04 目覚めたら即妃に

 重い瞼をゆっくり開けたとき、眩しさでとっさに目をつむった。しかし、すぐに我に返って力強く目を見開く。


「目が、目を開けられました!」


「報告を!」


 ばたばたとすぐ近くに人の気配があり、続けて凜風の視界には見知った人物が映った。


「春蘭!」


 心配そうに顔を覗かせた相手の名を反射的に呼び、凜風は上半身を起こした。そして次の瞬間、どういうわけか春蘭に力強く抱きしめられる。


「よく……よくご無事で。丸二日目を覚まさないでいたので、どうなることかと……。私がついていながら申し訳ありません。本当によかった」



 安堵した声が耳元で聞こえ、突然の抱擁に頭が回らない。しかし今はそれどころではないと、凜風は春蘭を突き飛ばすようにして距離を取った。


「私なんてどうでもいいの! 珠倫さまは!? 珠倫さまは無事なの?」


 切羽詰まった凜風の問いかけに、春蘭は虚を衝かれた顔になる。けれど春蘭はすぐに優しく微笑んだ。


「ああ。ご心配には及びません。凜風も無事です。一足先に目が覚めてあなたの心配をしていましたよ」


 目覚めたばかりだからなのか、春蘭の発言内容が凜風には理解できない。


(誰が、誰の心配をしているの?)


「えっと、無事なのは珠倫さま?」


 改めて問いかけると、春蘭は心配そうな表情で凜風に視線を合わせてきた。


「なにか混乱されていますね。もちろんあなたは無事ですよ。これからどんな後遺症が出るかわかりませんから、慎重に過ごしてまいりましょう」


「待って。春蘭がなにを言っているのかわからない」


 やはり話の内容がどうしても噛みあわず、凜風は正直に告げた。頭も体も重く思考力も落ちているが、珠倫が無事なのはひとまずわかった。とはいえこれはどういう状況なのか。


「ひとまずお部屋に戻りましょうか、珠倫さま」


 混乱する凜風をよそに春蘭が穏やかに告げた。そこで凜風は自分の手を見て驚く。傷ひとつない滑らかな手、掴んだ一房の自分の髪は馴染みのある鳶色、ではなく艶のある黒髪だ。


(もしかするとこの体……私じゃなくて珠倫さま!?)


「違う、違うの。春蘭。私は凜風なの!」


 状況が飲み込めないまま凜風は叫んだ。ところが春蘭は真に受けず、労いの眼差しを向けてくる。


「落ち着いてください。彼女は大丈夫です。凜風も頭を打ったみたいで少し様子がおかしかったんですが……とにかく今は休みましょう」


 そっと背中を支えられながら告げられ凜風は目眩を起こしそうになる。


(どうすればいいの?)


「春蘭」


 そこで別の人物の声が聞こえ、凜風と春蘭の意識がそちらに向いた。


「凜風、大丈夫なのですか?」


(わ、私!?)


 現れたのは、凜風だった。自分が自分を見ている。なんとも奇妙な感覚だ。


「顔を見たくて……」


 おずおずと答えた凜風の声は、凜風が自分で認識しているよりもやや高く感じる。春蘭の視線がこちらに向いた。


「ああ。ご覧の通り、珠倫さまは無事ですよ? すみません、凜風。私はこの後のことを報告してきますので、少し珠倫さまをお任せしてかまいませんか?」


「ええ」


 そっと立ち上がり春蘭は部屋を出ようとする。


「あなたも本調子ではないんですから、無理はなさらないように。では珠倫さま、失礼します」


 春蘭が出て行き、凜風はおそるおそる自分に尋ねる。


「珠倫さま、ですか?」


「凜風?」


 そう呼ばれたことで凜風は確信し、珠倫の、正確には自分の体の元へ近づき膝を折った。


「やっぱり珠倫さまなんですね? ご無事でよかったです! って、どうしてこんなことに……」


 珠倫の無事を喜ぶ一方で、問題はまだ山積みだ。つまり凜風と珠倫の体が入れ替わってしまったという結論は間違いなさそうだが、原因もどうすれば元に戻るのかもがまったくわからない。


「ごめんなさい」


「珠倫さま?」


 神妙な面持ちで謝る珠倫に、凜風は尋ねた。


「あのとき、春蘭にこっそり睡眠薬を盛ってひとりで部屋を抜け出したの。……身投げするつもりで」


「身、身投げ!?」


 橋の上で見かけた珠倫の雰囲気から、尋常ではない状態だと直感したが本人から『身投げ』と聞かされると、やはり衝撃は大きい。


「な、なぜそのような真似を?」


 詰め寄る凜風に珠倫はそっと目線を落とした。


「実は……泰然さまから夜伽に召されて」


「え?」


 凜風は初めて聞いたが、おそらく春蘭経由でその話が伝えられたのだろう。女官としては主が第一皇子の相手に選ばれたなど嬉しくて誇らしい事態だ。入念に閨の準備を進めるのが通常だろう。


 しかし自分の顔なのに、珠倫の表情はどこまでも痛々しかった。


「馬鹿よね、ここでは名誉以外のなにものでもないのに……」


 身投げするほど思いつめていたとは、思いもしなかった。とはいえ身投げまでしなくても明星宮を出ることは可能なはずだ。しかしその考えをすぐに改める。珠倫の父が、曹家が許すはずがないだろう。


「嬪なんて地位いらないわ。生まれ変わりたい、別人になりたいと思って欄干に手をかけたら、凜風が現れて……。原因はわからないけれど私のせいよね。本当にごめんなさい」


「謝らないでください! 私の方こそおそばにいたのに、珠倫さまのお気持ちをまったく理解していなくて……女官失格です」


 珠倫ならきっと泰然に見初められ、嬪どころかもっと上の地位へ、それこそ正妃にだってなれるだろうと信じて疑わなかった。一方で、珠倫の口からそんな希望を聞いたことなど一度もない。


 凜風は気を取り直し、明るく告げる。


「とにかく泰然さまからの夜伽は、今回の件でしばらくないでしょう。その間に元に戻れる方法と珠倫さまがどうすればよいのかを一緒に考えます!」


 凜風の提案に、珠倫は泣きそうになりながら微笑む。


「凜風、ありがとう」


 その言葉だけで凜風の胸は満たされる。続けて凜風は春蘭について触れた。


「ひとまず、春蘭にはこの件をお伝えしましょうか。事情を理解していてもらった方が」


「それはだめよ」


「え?」


 春蘭には入れ替わりの事実をきちんと伝え、理解者になってもらおうという凜風の考えは力強く否定される。驚きで珠倫を見ると、彼女は気まずそうな面持ちになった。


「あっ……。春蘭はもうすぐ明星宮を去るのに、この問題に巻き込んでしまったら」


 告げてきた珠倫の言い分に納得する。たしかに性別を偽るだけでも彼の苦労は計り知れない。ここで珠倫との入れ替わりを伝えたら、さらに頭を悩ませ下手すれば明星宮を去るのを延ばすと言い出しかねない。それは彼の負担と性別が露見する危険性が増すだけだ。


「そうですよね。珠倫さまがかまわないなら黙っておきましょうか。それに私が珠倫さまではなく凜風だと伝えても全然、信じてくれませんでしたし」


 〝珠倫〟が目覚めたことで、その事実を前に春蘭もまともに取り合ってくれなかった。でも真面目な顔で告げたとしても、今の状況なら彼はすべて聞き流す可能性もある。


 こうなっては仕方がない。覚悟を決めるだけだ。


「いいですか、珠倫さま。どうか無理なさらないでください。女官の仕事も体調が悪いと言って休んでくださいね。私からも春蘭に伝えますので」


 珠倫の体調はもちろんだが、主である彼女に女官仕事などさせられない。凜風の体になっている珠倫はこれでしばらくはなんとかなるだろう、問題は……。


「私が珠倫さまの代わりなんてできるでしょうか」


 そばでいて彼女の仕草や日課などは理解しているが、それと自分がするのとは話が別だ。


「凜風ならきっと大丈夫よ」


 自分に励まされるのはなんとも不思議な気分だ。とにかく戻る方法を探りながら、このままやっていくしかない。すべては珠倫さまのため、と凜風は自分に言い聞かせた。

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