丘の上の罪人
平山芙蓉
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荒れ果てた丘の上を、雨上がりの湿った風が抜けていく。季節も相俟って、温度は冷たい。そいつはその冷たさからは考えられないくらい、とても優しく僕の肌を撫でてくれるけれど、生憎と傷だらけの全身にとっては、ただただ痛いだけだった。
俯けていた頭を擡げ、正面を向く。視線のずっと遠く先に、ぼんやりと町の影が見えた。ホールケーキみたいな形の町で、中心部にはシンボルである巨大な塔が伸びている。僕はあの真下で暮らしていて、その頃は天を貫く勢いだとか、町の誇りだ、なんて思っていた。でも、ここからこうして望めば、全くもってそんなことはない。空はもっと高いところにあるし、視線を右へ少しずらすと、町の塔よりも高く、大きな山が、僕の矮小さを嘲笑うかのように聳え立っている。中心部からは見えない角度にある山だ。名前は知らない。名前なんてあるのかさえ知らない。そもそも、この丘に来るのは、普段なら処刑される罪人と、執行人だけだから、あったとしても知る由がない。
磔にされた身体から力を抜いて、下を向く。地面には血だまりができていた。雨で流れたと思っていたけれど、よく考えてみれば、この身体からは今も、とくとくと血が溢れ続けているのだ。
そう。
僕は罪を犯したらしい。
らしい、というのは、判決の下るその瞬間まで、罪を犯したという自覚がなかったということだ。
見せしめの磔刑に処された僕は、多くの町民に石を投げられ、最後には執行人によって、槍を突き刺された。
つまり、本来なら死んでいる頃。だけど、何故だか僕は生きてしまっている。あいつらの止めが、甘かったみたいだ。公開処刑という罰自体が、町が始まって以来のものだから、仕方がない。もっとも、今更助かったところで、手足には杭が打たれており、身動きが取れないのだけれど。
僕はそれだけの罪を犯してしまったのだろうか?
亡っとした意識で、自分を振り返ってみる。
僕は町長の不正と、その汚らわしい恩恵を得ている人間たちを、摘発しようとしただけだ。そうしなければ、あの町に住む多くの人々が被っていた不利益は、延々と続くことになるのだから。僕は徒党を組んで、奴らに挑もうとした。もちろん、挑むと言っても、平和的にだ。誰かを殺そうとか、憎悪のままに動いてやろうなんて、ちっとも考えていなかった。
でも結局、力不足だった。いや、自分が考えていたよりも、相手は巨大で、権力を持ち合わせていた。僕についてきてくれた仲間が、最後の最後に、町長の側へ寝返ってしまうくらいには。
そうして、反逆罪という烙印を押された挙句に、僕は町の秩序を乱した人間として、多く人々の敵となってしまったというわけだ。
孤独に、死んでいく。
沢山の憎悪を、身体に受けながら。
憎かったわけじゃない。
救いたかっただけだ。
そして、改めてもらえれば、それだけで良かった。
その気持ちだけは、誓って嘘ではない。
……もう誓う人も、神だっていないのだけれど。
血だまりに映る自分の影から目を離し、空を仰ぐ。分厚い雲に塞がれ、太陽は見えない。まだまだ雨模様で、いつ降り出してもおかしくなかった。
「この調子じゃ、天国なんて行けやしないな……」
渇いた喉から、自然と言葉が出てくる。
正しい行いをした人間だけが、そこへ導かれるのならば、磔刑に処された僕の許へ、天使が訪れてなどくれないだろう。このまま、次に目が覚めた時、目の前に広がっているのは地獄に違いない。酷い土地だと、書物には記載されている。今僕の見ているこの景色と、どちらの方が酷いのだろうか。ここよりも酷い光景なんて、正直なところ想像も付かない。
比べてやろう。
せめて、向こうに棲む悪魔とかいう奴への、良い土産話にはなるだろう。
そんなつまらない思考ばかり巡る意識の中、
背後から何か、物音がすることに気付く。
がりがりと、地面に散らばった小石を踏む音。自然ではない。生きているものだ。血の臭いに釣られてやってきた、獣の類かと思ったけれど、どうやらそうでもない。間違いなく、人の気配。
誰だ?
背後は町と反対方向だから、住民や、殺し損ねたことに気付いた処刑人が戻ってきた、なんてことはないはずだ。身を捩って確かめようとしても、身体が上手く動かせない。。
そうして、近寄ってきた足音が、僕の真横で止まる。首を動かして隣を見遣るとそこには、薄汚れた服を纏った少女が、僕の顔を覗いていた。
「やあ」僕は笑って、彼女に声をかける。口の周りの筋肉を動かすだけでも、疲れる。けれど、愛嬌を振りまいて悪いことはないだろう。
「何してるの?」
少女は僕の正面に回って、そう聞いてきた。笑顔の僕とは違って、不愛想な表情をしている。それに、顔は泥塗れで、髪は長い期間、洗っていないのか、酷くぼさぼさだ。背中には、蝸牛の殻を彷彿させる、大きな背嚢を背負っている。
「見て分からないかい? 殺されたんだ」僕は彼女を見下ろして答える。
「生きてるじゃないの」
「もうすぐ死ぬ。今は誤差みたいなものだ」
「よく分からないことを言うのね」少女は僅かに、眉根に皴を寄せた。「人間の生死は、そんなに両極端な状態じゃないと思うけど」
「説法は止めてくれ。これからどうやっても助からない僕にやったって、何の意味もないからさ」
「まだ助かるかもしれない」
そう言って、少女は僕の言葉に耳を傾けず、背負った背嚢を地面に落とした。血と雨水をふんだんに吸った地面から、卵の割れたような音が鳴る。汚れることも、彼女は厭っていない様子だ。
「……何をしているんだい?」僕に背中を向けて、背嚢を弄る彼女に声をかける。
「痛いのは我慢できるよね。それだけ血だらけでも、生きてるんだから」
「おい……」こちらに向き直った少女の手には、大きな工具が握られていた。長さは彼女の胴と同じくらいはあるだろうか。それを使って、少女が何をしようとしているのか、察するのは簡単だった。「止めてくれ。もう助からない、って言っただろう?」
「分からない。もしかしたら、どうにかなるかもしれない」
制止しても、彼女にその気はないらしい。視線と工具の先を僕の足許の杭へ遣って、それを宛がう。彼女の腕に、力が込められ、死んでいた痛みが蘇る。粘度の高い血液が、傷口から溢れていく。声を押し殺そうにも、声は胃の底から漏れてしまう。そんな呻きさえ無視して、少女は杭を荒々しい手つきで抜く。
「まずは足、終わった。次は……、左手からいこうか」
自由になった両脚が、だらりと垂れ下がる。その分、自分の両手に体重が加わって、痛みが激しくなる。そんな僕の荒い呼吸など気にも留めず、少女は工具を宣言通り、左手へと伸ばす。足の痛みよりも、酷くはなかった。慣れてしまったからだ。けれど、そんな慣れなんて、気休めにもならない。身体中の神経を駆けて、拒絶の意を含んだ血液と声になり、少女に制止を訴えかける。正直に言えば、杭を打たれた時よりも、激しい痛みを覚えた。そもそも、磔刑となり、殺されたはずの人間が、こんな痛みを知っているはずがない。
苦悶に耐えているうちに、左手の杭が外される。少女は相変わらず、最後の杭を外す作業に着手していた。意識が何度も飛びそうになる。恐らく、飛んでしまえばお終いだ。その前に、彼女へ一言、文句を言ってやろうと思って、精神を痛みに集中させて、意識を保つ。
そうして、最後の杭を外された僕は、地面へと叩きつけられた。口の中に、鉄臭い泥の味が広がる。少女は僕を受け止めてくれるわけでもなく、起こしてくれるわけでもなかった。それどころか、杭を外した途端に、興味を失くしたのか、配管工事を終えた作業員のように、道具を背嚢に仕舞う。そして、また背負うと、町のある方角へと歩き出した。
「ちょっと、待ってくれ……」僕は地面に顔を擦りながら、少女を呼び止める。すると、案外素直に立ち止まってくれた。
「何?」彼女はこちらへ首だけを回した状態で、僕を見下ろす。
「どうして助けたんだ?」僕は穴の空いた手で上体を支え、少女を見上げた。
「あなたの身体が、助けてくれ、って言っていたから」
「それはただの主観だろう?」僕は片肘に体重を乗せたり、膝を使ったりして、何とか立ち上がろうと試みる。今ここで這いつくばったままだと、少女は簡単に、この場から去ってしまいそうだったからだ。聞きたいことを聞くまで、引き留めておきたい。「僕は……、僕の言葉は、助けてくれなんて言っていない」
「あなたもしかして、他人の言葉なんて信用しているの?」
少女はそこで、初めて笑った。僕たちを取り巻く空気のように、冷たい笑みだった。つまらなさそうな態度は変わっていないけれど、どういう心境の変化か、彼女は再びこちらへ近寄ってくる。そして、僕の目の前で徐にしゃがんだ。
「世の中で、言葉よりも精確なのは、感覚だけよ。つまり、見たモノ、聴こえたモノ、におったモノ、味わったモノ、肌に触れたモノ。たったそれだけ。人間の発する言葉よりかは、少なくともマシ。だから、あなたがどれだけ助けてくれなくて良い、なんて言ったところで、私の目には、あなたの身体が救いを求めているように見えた。だから、助けた方が良い、って判断しただけ」
「傲慢だね……」僕は、彼女の意見に呆れて、つい笑ってしまった。
「それに、助けてもらいたいから、あなたの身体は必死に生きようとしたのよ」
そう言いながら、少女は背嚢から水筒を取り出すと、僕の顔の前に置いた。とくん、と内部で水の音が揺れる。それを耳にして、どういうわけなのか。喉の渇きを一層、強く覚え、乾いた唾を飲んでしまった。
彼女は僕がそうなることを、理解していたのだろう。どこか意地悪な笑みを浮かべて、水筒の蓋を開けた。
本当に、少女の言った通りらしい。僕は、僕が想像しているよりも、生を望んでおり、死んでいるという自分の言葉さえ、否定しようとしている。
恥も知らず。
敵も知らず。
だから……。
「いい。必要ない」眼前の救いから、僕は目を背ける。
「あら? 良いの?」
「さっきも言っただろう? 僕はもう生きていけない。殺されたんだ。悪意を、被った後なんだ。自分の正しさが、世界の正しさとは違っていたんだ。だから、恥を晒してまで、生きていくつもりはない」
僕は身体から力を抜いて、地面に伏せた。頬に泥濘んだ感覚が触れる。とても冷たい。冷たいけれど、それは子どもの頃、よく僕を褒めてくれた祖母の手の平みたいに、感触は柔らかかった。
そんな僕に対して、少女は溜息を一つ吐く。視界の上では、彼女が水筒を仕舞い、立ち上がる影が見えた。
「誰かの評価がないと生きていけないなんて、つまらないね」淡々とした少女の声が、頭上から聞こえてくる。僕は何も応えず、ただその声に耳を傾ける。「どういう経緯があったのかは知らないけど、あなたがこんな目に遭ったのは、自分の正義を貫いた結果だと思ってた。でも、それさえ自分で否定して、貶してしまうなんて、確かに、うん……、生きている意味なんて、ないかもね」
僕に落ちていた少女の影が、離れていく。僕は首を静かに動かして、彼女へ目を遣る。よく観察すると、明らかに栄養の不足した、華奢な身体だ。四肢なんて、ともすると、この辺りで枯れている木の枝よりも細い。吹き荒ぶ風で、倒れたりしないか心配だ。そんな身体で、よくあの工具の入った大きな荷物を背負えるものだ、と素直に感心してしまう。
「なあ……、君はどこへ行くんだ?」僕は遠くなりつつある少女の背中へ、声をかけた。
「私は、あの町へ行くわ」彼女は立ち止まらずに、そう答えた。
「止めておいた方が良い。あの町は最悪だ」
「あなたの感想は聞いてない。良いか悪いかは、私が決める」
そう言い棄てて、少女は荒れた丘を下り、町へと向かう。その背中はすぐに小さくなり、僕の目では捉えられなくなってしまった。遮るものなんて、何もないはずなのに。動くモノは、何も見えない。
でも、その原因が僕の目が、既に霞みかけているからだ、と気付く。現に、自分の手を見ても、輪郭がぼやけてしまっている。どうやら、正真正銘の、終わりという奴が、僕の身体に止めを刺しに来てくれたらしい。
仰向けになり、空を見上げる。
最後くらい、大きな空を目にしていたい。
欲を言うのなら、青空が良いのだけれど……。
そんな願いを聞き入れてくれたのか、
分厚い雲が割れて、黄色い陽光が溢れ出す。
けれども、光は僕の元には降り注がなかった。
背中を覆う泥と、冷たい風だけが、僕を強く抱いている。
正しいことをした人間だけが、あの光を浴びられるらしい。
悪と裁かれた僕に、その迎えはない。
少女はどうなのだろう?
途切れていく意識の前を、そんな疑問が過った。
自分だけが正義と信じる彼女は、
あの光に迎えられるだろうか?
それとも、
僕と同じように、地獄へと落ちてしまうだろうか?
どちらにしても、
これから僕の行く方へは、来ないでほしいな、と思った。
彼女は全くもって、気にしてさえいないのだろうけれど。
「やっぱり、助からなかったじゃないか」
ここにはいない誰かに、僕は文句を言う。
鐘の音。
誰かの足音。
跳ねる泥。
僕はどこへ?
分からない。
でも、次があるのならば、
僕もあの少女のように、
正しさの中で生きていたい。
自らの信じる、正しさの中で。
そう……。
僕が欲しかったのは、
ただそれだけの人生なんだ……。
丘の上の罪人 平山芙蓉 @huyou_hirayama
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