街頭
街頭の下、女が立っている。いや、女に見えるというだけなのだが。長い髪をだらんと垂らし、トレンチコート、薄い茶色のトレンチコートに全身を包んだ女が立っている。
こちらから見ると、左手が見えている。じっと頭を垂れて、地面に目線が向いているようだ。
何をしているのだろう。私の行く道からは、脇道にそれるので、わざわざそちらへ向かう必要はない。なんとなく視界に入って気になったから、足を止めて、見ている。見始めてから、ずっと、女は同じ姿勢で地面を見つめるばかりだ。動かない。
動かないのは私も同じで、さっきから、同じところに直立不動だ。ああ、通行人の邪魔になっているだろうとか、思うものなのだろうが、そんなことはあまり頭によぎらない。ただ、私も立って、女を見つめている。なにもせずに一方的に視線をおくっている。これだけ視線をおくっていると、向こうも気づきそうなものなのだが、無視しているのか、無視せざるをえないのか。よほど体調が悪いのなら大変だ。しかし、そうは思えない。なぜか、そうは思えない。なんとなく、大丈夫そうだな、という感じがして、わざわざ話しかけたほうがいいな、なんて心持ちには、とんと、ならないのである。
ああ、そう言えば、私は、歯科医師をしている。今日の患者には、ひどい虫歯の者がいて、これは歯を抜くしかないと思ったのだが、どうも話を聞いてくれない。なんとかして下さいと懇願してくるばかりだ。そこを、なんとかしようと、言っているのに、話を聞く耳を持たないのである。だから、なんとも困ってしまって、さっきの歯の点検に来た子供のほうが、素直で聞き分けがよく、大変、助かったな、なんて、思いながら、助手も混じって、なんとか説得を頑張ったのである。そう、私は、今日、仕事を大変に頑張ったな、と思いながら歩いていたのだった。つかれたな、何を食べようか、気晴らしに何かないものか、などと、考えながら歩いていたのだった。冷蔵庫に酒は切らしていたから、どこぞの店にでも足を運んで、周りの喧騒に、今日の出来事を流してしまおうか、などと、考えていたはずであった。そこに、ふと、あの女が、気になってしまったのである。
こんなことを考えているうちに、どれくらいの時間があったのか、わからないが、女は動いていないようだ。考える頭とは別に、見ることに集中している頭があって、どうにも、あの女から目が離せないのである。ピクリとでも動けば、それを逃すことはないだろう、という自信すらある。いや、確信と言った方がいいだろうか。間違いなく、私はあの女の変化に気づくことができるのだ、そういう姿勢になっているのだ、と心のなかに確かなものがある。なぜ、そんな確信まで、この心は抱いているのだろうか。ふと、疑問に思った。なんの動きもない。顔もわからない。そんな女と思われる誰かになぜ、ここまで視線を向けているのだろうか。ああ、気付くと、また、あの女のことを考えている。いや、女に目を向けている私に注意を向けている。自分でも、なぜこんなことをしているのか、さっぱりわからない。
そうそう、医院の鍵は閉めたはずだし、今日は、わりと早く帰ることができて、助手にも良い日だったろうな。医師ではあるが、病気なんてないほうがいい。それは勿論だ。だれもが健康で、万一のために医師がいればいい。あれ、そうなると、万一の際にしか動けないのならば、医師としての技能に不安が出てくるな。その日まで何をしていたらいいのだろう。手術の練習でもしてればいいのか。いや、しかし、社会の情勢によって、病は変わる。病と思っていなかったものを病と呼ぶようになったり、病と別の病の繋がりが明らかになったりするものだ。だから、検診は重要だし、足を運んでくれる患者を疎かにはできない。どんな発見があるかわからないからだ。歯の病気といっても、別の病気と関係があったりする。白血病によって、歯茎が腫れることもある。がんのために起こった異常であったりもする。全身を巡る血液に異常が出れば、口腔にも異常が出ることもある。そのサインを見逃すわけにはいかないのだ。それを、気にしながら、細心の注意をはらって、仕事に望んでいるつもりだ。それを、あの助手ときたら、色目をつかっているだの、下らないことを言いやがって。誰がそんな不埒な気持ちを、仕事場に持ち込むというのか。あらぬ噂が立つのはよくあることで、男女ともなれば、目線が違うし、感じるものも違う。致し方ないことは分かっているけど、悔しいものは悔しい。なんてことを言われなきゃならないんだ。全く悔しいものだ。ん、なんだか、変なことを考えてしまったな。これは、水に流してしまおうと決めたじゃないか。なんで、こんなことを考えだしてしまったのか。それもこれも、あの女が突っ立ったまま動かないからだ。そうに違いない。何かしら動きを見せれば、そっちに気がいくってものなのに、なんだって、あの女はあそこにずうっと突っ立ったままなんだ。不思議で仕方ない。私なんか、先の週末には、隣県の湖に行ってきた。野山を登り、山頂にある火山あとの湖に行ってきた。カルデラ湖と言ったのかな、名前は定かじゃないんだが、確かそんな呼び名だった気がする。火山質というのか、岩石は火山にあるものの成分を含んでいて、それが湖にしみだしているらしい。それで、光の屈折が変わったりして、景色の表情が豊かな湖だと聞いていった。しかし、背伸びだのしてみたくらいでは、変わるものではなく、登山コースがあって、そこをまわっていくと、高さとか角度が大きく変わって、色の変化もよく見えるというところだった。なんだ、あの女も、そういう変化でもするのか。いや、そんなわけはない。ばかばかしい。人間の色が変わってたまるか。
お、風が吹いた。髪の毛一本でもなびいてみせろ。ああ、くそ。なんとも静かなままじゃないか。なんで地面ばっかり見ているんだ。そこには何かあるように見えないのに。全くわけがわからない。かといって、話しかけるのをはばかるのは、色目つかっているなんて噂が本当になってしまったら、困ってしまう。それでも、本当に困っている相手であれば、自分の良心に従って行動すべきだとは思っている。ところが、あの女はそういうふうには、見えない。なのに、なんだか地面を見つめて立っているばかりで、心配にもなる。どうしてやったらいいんだ。全くわからない。
どん、と不意に、誰かがぶつかったようだ。おっと失礼。お互いに頭を下げる。こんなところに突っ立っているのは邪魔でしかないな。やはり、もうやめよう。きっとあの女は、ああしていないといられないのだろうし、そうか、誰かを待っているのかもしれない。待ち人来たらずということもあるかもしれないが、それも人生にはままあることだ。恋人か、友人か、親だろうか。誰にせよ、来ないとなると寂しいものだろうな。いや、借金とりなんかは、来ないほうがいいのかもしれない。来ても来なくても借金のあることには変わらないが。おっと、そうだった。もう、あの女は忘れよう。何も関わる必要なんてないんだ。
どれ、おや、いない。
結局、なんだったのだろう。
まあ、いい。私も、動くとしよう。
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