第30話 秋色めく丘で




 学校祭、2日目。


 一般客を入れた学校内は、普段の校内と比べいつになく賑やかな雰囲気に包まれた。

 うちのクラスのトロッコは学生、特に小学生に人気となり、中には何度も遊びに来るリピーターもできる盛況ぶりとなった。

 ちなみに、真佑の弟はあたしがいる時に遊びに来た。あたしの第一印象としては人当たりはいいが若干とっつきにくいところがある奴で、曰く本人がいる時に来ると嫌がられるからあえて時間をずらしたということらしい。

 それからフリーの時間は、唯春とふたりで1日目では回りきれなかった場所に顔を出しつつ、いい時間になったところで演劇部の公演の準備に入った。




 前日の経験を活かして、今回の公演では唯春は観客をできる限り意識しないようにした。

 まず、公演前に観客席を見たりしないこと。そして舞台に上がってからも、観客のことは視界に入れないこと。明るいステージからは薄暗い観客席は見づらくなるため、実は唯春自身が見ようとしない限り観客席の細かい部分まではあまり識別できないのだ。

 そしてあたしは、初めの少しだけ唯春のそばにいて、あとは自分の持ち場に戻っていた。

 ずっとそばにいてよしよししていなくてはならないほど、唯春は弱くないから。あたしは彼女を信頼している。そして、常にそばにいて手を繋いでいることだけが愛ではないのだ。


 霞先輩に言われていたアドリブは、事前に数度練習しておいて本番にも入れた。

 涙ぐむ姫を抱き寄せて、キスはしない代わりに額を合わせて見つめ合うだけにとどめる。少しだけ鼻をすり合わせ、それから離れて脚本通り退場した。

 観客に配布されたアンケートの回答を見る限り、結構評価は良好だったようだ。2日とも見に来たらしい人は、違いに気付いて書いてくれたりもしていた。『姫が綺麗だった』『見ていてどきどきした』などの好意的な反応の他、”役者は本当の恋人同士なんじゃないかと思った”とかいう感想も見えて、その点に関しては閉口するしかなかったが。


 霞先輩は自分のことを素人だと言っていたけど、あたしはそうは思わない。少なくとも部員たちの太陽である部長が不在にしても部員たちがこうして団結できているのは、霞先輩の人望と手腕あってこそだろう。

 それまではふわふわしていて気弱な印象だった彼女がこんな一面を持っていたことも、あたしとしては少々意外だったし。

 色々お世話になった礼とともに素直にそう伝えてみると、霞先輩は照れたように『ありがとう』と微笑んだ。

 それから風谷は、幾度となくあたしを演劇部へ勧誘した。けど演劇部は週6で活動が入るバイト非推奨の部活だし、あたしは特に部活をやるつもりもないので丁重に辞退させてもらった。ただ今回のように手伝いが必要な時は、声を掛けてくれれば来ることはできる。

 あたしの言葉を聞いた風谷は、残念そうな顔をしつつも雨田に咎められて『仕方ないね』と納得してくれた。


 そうして学校祭2日間をもって、今回の大仕事である演劇部の助っ人仕事が終わった。






「はる、悪い。ちょい心配だから、1回クラスの方顔出したいんだけど、いい?」


 演劇部での本格的な片付けは後日時間を取って行うことになっているため、2日目は1日目よりも比較的早い時間で解散となった。

 そして一般客も入った今日、抱えていた大きな仕事を終えてしまったら、人が多くてあっぷあっぷしているらしい自分のクラスがふと心配になったのだ。

 あたしは一応、クラス展示では全体をまとめるような立場にいたから。


「ん、うん……」


 演劇部の公演を全て終えて気が抜けてしまったのか、少し前からどこかぼんやりとしている唯春の頷きをもらって、あたしは彼女を連れ自分のクラスに顔を出すことにする。

 準備にはあれだけ時間を費やしたのに、本番はこんなにあっという間に終わってしまうらしい。あっけないものだ。

 しかも、あたしたちには来年再来年があるが2年生は次が最後だし、3年生に至ってはもうあと大きな行事もなく卒業を待つばかりになってしまう。

 学校祭の時間も最後の1時間も切ってしまった校内は、どこか気が逸るような人々の往来でざわめいていた。

 そんな人ごみをかき分け、あたしたちは1年B組の教室に顔を出した。



「──どう? 忙しい?」



 教室の前に行列ができている。

 丁度今手が空いているらしい受付に声をかけると、疲れきったような顔がこちらへ向いた。

「そうなの、すっごく混んで。仕組み上回転もあんまり早くないし、詰まっちゃってさ」

「あぁ、そうか。中は? 故障とかない?」

「装飾がちょっと壊れたかな。でもまぁ応急処置はしてあるし、終わりまではもつと思う」

「人は足りてる?」

「ん、それは大丈夫。千秋は今終わったとこでしょ? いいよいいよ、遊んできて」

 あたしは今唯春を連れているし、確かに演劇部の仕事を終えたばかりでもあるので、気を遣ってくれたのだろう。

 唯春の顔を見、ありがたくそうさせてもらうことにして受付担当へ言葉をかける。そうしてふたりで歩き出した瞬間、廊下の向こうから大きな声が届いた。




「いた!!!」




 ──男の声。

 そこで全てを察してうんざりと顔を上げると、いやにきらきらした視線とかち合ってなおさらうんざりしてしまう。

 びくりと肩を跳ねさせた唯春を庇うように一歩前へ出て、人波をかき分けこちらへ走ってくるそいつを迎える。



「ちー!!」



 駆け寄ってきた男にがばりと抱きつかれ、あたしは深い深いため息をもらした。


「あー、唯春。大丈夫、兄貴だから」


 警戒してあたしの袖を掴んでいた唯春に声をかけると、唯春は一気に驚いた顔になってあたしに抱きついた男を見た。

 茅岡かやおか照葉しょうよう。我が家の3兄弟の、長男である。






「何でいんの……?」


 自分から兄貴をひっペがして問うと、兄貴は悪びれもせず笑った。

「ちーの晴れ舞台だぞ?! 当然、見に来るに決まってるだろ!!」

 兄貴は忙しいだろうから、当然来ないものと思っていた。兄貴の横にいた人が、苦笑しながらあたしを見る。

「千秋、久しぶり。ごめんな、騒がしくして」

「いえ……お久しぶりです」

 兄貴の友人だ。確か高校時代はよく名前を聞いていて顔も知っており、兄貴とよく遊んでいた記憶もある人物のひとりである。きっと、今回予定が合った人たちで連れ立って母校の学校祭を見に来たのだろう。


「千秋、劇に出てたろ。すぐ分かったぞ! 最後の、迎えに来た奴!」


「あぁ……。ってか、何でいんの? 知ってたの?」


 あたしが劇に出ることは、表立って周囲へは言っていない。あたしは目立つことにあまり興味がないし、そもそもが端役なので言って回るほどでもないと思ったからだ。

 実際、知っていたのも真佑や凪雪や蛍乃佳、それから彩羅先輩くらいだったと思う。

 そして兄貴に観劇の趣味はなかったと思うし、在学中演劇部と深い関わりがあったわけでもないと記憶しているので、演劇部の劇を見ていた理由が分からないのだ。

鹿子かのこから聞いたんだ!」

「あー、男バレの奴ね。鹿子ってのが3年にいるんだよ。そいつから、”照葉の妹が今年の演劇部の劇に出るらしい”って聞いて」

「そ! これは行くしかねえと思って、スケジュールめちゃめちゃ合わせたの」

 男バレ。男子バレー部。

 嫌な予感がしてきてしまう。バレー部といえば、真佑が女子バレー部なのだ。まさか、そこから情報が回ったとか言わないだろうか。

 照葉は高校時代、男バレに所属していた。当時から人望があったために後輩とも親しかったようだし、そう考えれば卒業後も連絡を取りあっていたって何らおかしくない。

「いやー、すげえよかった!! オレも惚れたもん! 超似合ってたよ!」

「あーそ……」

「動画もばっちり撮ったし、家族のグループに送っとくな!」

「いや、いいって……」

 この熱量。対外的には理性的で格好いいというイメージを持たれがちな兄貴が、家族の前ではこんな鬱陶しい奴になるなんて、多分ほとんどの人は知らないのだろう。


「──そんで、唯春ちゃん!! いっつも千秋がお世話になってるみたいで、ありがとね! お姫様も、めちゃくちゃすごかったよ!」


 そうして油断している間に今度はターゲットが唯春へ向いて、急に名前を呼ばれた唯春がびくりと震えた。

「あ……いいえ。見てくださったんですね。ありがとうございます。千秋さんとは、仲良くさせて頂いています」

「だよね! 母さんからよく聞くんだよ、ちーが可愛い子連れてくるようになったって! オレ、照葉! あ、聞いてた? そうそう、千秋の兄貴!」

 さすがコミュ強。若干まだ警戒心の取れていない唯春と必要以上に距離を詰めないようにしつつも、あたしの名前を出して圧をかけないようにこやかに話しかけている。


「しょう、んで、いつ帰んの?」


 あたしから離れない唯春の頭をぽんぽんと撫でつつ聞くと、照葉はふむと考え込んで視線を上げた。

「んー、もうちょいぶらついてくかな。まだ顔見られてない先生もいるし、折角だから挨拶してこうと思って。──てか、ちーはもうすっかり唯春ちゃんの騎士ナイトだな! ……いや、この場合は王子様か……?」

「千秋は女の子でしょ」

「はぁ? 女の子が王子様になったっていいだろ!! あーあ、これだから堅物は!」

「あー悪かった悪かった」

 暗にそろそろ帰れと言ったつもりだったんだけど、どうやら兄貴には効かなかったようだ。全く、あたしではまだまだ敵わない器の大きい兄である。


「んじゃ、ちー! 今日の晩は鑑賞会な!」


「いや……いい、いい」


 ようやくどこかへ行くらしい兄貴が、懲りずに宣ったのを適当にあしらう。

 それから名残惜しそうにこちらを振り向きつつ遠くなっていく姿を途中まで眺め、ようやく唯春へ向き直った。


「悪い、まさか来ると思わなくて」


「ううん……お兄さん、あきくんと違ってすごく元気な人だね……?」


「そう、まぁ普段は優等生キャラで通ってるみたいなんだけどね。あたしにとっての兄貴は、ずっとあんな感じ」


 ただ、あれでいて怖い時は怖い人なのだ。

 あたしに怒ったことはあんまりないけど、例えばあたしや夕陽のために怒る時の照葉はいつもひやりと冷たくて、近くにいるあたしでさえ鳥肌が立つ。そういう人だ。

 あたしは兄貴には敵わない。守られてきたのだ。ずっと。


「でも……挨拶できてよかったかも。ちょっと失礼だったかな、怖がったりして」


「あれは怖えだろ。気にしてねえよ、兄貴も」


 急に背の高い知らない男が近付いてきてハイテンションで喋りだしたりしたら、普通に誰だってびっくりするだろう。

 でも兄貴は、あたしが大事にしている子を邪険にしたりする人ではないので、そこは心配していなかった。あれでいて察しもいい方なので、唯春が距離を詰め過ぎちゃいけない相手だということにも気付いたはずだ。

 いくら唯春が可愛いからといっても、唯春にはもう既にあたしがいるから。


「さて。あたしらも、どっか回る?」


 今回は2日間を通して、午前は自分のクラス、午後は演劇部に時間を使っていてフリーの時間が少なかった。そのため、実際まだ顔を出せていない場所は結構残っているのだ。時間は余裕で潰せるだろう。

 唯春の顔をのぞき込むと、彼女は少しだけ逡巡して、それからあたしの袖を掴んだ。



「ぼく……つかれ、ちゃった」



 ひどく言いにくそうにむぐむぐと動くその唇にキスしたくなるのをこらえて、あたしは目の前の丸い頬に触れる。

「疲れた? じゃあどっか、座れるとこ行くか。んー、休憩所があったはずだな」

 彼女はいつも躊躇うけど、こうやって口に出して伝えてくれるのは、あたしとしてはとても嬉しいことなのだ。……まぁ、今回は”疲れた”だけではないようだけど。

 パンフレットの地図を眺め、休憩所にあてられている教室が1階にあるのを確認する。

 午前中に目の前を通りかかった時は中からちっとも人の気配がしなかったから、そこが休憩所になっているなんて気付かなかった。多分、穴場になっていると思う。

「1階だって。行こ」

 一般の人の立ち入りを制限している生徒の控え室もあるにはあるが、一般のお客さんが入る時間帯になると関係のない教室含め大方施錠されてしまうので、休むには解放されている場所を使うしかないのだ。


 時計を見た。

 終了までまだあと、40分くらいはある。


「ふー……」

 あたしも、何だかあの兄貴のテンションに押されてどっと疲れてしまった。

 これからわざわざ詰め込みで歩き回らなくても、もう充分学校祭は満喫できたし。ふたりきりで過ごす時間が、少しくらいはあったっていいだろう。






 目をつけていた1階の休憩所は、狙い通り利用者もおらずしんとしていた。

「まじで誰もいねえな……」

「本当。掲示とかもないし、みんな気付かないのかな」

 地図上で割り当てられているだけで、教室に目印や装飾が施されているわけではないので、きっと人目につかないのだろう。



「……やっと、ふたりきりになれた」



 あたしと指先を絡めて、唯春が微笑んだ。

 安堵したようにその頬が緩み、深い呼吸に胸が上下するのを見る。

「あぁ」

 今あたしだけに許された、あたしだけの愛おしい姿。彼女自身を守る綺麗な仮面は、この瞬間、彼女の手で外されたのだ。

 この期間、唯春は少々視線を浴びすぎた。

「明日……お休み、でしょ? 会えるよね? 今日は、我慢、できるから」

「あぁ。分かってる、大丈夫だよ」

 軽く手を触れ合わせるだけの距離感。

 もっと近くで、それ以上の温度を感じ合いたいのに、今ここではそれを飲み込んでこらえることしかできないのだ。


「はるの欲しいもん、全部あげる。考えといて。振替休日で平日だから、家誰もいないし」


「ん、」


 喉の奥から甘い吐息を漏らして、唯春が小さく頷いた。

 焦らしすぎてそろそろ限界がきそうだ。ぶつかった視線が熱を持って、彼女の瞳がかすかにうるむのが見える。

 確かに、この様子じゃ残りの時間は展示を見て回るのも難しいだろう。


「──いい子、はる」


 宥めるように、繋ぎあった指先を撫でる。

 学校祭期間とはいえ、少々我慢をさせすぎてしまったかもしれない。

 お互い、この期間は自分のやるべきことに集中しようということにしていたから。そうしたら自然と、ふたりきりでゆっくりするような時間は少なくなっていたのだ。

「あきくんはぼくのなのに、みんなあきくんのこと見てたの、嫌だった」

「そうかぁ?」

「そうだよ。あきくんは自分のこと、全然分かってない! 格好よすぎて、みんなあきくんのこと好きになっちゃう」

「んなことねえよ」

 不満げにぷうと膨らんだ唯春の頬に、手を添える。

 唯春は少々、あたしのことを過大評価しすぎじゃないだろうか。しきりに褒めちぎられて、何だか変な気分になってきてしまう。

「あるよ。あきくんはぼくのことばっかり気にするけど、ぼくだって嫌なんだから!」

「そか。ごめんな」

 恐らく溜まっていたらしい不満が、ぽろぽろと唯春の口からこぼれ出した。

 それを可笑しい気分で聞きながら、あたしはひとつずつ謝罪していく。本当に可愛い人だ。唯春がどれだけあたしを好きか、どれだけやきもちを焼いたかを目の前で熱弁されたら、あたしだって悪い気はしない。

 あたしが行く先々で唯春以外と楽しそうに談笑するのが嫌だったとか、唯春以外があたしを格好いいと思うのが許せないとか、さっきの、兄貴の友達があたしを呼び捨てしたことにモヤモヤしたとか。

 少し前の彼女ならきっと、口にはせず飲み込んでいた言葉たちだ。それをこうしてあたしに言ってくれるようになったのも、純粋に嬉しい。


「ねぇ、なんで笑うの!」


 怒られてしまった。

 申し訳ない気持ちはあるが、それにしたってどうしてこんなに愛おしいんだろうか。

「ごめんな。あたしも、気をつける。教えてくれてありがとう」

 とはいえ、彼女にばかり気を遣わせて自分が無頓着でいるわけにもいかない。

 疑わしい視線を向けてくる彼女の頬を両手で包んで、ちゅっと軽く唇を触れ合わせた。そのままじっと目を見つめると、至近距離で彼女の瞳が揺れる。



「……そんなに好き好きされて、嬉しくないわけないだろ」



 彼女がくれる、こんなにも甘やかで痺れるほどの愛。それは唇で触れるたび、どろりととろけてあたしを深く酔わせる。


 本当に、溺れてしまいそうだ。


「ぼく……我儘言ったんだよ? 怒らないの?」

 戸惑いに満ちた瞳があたしへ向いた。

 あたしよりも年上の彼女は、あたしの前でだけはいつも年相応に──いや、それよりももっと、幼い表情を見せるようになる。

 だからあたしはいつも、彼女の手を引いてその先を歩くのだ。


 彼女がひとりぼっちで泣かないように。

 光を失い、歩けなくなってしまわないように。


 周りより先に一足飛びで大人になってしまった、まだ小さな彼女のために。

「怒ってほしいのか?」

「あ……嫌だ、けど、あきくんがそうしたいなら、ぼくは」

「怒んねえよ。あたしも悪かったし。はるといるんだから、はるだけ見てなきゃ嫌だよな」

 小さく頷いた唯春の額にキスして、その頭を撫でた。

 可愛い可愛いあたしの唯春。

 彼女は、あたしの手を離れない。あたしなしでは生きていけない。それはあたしが願うばかりではなく、彼女がそう望んだから。

 あたしもそうだ。彼女がいない世界に、彼女を失ってしまったあたし自身に、何の価値も残りはしない。


「痛みは愛だ。はるがそう教えてくれた。

 こんなに痛い。──あたしが、はるを愛してるからだ。はるがくれる痛みが、あたしはこんなにも愛おしい」


 彼女があたしの息の根を止める時、きっとあたしはいちばん幸せになれる。

 初めて”あたし”を見つけてくれたひと。初めてあたしを愛してくれたひと。あたしを閉じ込めていた膜を破って、あの薄暗い場所に光をくれた。あんなにも甘やかな愛で。

 あたしのものだ。

 誰にも渡さない。何にも許さない。


 だって唯春は、



「────……ふふ。そっかぁ。こんなに痛いのは、はるがあきくんを愛してるから。あぁ、痛いなぁ。君が、こんなにも愛おしい……」



 この冷たい秋の夜長に咲いた、あたしが愛するあたしだけの花だから。


 ひどく冷たい月夜に手繰り寄せた、ただひとつだけ確かな温もり。

 彼女を腕の中に抱きしめた瞬間、あたしは何よりも安心できるのだ。あんなにも不安だったのに。あんなにも恐ろしかったのに。

 全てのものがあたしを否定しても、彼女だけはあたしを認めてくれるから。

 何ひとつ飾らない、ひどく未熟で、汚くて、どうしようもないこんなあたしを。


「あきくんと出会えてよかった。──あきくんのものになれて、はるは嬉しい」


 唯春があたしと鼻をすり合わせて、それからねだるように唇を近付けてきた。それを受けて、触れるだけのキスを繰り返す。

「もうすぐ終わるね」

「あぁ」

 時計の針は、まもなく学校祭の終了時刻を告げようとしていた。

 そろそろ戻らなくてはいけない。

 彼女と指を絡めて、束の間の別れを惜しむ。

 何度経験しても一向に慣れることができないのだ。離れた場所からすうっと冷たい風が通るような、この感覚に。胸を締めつけるような心細さに。

「あきくん、寂しくないよ。明日はずっと、ずっと一緒でしょ?」

 ──あぁ、そうだった。

 ここ1ヶ月なかなかふたりの時間を作れなかった埋め合わせに、明日は1日中一緒にいようと約束したんだった。




「ぼくたちは、ひとりぼっちなんかじゃないよ。ほら。こんなに、暖かいでしょう」




 ずっと欠けていた庭に、芽吹いた春。

 手繰り寄せた温度がふわりと柔らかく綻んで、この胸の内を満たしていくのが分かった。ひどく暖かい。こんなもの、あたしはずっと知らなかった。



 あぁ、秋だって、そんなに悪いものじゃない。



 今ようやく思えた。


 彼女がそう、教えてくれたのだ。





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