アステカ王国と滅びの巫女 第二部

ホルマリン漬け子

第1話 アステカ王国の夜明け


 

 首都テノチティトランに日が昇る。


 アステカ王国の首都は、広大な月の湖テスココ湖の一部を埋め立てて作られた湖上都市だった。


 およそ八万軒の家屋があり、人口は三十万を超える中央高原最大の都市である。


 都市の全域は白亜の漆喰で塗り上げられ、中央の聖域には大神殿と呼ばれる巨大な双子神殿が建立されている。神殿の台座部分は四層になっていて、四百七十四段の階段があった。


 上層部には広いおどり場があり、そこでは生け贄の儀式が執り行われ一日たりとも欠かしたことがない。


 首都の建設を開始して二百年近くが過ぎ、大神殿は猛烈な死臭に満ち満ちていた。


 エナは貫頭着ウィピルと体、あるいは心にさえに染み込んだ死臭を気にするふうでもなく、決められた所作で黒曜石の刃物を取りだした。


 生け贄の命を吸い続けた黒曜石は磁力のような吸引力を持ち、朝日を受けて輝くさまは原初の太陽神トナティウの舌そのもののように思えてならなかった。


 アステカの主神、“南の蘇生した戦士ウィチロポチトリ”の大神官に黒曜石の刃物をうやうやしく渡すとエナは黙って後ずさり、生け贄の血が降りかからない場所まで後退した。


 おどり場の中央には、半球形の生け贄石が安置されていて、すでに生け贄となる戦争捕虜が、仰向けで四人の高位神官に両手両足を押さえつけられている。


 偉大なる雨神、“発芽させるものトラロック”の大神官が竜舌蘭という植物の繊維で作った縄を生け贄の首にかけて押さえつけ、すべての準備が整った。


 生け贄には、大量の麻薬を吸わせていてすでに意識は混濁している。


 大いなる血と聖なる心臓を朝日に捧げることで、太陽は再び昇るのだ。全世界の平和と安寧のため、アステカは生け贄を捧げている。


「死が死するその日まで。四の動ナニオリンの約束の日が来たるまで」


 大神官が、おもむろに祝詞をあげはじめた。

 大神官のほかには誰もしゃべる者はおらず、感情のない昆虫のような神官に囲まれた生け贄は恍惚の笑みを漏らしている。


 南から吹く風に誘われて振り向くと、霊山ポポカトペトルがはるか彼方に見えた。その隣にはイスタクシワトル山があり、どちらも万年雪を抱いている。


 聖獣である大鷲おおわしは、その間を越えてアステカに渡ってくる。


 世界の中心であり、神の予言に従って作られたアステカ王国の首都テノチティトランに今日もまた日が昇る。


 エナがアステカにやって来て、はや三ヶ月の月日が経っていた。

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