 野田は頭が良い。得意先からの難解な要望も紐解いて分かりやすく説明してくれる。その野田が懸念するのだから、これまでの新商品とは違うのかも知れない。

「商談資料は本部が用意してくれたじゃないか。あれでは上手く説明が出来ないというのか?」

「あれはあくまでイメージですよ。まあ、試食との合わせ技で、納得する得意先も多いとは思いますが」

圭太なら直ぐに同意してくれると期待していた野田は、落胆とイライラが声に出ないよう一呼吸おいた。

 圭太は何が問題なのか分からない。結論をはっきりと言わない野田の真意が見えない。

「とにかく試食。支社長もそう言ってたじゃないか」

「他社品との違いが明確であればあるほど、その仕組みを知りたいと思う人も多いのではないでしょうか」

「だからあの資料じゃ」

「乳化剤は千差万別です。複雑過ぎて専門家でもない我々に説明のハードルは高いと思います。それに特許出願を準備していて、肝心のところはオープンに出来ないので、説明がイメージにならざるを得ないのです」

 圭太はようやく野田の懸念事項が朧げながら分かって来た。一般消費者はテレビコマーシャルを観て飛び付いてくれるだろう。新しい商品を一回は試してやろうという消費者は一定数いる。特に今回は人気アイドルグループがテレビコマーシャルやイベントにと頻繁に登場するので、普段料理などしない若者の指名買いも大いに期待出来る。

 問題はスーパーのバイヤーと外食店のメニュー開発担当者だ。彼らはイメージだけで首を縦には振らない。特に大手企業の場合は、売り込みを断ることが仕事だと言われる程である。論理的かつ簡潔に説明することがいかに困難であるか、圭太もようやくにして野田の懸念事項にまで辿り着いた。

 しばらく黙り込んでしまった圭太に野田がもう良いだろうと話し掛ける。

「いかに説得力のある説明が出来るかが課題だと思います」

「うん、良く分かったよ。野田の言う通りだ。本格的に商談やプレゼンが始まる前に対策を立てないとな。何か良いアイデアはないか」

「正直、これといったものが思い浮かばないんですよ」

「皆んなでロールプレイングでもやるか。なんてな」

「ロールプレイング?」

「いや、冗談だよ。闇雲に商談の真似事をしたって意味ないからな」

「いや、それいいんじゃないですか。やりましょうよ、ロールプレイング。良いアイデアが出て来るかも知れないですよ」


 金曜日の午後6時過ぎ、外出先から戻った営業担当者が全員、会議室に揃った。

「帰社そうそうお疲れのところ申し訳ない」まず圭太が口火を切り、簡単な挨拶の後、会議の主旨を説明する。

「新商品のエマルショニストは、みんなも試食した通り競合品を圧倒しており、専門店の味と同等、あるいはそれ以上と言っていい。開発メンバーは素晴らしい仕事をしてくれました」

 所長代理に昇格してから所員の前で話す機会も増え、圭太の話し振りは堂々としたものである。

「さらにマーケティングや広告担当も気合いが入っています。あとは我々営業部隊の頑張り次第で、エマルショニストが画期的な商品となるのか、並の商品で終わるのかが決まります」

 今日の打ち合わせに田中所長は出席していない。最近は所長代理である圭太をリーダーとした組織運営を意識しているようで、係長の野田を補佐役とし、田中所長は一歩引いた態度に徹している。

「本日集まって頂いた目的は、得意先にエマルショニストの商品特長を正しく伝えられるよう、我々のセールストークを磨き上げることです。但し、お手本はありません。みんなで作り上げる必要があります」

「青木さん、マーケティング部がプレゼン資料やQ&Aを用意してくれています。それではダメなのでしょうか?」

「残念ながら充分ではありません」

 圭太のアイコンタクトに応えて、野田が手元のノートパソコンに目を落としてから説明役を交代した。

「こちらがマーケティング部が作成したプレゼン資料で、エマルショニストの乳化効果の仕組みを説明したページになります」

「イラストを上手く活用していて、余計な説明をしなくても見ただけで仕組みが理解出来ますよ」

 先日のマーケティング戦略会議でも使用されていて、いがみ合う水と油を乳化剤が仲を取り持って笑顔にしている例のページである。

「残念ながらこのページは、乳化剤の仕組みを説明しているに過ぎません。競合品に使用されている乳化剤とどう違うのか、シェフ達が技術力で乳化する仕組みと何が違うのか。これらを明確に説明しなければならないのです」

 会議は開始5分にして既に発言する者がいなくなった。圭太と野田は事前の打ち合わせ通り、皆んなの発言を粘り強く待っている。数分の沈黙の後、若い長田が遠慮勝ちに手を挙げた。

「あのーよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「正直、私も自信がないというか、つまり上手く説明出来るのかなと。特にサニーストアのバイヤーだと・・」

 長田が担当するサニーストアは、営業所では最重要の取引先に数えられる。特に加工食品担当の二宮バイヤーは気難しいことで有名で、気に食わなければ有力メーカーの主力商品でも定番からカットしてしまう。一方で無名の地方メーカーの商品を見出して、人気商品に育て上げることもあり、業界では一目置かれるバイヤーである。

「あのー、どなたか二宮バイヤーになって、私と模擬商談をやって頂ければありがたいんですが。いや冗談です。すみません」

「いや、面白いじゃないか。俺も3年間サニーストアを担当していたので、二宮バイヤーの難しさはよく分かるよ。“長田さん。そんな訳の分からない説明でこの商品が売れると本気で思ってる?魂が籠ってない!」

この“魂が籠ってない!”は二宮バイヤーの口癖で、会議室は爆笑に包まれた。

 圭太は目に力を込めて野田を見た。野田も圭太に応えるように笑顔で親指を立てた。

「長田くん、提案ありがとう。実は青木さんとも相談して、ロールプレイングをやりたいなと思っていました。ご存知のようにロールプレイングは」

 野田はロールプレイングをどのように行うか、簡潔に説明した。皆んなからは質問ではなく、進め方のアイデアが次々と出された。

「それでは提案者の長田くんから始めようか。サニーストアの二宮バイヤー役は、立候補する人はいませんか?」

「野田さん、推薦でも良いですか?」

「もちろんです」

 野田は営業所の雰囲気が良くなっていることが嬉しくて堪らない。感動すら覚えている。

「青木さんにお願いしたいのですが」

賛成という声がいくつか重なり、拍手が鳴り響く。

「よし、やるか」

 圭太はバイヤー役が回って来ることを想定していたので、心の準備は出来ている。更に大きな拍手と歓声が鳴り止まない。

「青木さん。本日の業務は終了しました」

スタッフ3名が会議室の入口に並んで立っている。

「ご苦労さま。気を付けて帰って」

「あの、私たちもロールプレイングを見ても良いですか?」

圭太が何かを言う前に、「どうぞどうぞ」「緊張するなあ」「おい、そこ空けろよ」「今日は皆んなで決起大会だ。飲むぞ」と大いに盛り上がる。


 圭太と長田が向かい合って座る。臨場感を高めるため、本番さながらの商談を再現することにした。拍手、ヤジ、大声での笑いは禁止だ。長田の隣には帳合問屋である昭和食品の担当者役も座っている。誰からともなくスマホを取り出し、消音モードをオンにする。ぶっつけ本番なので、何を発言しても良いルールである。

 静寂の中、長田が咳払いを一つして、商談を開始した。圭太もやや緊張しているようだ。

「本日は春の新商品をお持ちしました。まず初めに弊社一押しをご紹介します」

 昭和食品の担当者が「商品カルテ」をさっと取り出し、タイミング良く二宮バイヤーの前に置く。ちらっと視線を落としただけで、二宮バイヤーは視線を長田に戻す。長田も二宮バイヤーの目を見たまま、説明を続ける。

「商品説明の前に、まずはご試食をして頂きます」

「えらい自信だな」

 二宮バイヤーはお手並み拝見とばかりに右の口角を少し上げて、本人は笑ったつもりのようだが、商品カルテを乱暴に持ち上げて目を通す。長田は電熱機に小振りのフライパンを乗せて、予め湯掻いておいたパスタにエマルショニストを絡めて調理する。

 まずはチーズ&ベーコン。無言は禁物なので、手を動かしながら何か話さないといけない。しかし“まず試食を”と言った以上、商品説明は出来ない。

「今年は各社とも新商品が多いらしいですね」

「そうみたいだな」

「弊社も過去最高のアイテム数になりますよ。特にこれは家庭用、業務用で同時発売ですから、何から何まで異例ですよね」

「デリカとはもうやったのか?」

 デリカとは惣菜部門で、つまり業務用のエマルショニストを惣菜担当バイヤーに案内したか?ということである。

「いえ。ものには順序がありますからね」

 圭太は長田を見直す思いである。気難しい二宮バイヤーの扱いをよく心得ているのだ。もし「デリカには先日案内しました」とでも言おうものなら、二宮バイヤーは烈火の如く怒るであろう。二宮バイヤーは自身や自社を蔑ろにされることを最も嫌うからである。

 それなら圭太は更に突っ込むまでだ。

「順番とは?」

「二宮バイヤーのご評価を参考にしてアピールポイントも見直しますから。今日の商談が営業所のトップバッターですよ。うちの野田が先に取った他社のアポもリスケしてもらいましたから」

野田が大袈裟に肩を窄めて“やれやれ“とばかりに首を振ったので、さざなみのような笑いが広がった。

 手際良くフライパンを振っていた長田が、出来上がったパスタを紙皿に盛り付ける。

「お待たせしました。弊社の新商品、エマルショニストを使用した、チーズとベーコンのパスタです。ご評価をよろしくお願いいたします」

 それまでのフレンドリーな受け応えとは一変し、長田は表情を引き締めて紙皿を丁寧に二宮バイヤーの前に置く。

「具材は何も足さないのか?」

「これだけ入っていれば充分でしょう」

二宮バイヤーは紙皿を小さく回すようにしてちょっと匂いを嗅ぎ、一旦掴んだプラスチック製のフォークを割箸に持ち替えた。

 前歯で小気味良く割り箸を割き、器用にパスタを持ち上げると、二宮バイヤーは大口を開けてパスタを勢い良く放り込んだ。

「うん」

二宮バイヤーのいつもの味わい方だ。まず口に入れた瞬間の印象を大切にしている。

「なるほど」

 次に咀嚼を二、三度繰り返す。どうやら悪くないようだ。

「やるじゃないか」

飲み込んだ後の余韻、後味まで全てを合わせた評価である。

「ありがとうございます。次に」

「もういいよ。この完成度なら他も同じだろうよ。さあ、説明してくれ」

 いよいよだ。二宮バイヤーは一見大雑把なようだが、思考は極めてロジカルである。感覚的な、イメージ優先の説明では決して納得はしない。長田はここまでの流れは既にシミュレーション済みである。二宮バイヤーがどんな反応をしょうが、何を言おうが、全て想定内である。

 本番はここからだ。

「よし、一度ここで切ろうか」

二宮バイヤー役の圭太は、急に表情を和らげて会議室のメンバーを見回す。2人の迫真の演技が中断し、ふぅと大きく息を吐く者、ペットボトルを開けて水をぐいと飲む者、隣同士で感想を言い合う者など、張り詰めていた緊張感が一気に緩み、会議室がざわつく。

 長田もハンカチで額を拭い、ミネラルウォーターでからからになった喉を潤している。圭太が笑顔で労いの言葉を掛けるが、「これからが本番です」と表情は張り詰めたままだ。

「それじゃあ再開するか」

「はい。お願いします」

「さあ、説明してくれ」

「競合品との大きな違いは乳化剤にあります。これまでは複数のメーカー品をあれこれ試して、最後は最もコンセプトに近いものを採用していました」

「乳化剤は数が多過ぎて困るよな。最後は妥協するしかないと聞いたことがある」

「仰る通りです。そこで今回は乳化剤メーカーと共同で、エマルショニスト専用の乳化剤を開発しました」

「微調整程度ならカスタマイズをしてくれると聞いたことがあるが、そういうことか?」

「いえ、それとは次元が違います。一から両社で開発をして、現在は共同で特許出願の準備をしているところです」

「それじゃあ詳しい仕組みは何も話せないと?」

「申し訳ありません」

 二宮バイヤーは納得がいかないと顔を左右に振る。そして提案書をぱらぱらとめくって、テレビコマーシャルのページをパチンと指で弾く。

「凄い出稿量だな。アイドルに何て言わせるんだ?」

「やっと契約が出来た段階で、まだ撮影していないのですが、絵コンテでは“とにかく食べて!”を連呼しています」

「業務用は?」

「確か“とにかく使って!”だったと」

「そんなCM垂れ流して、相当カネが余ってんだな。さあ、他と何がどう違うのか、説明して貰おうか」


 営業所では朝から圭太と野田、そして担当の長田はプレゼンの準備でバタバタである。今日の10時にサニーストアの二宮バイヤー、もちろんシミュレーションではなく本物、が惣菜担当の浅井バイヤーと2人で営業所にやって来る。会議室でプレゼンの後、テストキッチンで試食というスケジュールである。

「バイヤー殿は誰が迎えに行くんだ?」

田中所長に質問されて長田は焦る。

「あっ、いや、その、迎えは良いよと言われましたので・・」

「ご自宅からか?」

「いえ、会社からと仰ってました」

営業所からサニーストア本部までは車で20分もかからない。

「じゃあちょっと迎えに行って来るか。バイヤー殿に連絡を頼む」

「それじゃあ私が迎えに」

「しっかり準備をしておいてくれ」

「申し訳ありません」

 圭太が長田に近寄り背中をとんと叩く。

「気配りの人だからな。俺たちも見習おう。後で反省とお礼を言っておくから、気にするな」

「はい」

「ほら元気出せよ。二宮バイヤーに突っ込まれるぞ」

「青木さーん。ちょっと座席の配置について確認して頂けますか?」

野田が会議室で呼んでいる。

「おう。今行く。ところで材料の仕込みは出来たか?」

「はい。もう終わりました」

「よし。気合い入れて行くぞ」

「はい!」

 会議室では野田が絶妙な配置で机や椅子を並べていた。

「うん。良いじゃないか」

「田中さんがお迎えに行って下さったんですね」

「あぁ。俺の判断ミスだな。長田に悪いことしたよ」

「プレゼンで取り戻しましょうよ」

「そうだな」

 全ての準備と最終確認を終えた頃、田中所長の大きな声が事務所中に鳴り響いた。

「皆んな、サニーストアさんが到着されたぞ!」

「いらっしゃいませ」

「お待ちしておりました」

「本日はお忙しい中ありがとうございます」

スタッフを含めて全員が立ち上がって二人のバイヤーをお迎えする。

「相変わらず熱烈な歓迎ぶりですね。お世話になりますよ」

「二宮バイヤー、浅井バイヤー。本日はお忙しい中、貴重な時間を頂き、」

「長田くん、そんな堅苦しいあいさつはいいよ。それより所長自らお迎えに来て頂いて、恐縮だよ」

「私が気遣い出来ずに申し訳ありませんでした」

「いやいや、良いチームワークじゃないか。田中所長の人徳というものだよ」

「恐れ入ります」

「じゃあ、早速聞かせてもらおうかな。浅井、よーく勉強させてもらえよ」

「承知しました」


 まずは来年度の販売戦略からで、これは圭太から説明する。悠に100ページはあろうかという資料を真っ赤なファイルに挟んで配布しているが、大きなモニターにも写し出しているので、二宮バイヤーは腕組みして、浅井バイヤーは大学ノートにメモをとりながら、前を向いて説明に聞き入っている。

 そしていよいよエマルショニストの説明と試食の時間となった。これが本日最後のテーマである。長田は説明のために立ち上がりながら、さり気なくテストキッチンに視線を送る。試食作りの準備を始めて欲しいという合図である。頷いた野田がテストキッチンの奥に消えた。試食品を提供するタイミングがポイントとなるので、野田が自ら買って出てくれたのだ。まさに営業所挙げてのプレゼンであり、サニーストアはそれだけ重要な得意先ということである。

 長田は緊張した様子もなく、強弱を上手く付けながらエマルショニストの特長を説明し、二宮バイヤーは納得した様子で小さく頷いて聞いている。

「ということで、これよりご試食頂いて、ご評価を頂戴出来ればと思います」

「キッチン、お願いします」

圭太の掛け声と同時に、トレーに載せた試食品を野田が捧げるように持ってゆっくりと歩いて来る。その後からは電熱器を二つ重ね持った田中が続く。所長も今日は裏方に徹している。

「おや。運転手の次は荷物運びですか」

「この営業所では一番の暇人ですから」

 手際良く両バイヤーの前に電熱器をひとつずつ置き、予め下茹でしたパスタや材料を乗せた皿も並べる。タイミング良く調理したのか、勢い良く湯気が立っている。

「何だ。俺たちに料理をしろってか」

「生活者や料理人がどう感じるか実感して頂ければと思います。ターゲットはユーザーですから」

「二宮さん、面白そうそうですよ」

 浅井は白いワイシャツの長袖を捲り上げながら、立ち上がる。

「段取りを説明してくれ。冷めては上手くない」

「まずフライパンにエマルショニストを入れてゆっくり掻き混ぜながら温めてください。お味はお好きな物を」

「じゃあ、ガーリック&アンチョビだな」

「それではバター&ポルチーニ茸にしましょう」

「チーズ&ベーコンをお願いします」

長田がテストキッチンに向かって、選ばれなかったもう一種類を作るよう声を掛けた。

 両バイヤーの調理と並行して、別のテーブルにもう2名分の調理セットが用意されている。エマルショニストを入れずに、つまり乳化剤を使用せずに調理をし、試食してもらうためである。普通はコントロールと呼ばれる比較品を初めに試食するのだが、今回は敢えてエマルショニストの試食を先にした。明らかに差が認められ、効果的だと判断したからで、新商品に対する自信の表れでもある。

 両バイヤーは調理したものを半分ずつ交換し、さらにキッチンで作っていたものと合わせて、3種類の紙皿と割り箸がそれぞれの前に並んでいる。

「割り箸はもったいないから1つで良いよ」

「恐れ入ります」

「じゃあ早速こいつから試してみるか」

二宮バイヤーはガーリック&アンチョビを持ち上げ、ちょっと香りを嗅いだだけで割り箸でかき込むようにして一口で食べ、数回咀嚼しただけで飲み込んでしまった。

 隣で浅井バイヤーは左手に持ったバター&ボルチーニ茸の紙皿を角度を変えて眺め、大きく鼻から香りを吸い込み、具材の量を細かく確認した後、一口分を口に含んで何度も咀嚼を繰り返している。

「そんなことをしてたら口の中で腐っちまうぞ。生活者はそんな食べ方はしないんだよ」

 野田が笑顔を圭太に向けて親指を立てている。かつて圭太と野田の間で同じようなやり取りがあった。野田と二宮バイヤーが同じ見解であることが分かり、野田は勝ったとばかりに喜んでいる。

 3種類のエマルショニストの試食を終えて、二宮バイヤーが浅井バイヤーに評価を先に言うよう促す。

「どうだ。先に言ってみろ」

「はい。競合品との違いは明らかです。乳化作用によって調味液とオリーブオイルが一体となって、何とも言えず美味しく仕上げていますね」

「明らかな違いは同感だ。但し、俺たちはバイヤーなんだから、“何とも言えず”じゃダメなんだ。何がどう違うのか説明してみろ」

 浅井バイヤーは少し言い淀んだが、数秒の沈黙の後、ひとつ咳払いをして、再び話し出した。目力が凄い。

「失礼しました。新商品の方ですが、ソースがただ乳化されているというレベルではなく、舌触りが非常に滑らかです」

「それで」

「はい。もはや甘いの塩っぱいのという言葉では言い表せません。様々な旨みが分子レベルで渾然一体となって、私の味覚に襲いかかって来るようです。初めての感覚です」

「それだ。ちゃんと出来るじゃないか」

「ありがとうございます」

「長田さんよ。何でこんなふうに出来るのか、説明をしてもらおうか」

「はい」


「今回の新商品でありますエマルショニストに使用しています乳化剤は、既にご説明の通り、メーカーと共同開発した全く新しいものになります。現在、特許出願の準備をしていますので、オープンに出来ない情報がありますことをご了承下さい」

「言える範囲で構わないよ」

「ありがとうございます」

 長田はここでペットボトルの水で口内を潤す。

「正直に申し上げますと、仮に全ての情報をオープンに出来たとしても、私にはとても科学的な説明は出来ません」

「こっちだって分かんないよ」

「目指したのは圧倒的に滑らかな乳化です。試行錯誤を繰り返し、最適な乳化剤を遂に開発することが出来ました。ところが滑らかな口当たりや味のまとまりだけでなく、味の広がりが全く違うことを発見したのです。そして余韻となる後味まで、他にない美味しさを実現することが出来ました」

 長田は上手く伝えることが出来たか自信がなく、さらに言葉を繋ごうとしていると二宮バイヤーの大きな声が聞こえた。

「もう充分だ」

二宮バイヤーがゆっくりと立ち上がり、田中所長に近づく。浅井バイヤーも後に続く。

「所長、良い商品を作りましたな。ありがとう。しっかり売らせてもらいますよ。デリカも頼むぞ、浅井」

「もちろんです。メニュー開発が楽しみです」

「お前の表現はなかなか良かったぞ。“分子レベルで渾然一体”ってやつな。青木さん、他の商談で使って良いぞ。もちろん無料でな」

 田中所長が二宮バイヤーに深々と頭を下げ、浅井バイヤーにも同じようにした。圭太と野田は笑顔でハイタッチをしている。

 そして長田は、既に涙ぐんでいる。何か言おうとしたが言葉に出来ない。やがて人目も憚らず長田が号泣し、それを見た浅井バイヤーが貰い泣きした。

「いやいや。熱い集団だね」

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