02 同僚女官の隠していた秘密
「春蘭」
珠倫の部屋を後にし、ふたりで外に出たタイミングで凜風は呼びかけた。長かった冬が終わり、生の息吹があちこちに感じられる春はもうすぐ目の前までやってきている。柔らかな風を感じながら凜風は頭を下げた。
「今までごめんなさい。体調が悪かったなどなにも知らず……」
自分の仕事はしているつもりだが、ついいつも反抗的な態度をとってしまっていた。先ほどもそうだ。
「気を使わなくてかまいません。それより、新しい女官を入れるとはいえ、あなたに私の後を託すのはいささか不安です」
「私、今以上に頑張ります! 今更かもしれませんが、春蘭の持っている技術や知識をもっと教えてください」
ため息をついた春蘭に、凜風はすぐさま詰め寄る勢いで返した。真っすぐな凜風の行動に春蘭は目を見張る。そこで凜風は彼女からわずかに離れ、冷静になって視線を落とした。
「もちろん、体調と相談しながらで……」
「わかりました」
低く凛とした声が耳に届き、顔を上げると春蘭と目が合った。
「あなたが素直で努力家なところは知っています。そして珠倫さまをこのうえなく大事にしていることも。どうか私のあとをよろしくお願いします」
「はい!」
勢いよく凜風が答えると。春蘭がかすかに笑みを浮かべた気がした。彼女のそんな表情を見るのは初めてかもしれない。
それから凜風はいつも以上に春蘭について回った。自分の仕える主の身の回りの世話はもちろん、女官は六局のいずれかに所属し、そこでの仕事も担っている。
ふたりは
春蘭は主に医薬品の管理の方に精を出していた。国内外問わず良いとされる薬が集まり、それらの調合や治療の方法などを研究して手記にしたためる。
「珠倫さまの痣に効く薬の情報がもっと増えればよいのですが」
春蘭がここを希望したのは、珠倫のためであった。一見するとわからないのだが、珠倫には首下から左肩にかけて青紫色の痣があるのだ。
凜風が毎朝、痣に効くとされる薬草を擦って染みこませた布を患部に当てるなどを繰り返しているが、痣は一向に消えなければ薄くもならない。
「へー。ここでいつも薬草を詰んでいらしたんですね」
明星宮の裏の薬草園にやって来て、春蘭からどの植物がどのような症状に効くのかを聞いていく。珠倫に塗布したりするのは凜風がやっていたが、こうして薬草を収集するのは春蘭が主に行っていた。役割分担と言えばそれまでだが、なにかと凜風に上官としての自覚や仕事をさせようとしていた春蘭にしては、今までここに凜風を来させなかったのが不思議だ。
その旨を春蘭にさりげなく尋ねる。
「誤って違う薬草を取って来られても困りますからね」
あっけらかんとした回答に思わず物申したくなったが、ぐっと堪えた。完全には否定できないからだ。
けれど、これからは凜風が珠倫のために薬草をとらなければならない。思考を切り換え、植物の特徴や生息している場所、効果などを改めて春蘭に尋ね頭に叩き込んでいく。
真剣な眼差しで春蘭の手元を見ていると、彼女の手が止まり、不思議に思って視線を上げたらどこか物悲しげな表情が目に映った。
「それに……たまにはひとりになりたいときがあるんです」
「春蘭……」
珠倫に仕える身として、この後宮では心休まるときなどない。常に誰かの目があり、役割が与えられ、けっして自由などはないのだ。
有能で女官としては申し分のない彼女の弱音を、凜風は初めて聞いた。
「いつも誰かに囲まれているのが普通の凜風にはわからないかもしれませんが」
そこで、いつものなにかを含んだような言い方に凜風は眉をしかめる。
「それ、褒めているつもりですか?」
「一応」
涼しげに返され、春蘭とはやはりあまり気が合わないと再確認する。そこで凜風の頭になにかが当たった。
「雨です。ここは引き上げましょう」
春蘭の言葉で、雨が降ってきたのだと気づく。次の瞬間、地面を叩きつけるような大粒の雨が空から降ってきた。言葉さえ交わす余裕はない。ふたりは慌てて建物の中に入った。
凜風は春蘭と別れて自室に向かう。凜風は他の女官たち複数人との共同部屋を使用していた。
「あら、凜風。雨にやられたの?」
すぐさま他の女官に声をかけられ、凜風は苦笑した。
「うん。突然降ってくるんだもの。びっくりしちゃった」
「ほら、これで拭きなさい」
仕える相手は違えども女官同士境遇が似ている部分があり、ここでの共同生活を凜風はなかなか気に入っている。真っ新の布を受け取って髪を拭いながら、凜風はふと思い立った。
「これ借りていくね」
向かうは春蘭のところだ。彼女は他の女官たちとは別に、主である珠倫のそばに部屋をかまえている。賓という珠倫の立場もあるが、女官としても特別の待遇だ。
けれど羨む気持ちはない。それほど春蘭は優秀だった。
(いつも珠倫さまのすぐそばにいられるのは、すっごく羨ましいんだけれどね)
実は彼女の自室を訪れるのは初めてだ。今までそれほどの仲でもなかったし、春蘭は凜風にどこか距離を置いているようだったから、凜風も無理に近づく真似はしなかった。
しかし、彼女との付き合いも限りあると聞かされ、さらには体調が悪いのに雨に打たれたとなると、放ってはおけない。
「春蘭!」
声をかけることもせず、凜風は勢いよく春蘭の部屋の扉を開けた。続けて目に飛び込んできた光景に凜風の思考は停止する。
「え……」
そこには赤い長袖の漢服を脱いで上半身を晒して体を拭こうとしている春蘭の姿があった。それ自体はなんらおかしいことではない。すぐさま退散するのがどう考えても礼儀だと思うのだが、凜風はその場に硬直してしまった。
なぜなら春蘭の晒された上半身には、筋肉はしっかりついているが女性特有の丸みは一切ない。浮き出た鎖骨に広い肩幅は、服の上からでは想像できないほどにしっかりしている。
「えーっと」
混乱しながら首を傾げつい声が漏れた。次の瞬間、すごい形相で近づいてきた春蘭に口を塞がれる。
「騒がない、大声を出さないと約束しろ」
気迫あふれる声と表情に凜風はこくりと頷いた。凜風の口を覆っている春蘭の手のひらは思ったよりも大きく骨張っている。
そっと春蘭の手が離れ、凜風は大きく息を吐いた。対する春蘭の顔は深刻そのものだ。さっと再び服を着る春蘭の背中に凜風が思いきって声をかける。
「あの、大丈夫です。私もたいして胸はありませんが、女性の魅力はそれだけじゃありませんから」
「……凜風はやはり馬鹿なのですか?」
春蘭は軽くため息をついて答えた、普段通りの春蘭の口調に、凜風はムッとしつつ平静を装う。
「だって、他にどう受け取ればいいんですか? 春蘭は体が男性で心は乙女だって解釈でいいです?」
春蘭はなにも返さず、肩をすくめた。殺気立っていた雰囲気が消え、そんな春蘭の様子に凜風は口を尖らせる。
軽口を叩きながらも凜風の頭は混乱していた。ずっと女性だと思っていた相手の生別が異なっていたのだ。あらゆる可能性を考えて納得させようとするが、そんなすぐに受け止められない。
「事情を聞かせてもらえます?」
おずおずと尋ねると春蘭は「ああ」と小さく返した。その声はいつもと変わらないはずなのに、やや低く感じる。
「私の家族は昔、何者かに命を狙われ殺されたんです」
「え?」
「幼かった私は母に庇われるようにして抱かれていて、なんとか命は助かったのですが、その事実を公にするわけにはいかなかった」
発見者となった曹家の使いの者が春蘭を保護し、珠倫の父と話し合った結果、襲われたのは物盗りではなく怨恨によるものと判断して、春蘭が生きているのを隠すべく、女児として珠倫と一緒に育てることにしたらしい。
春蘭は曹家に恩を感じ、珠倫や珠倫の両親に仕えた。
「珠倫さまの明星宮への輿入れが決まったとき、珠倫さまに一緒に来てほしいと言われたんです。今まで女のふりをしてきたのもあって抵抗はなかったですし、身を隠す意味でもちょうどいいと承諾したんですが、それもそろそろ潮時かと」
「じゃあ、女官を辞め、明星宮を去るというのは……」
凜風の言葉に春蘭は頷く。
「ええ。珠倫さまとも話したんですが、これ以上女性のふりをしてここにいるのは限界だと感じて」
出会ったときから女性だと思って接していたので、疑ったこともないが、今凜風の前で話す春蘭の体つきはもちろん声も表情も男性そのものだ。
そう意識すると、なにやら言い知れない羞恥心が芽生える。しかしそこで凜風の考えは別の角度へ移った。
「ということは、春蘭は体調が悪いわけではないんですね?」
凜風の問いかけに、春蘭は虚を衝かれた顔になった。
「あ、ああ」
「それはよかったです! これでも心配していたんですよ?」
ここにやって来たのも、雨に打たれて体調を悪化させていないかと思ったからだ。春蘭がここを去る本当の理由がわかり、安堵する。
「ずっと騙していたんですよ?」
「べつに私は気にしていません。珠倫さまが納得されていたのなら……」
そこで凜風は言葉を止めた。不思議に思い凜風をうかがう春蘭に、今度は凜風が鬼の形相で詰め寄る。
「まさかとは思いますが、珠倫さまになにか邪なことをなさってないでしょうね?」
正体を隠すためだろうが、春蘭は個室で珠倫のすぐそばにいつも控えていた。警護役も兼ねているからだと任せていたが、異性なら話は違ってくる。
「断じてありません。あの方は命の恩人の娘さんなんです。今も昔もそんな気持ち抱いたことは一切ありません」
珍しく春蘭の声には必死さが込められている。しかし凜風は瞬きひとつせず目を爛々とさせし春蘭に顔を近づけた。
「本当ですね? 白虎神や帝様に誓って言えますね?」
「ああ」
春蘭の返答に、凜風は渋々離れた。
「わかりました。信じましょう」
「凜風は本当に珠倫さまを慕っているんですね」
凜風の反応に、春蘭はしみじみと呟いた。
「当然です。私にとってもあの方は命の恩人ですから。だから心配せずともあなたの事情を他言したりはしません」
もしも春蘭が男性だと知られたら、本人はもちろん事情を知っていて後宮に連れてきた珠倫だってただでは済まない。それだけは絶対に防がねば。
「今まで悪かった。男だと知られるわけにはいかないから、凜風ともずっと距離を置くようにしていたんです」
申し訳なさそうに告げる春蘭を責める気にはなれない。元々馬が合わないと思っていたし、凜風はそこまで彼の態度を気にしていなかった。
一方で正体を知られてはいけないと彼の緊張はどれほどのものだったのか。それもあと少しで終わるのだ。
「ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんですか?」
凜風は改めて春蘭と目を合わせる。
「あなたの本当の名前はなんて言うんですか?」
これは聞いてもいいものか。踏み込みすぎではないだろうか。そんな思いを抱きながらもつい尋ねてしまった。凜風の心配をよそに、春蘭は目を瞬かせたが躊躇う素振りは見せない。
「
「春嵐……。いい名前ですね」
わずかに異なる音に、自然と感想が漏れる。珠倫と同じく、出会ってもう四年になるが初めて春蘭と向き合えた気がした。
春嵐はふっと微笑んで凜風に手を差し出した。迷いつつ、その手に凜風はそっと自分の手を重ねる。
思ったよりもしっかり握られ、その手の感触に凜風の心臓は柄にもなく早鐘を打っていた。
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