03 縮まる距離と月夜の身投げ

「え、別物なんですか?」


「はい。全然違います。」


 春蘭の深いため息を目の前に、凜風はすっと目線を逸らす。


 穏やかな天気が続く昼下がり、春蘭と凜風は春蘭の部屋で顔を突き合わせていた。青々とした葉っぱが大量に入った器から春蘭は一つひとつ手に取り確認していく。


「ほら。葉脈の形状がまったく異なるでしょう」


「そんな細かいところまで見ていられませんよ」


 二枚の葉を突きつけられ、凜風は苦々しく答えた。

 腫れ物に効くとされる薬草を指定され集めてきたのだが、どうやら違うものも混ざっていたらしい。


「似ていても処方する薬草を少しでも間違えたら、大惨事が怒りますよ」


「……気をつけます」


 言い訳せずに非を認め、凜風は頭を下げた、春蘭の言い分はもっともだ。ましてや主である珠倫のためなのだから、些細なミスも許されない。


 春蘭の去ったあと、自分ひとりで珠倫を支えていけるのかと今更ながら不安になる。そのとき不意に頭に温もりを感じた。


「凜風のそういう素直なところはとてもいいと思います。伸びる人間に一番必要なのは謙虚と素直さですから」


 思ったよりも優しい表情に、凜風は反射的に手を払いのける。


「な、なんで急に触ったりするんですか!?」


 驚きで早口で捲し立ててしまい、すぐに後悔する。


「それは失礼しました」


 しかし春蘭は手を引っ込め平然と返してきた。言い知れない空気に妙な沈黙が下りる。


 嫌な気持ちがあったわけではない。けれど、あっさり受け入れることもできなかった。


 なにか切り出そうとした瞬間、集めていた葉の束がかすかに動いた。そちらに注目していたら、隙間からなにかが覗く。


「きゃあ!」


 気づけば凜風は叫び声を上げ、目の前の春蘭にしがみついていた。葉の入っていた器がひっくり返り中身が散る。


「凜風?」


 怪訝そうに尋ねられ、凜風は白状する。


「わ、私、蜘蛛が苦手なんです!」


 葉の間から出てきたのは、小さな黒い蜘蛛だった。毒もなければそこまで奇抜な姿でもない。


 なにがきっかけだったのかは思い出せないが、物心がついた頃から凜風は苦手だった。嫌いというよりは恐怖の方に近い。克服しようにも、どうにもならなかった。


 頭上からため息が聞こえ、凜風は肩を震わせる。これくらいで、と言われるのを覚悟していると、春蘭はさっと凜風から離れ、蜘蛛のついた葉を取り窓の方へ歩いていった。


 さっと窓の外へ払うと、凜風の方へ戻ってくる。


「大丈夫ですよ。もういません」


 散らばった葉を片づけながら告げられ、凜風も慌てて手伝う。 


「……怒らないんですか?」


「苦手なものは誰にでもある」


 おそるおそる尋ねたら、端的な返事があった。それが意外で、凜風はなんとなく聞いてみる。


「春蘭の苦手なものってなんですか?」


「さぁ?」


 しかしあっけらかんとした返事があり、緊張していた気持ちが緩む。


 一通り器に葉を戻し、凜風は春蘭を仰ぎ見た。


「あと少しですけど……私の前では春嵐でかまいませんよ。取り繕わなくてかまいません」


 春蘭の口調が気づけば春嵐のものになっていた。苦手なものがあるのを受け入れてもらったお礼をとまではいかなくても、少しでもなにか返したいと自然と思えたのだ。


 真剣な面持ちの凜風に春蘭は微笑む。


「気遣い感謝するよ」


 別れるのが決まってから、春蘭との距離がこんなふうに縮まるとは思わなかった。



『蜘蛛くらいたいしたことないだろ』


 蜘蛛を異様に怖がる凜風を見て、雇い主は鬱陶しそうに吐き捨てる。それどころか、怖がる凜風を面白がってわざと凜風に蜘蛛を近づけてきた。


『克服できるように協力してやろう』


『やめて!』


 そこで目が覚め、凜風は上半身を起こす。肩を上下させ息を吐き、自身をぎゅっと抱きしめた。激しく打ちつける心臓を落ち着かせようとしばらく目を瞑る。


 昔の夢、久しぶりに見たな。


 ここは明星宮の女官部屋だ。周りを見ると薄明かりの中、他の女官たちは静かに寝息を立てている。凜風は額にかいた汗を拭い、すっと立ち上がった。


 少し気持ちを落ち着かせよう。


 音を立てないよう部屋の外に出ると、夜空にまん丸い月が煌々と輝いていた。低い位置にあるせいかいつもより大きく見え、存在を主張している。目を奪われる美しさは、逆に妙な胸騒を起こさせた。


「凜風」


(え?)


 ぼんやりと月を眺めていると、不意に名前を呼ばれた、気がした。けれど空耳をすぐに疑う。こんな時間だ。辺りを見渡すが、人はおろか動物の気配だってない。


 しかし、声はやけにはっきりと聞こえた。


「凜風」


「珠倫さま!?」


 再度名前を呼ばれ、確信する。声の主は間違いなく珠倫だ。しかし彼女の姿はどこにもない。


 どういうことなの?


 珠倫のそばには、春蘭がいるはずだ。万が一など起こるはずない。言い聞かせながら凜風は寝間着姿のまま珠倫の元に向かう。


 彼女の自室であり寝所は、凜風の女官部屋からそう距離はない。月明かりに照らされ、進む先に不安はなかった。


 そのとき凜風の目には信じられない光景が飛び込んできた。


 明星宮の中にある水路にかかる啓明橋。その真ん中に珠倫が立っていたのだ。月を背に佇む彼女は、凜風と違い襦裙をきっちりと着ているがなんとなくいつもと様子が異なっていた。


「珠倫さま!」


 時間も場所も慮らず凜風は叫んだ。すると珠倫の視線がゆっくりと凜風に向いた。


「凜風」


 鈴の音が鳴るようなか細い声。なにか思いつめたような珠倫の表情に、凜風は彼女の元へ駆け出す。


『目が覚めたから、ちょっと散歩に出かけたの』


 笑顔でそんなふうに答えてくれるとどこかで期待していた。しかし珠倫が凜風を見たのは一瞬で、すぐに彼女の意識は水面へ向く。


 一刻も早く、彼女の元へ行かないと。本能がそう告げていた。橋までたどり着き、走るたびに木でできた床版が音を立て軋む。


 あともう少しで珠倫に届きそうだ。すると珠倫が妖しく笑い、身を乗り出して水面に手を伸ばした。腰を曲げ覗き込むような体勢はあまりにも危うい。彼女の長い髪が重力に従いはらりと落ちる。


「見て。月を捕まえられそうよ」


「珠倫さま!」


 そのまま吸い込まれるようにして珠倫が下に重心を傾けた。珠倫の肩を掴みとっさに引き上げようとしたが、凜風の体格では支えられず彼女もバランスを崩す。


 水面にたたきつけられた痛みに顔をしかめたのは一瞬で、水の冷たさと重たさに引きずられ体が思うように動かせない。それでも必死に凜風は珠倫をかばうように抱きしめた。


 誰か、春嵐――。

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