第29話 愛の誓いを交わして




 霞先輩の声掛けの通り演劇部室に集まってから、着替えや片付けを済ませた後、部員全体で軽いミーティングと反省会が行われた。

 本格的な反省会は学校祭の時間が終わったあとにまた時間が取られるものの、熱心な部員たちは本番直後の記憶が鮮明なうちにもう意見を共有してしまいたいらしい。


「それで……千秋ちゃん、いはるちゃん。ラストのシーン、明日の時も今日と同じアドリブ入れてほしいんだ」


「へ?」


 真剣な表情で霞先輩に見つめられて、思わず喉の奥から間抜けな声が落ちた。

「ふたりが再会して、セリフがあって、それから今日はハグが入ったでしょう? あの感情的な感じ、すごくよかった。私の方で入れたセリフの変更もあのまま行こうと思うから。その後のキスのフリは……」

「あー、ナシで」

「そっか。そうだね。じゃあ、そこまでの流れを明日も入れてほしい。今日がいちばん良かったんだ。あれでいきたい」

 何だか霞先輩が、いつになく目を輝かせている。てっきり注意を受けるかと思っていたんだけど、どうやらお気に召してしまったらしい。あのキスも、あくまでフリであったということにしてくれるみたいだし。

 唯春と顔を見合わせ苦笑して、それから頷いた。

「分かりました」

「うん。少し、練習しておくね」

 ステージの上でどんなことをしたんだったか、もうあまり覚えていない。あとで唯春にちゃんと聞いておかなくては。



「──やっぱり、ふたりにお願いしてよかった。本当に、本当によかった」



 ふわりと嬉しそうに表情を綻ばせて、ふと霞先輩が呟いた。

 霞先輩の思いやりは、いつも細やかであたたかい。それはきっと、先輩が口に出さなくとも常に思考を巡らせている人で、気質は繊細でありながらも、大切なもののためには強い意志を持って行動できるような人だから。

 唯春のことで、霞先輩には幾度かお世話になった。

 彼女はあくまで、あたしと唯春の関係を何も知らないていでい続けてくれる。けどある意味、誰よりもあたしたちの関係を知っているんじゃないだろうか。

 正直、普通に友達として出会っていたらあたしと唯春はそれほど仲良くならなかっただろう。そんな感じで、あたしと唯春は時々噛み合わない。だから学年から違う不安は思ったより大きくて、少しでも距離ができればそれだけでお互いが見えなくなったりしてしまう。


 そしてそんな時、いつもあたしと唯春を気遣ってくれるのは、霞先輩だった。


 だからあたしは、霞先輩に頭が上がらない。

 彼女はいつでも周りを見ていて、他人を気遣っていて、あたしだったら気が回らないようなところまで細やかに動くのだ。


「こちらこそ、ありがとうございます。もうほんと、めちゃくちゃお世話になって……」


「ううん、全然だよ。わたしこそ、無理やり引き込んで、部員でもないのに色々お願いしちゃってたし。すごく助かった、ありがとう」


 霞先輩は演劇のことになると途端に強くなるけど、期間中唯春のことは色々気遣ってくれていたようだった。

 本来であればもっと出番が多く、貴公子たちとも絡みが多かった姫の出番を減らし、代わりにナレーションを追加。また、唯春が居づらさを感じないように部員たちへの伝達や擦り合わせを行ったこと。……まぁこれは、1年生の中で唯春が高嶺の花のような存在になっていてファンを得ていたから、1年生が多い演劇部ではすんなりとうまくいったようだが。

 そして、男性に恐怖感がある唯春のために、演出上での接触はできるだけ女子が演じる役に絞ったこと。

 演劇部にはもちろん男子もいる。

 今回については、夫婦の夫役や貴公子役などを担当する部員がそうだ。そういった作中の関係性であれば、彼らが唯春の肩に触れたり手に触れたりすることは充分ありえた。唯春も、そうしろと言われたら素直に頷くだろう。彼女はそういった感情を表に出さない。あくまで笑顔で、平気な自分を装うのだ。

 けど唯春は、男性が近付くと体をこわばらせて怯える。

 その美しい容姿から色目を使われたり、少し前に流れたビッチだとかいう噂がそれを助長させてしまったせいで、ひどい時は襲われかけたこともあったのだそうだ。

 今は真佑のお陰で『唯春には束縛の激しい恋人がいる』という話が共通認識になっているみたいだし、そばにはいつも霞先輩や彩羅先輩がいるようになったから、そういう変なことはなくなったが。

 だから最後、どうしても接触がある相手役は霞先輩がやるつもりでいてくれていたようだし、一応あたしにも声をかけてくれた。


 そもそも演劇部の公演に唯春を引き込んだのも、先輩たちふたりが、クラスの出し物に参加して盛り上がるということがなかなかしづらい唯春を心配してのことだったらしい。

 ただ、唯春と周囲との関係性は修学旅行等のイベントをきっかけに穏やかになってきているようだし、2Dの模擬店であるカフェでは料理やお菓子作りに明るい唯春が頼られることも割とあったみたいだから、今回の学校祭は唯春にとっても比較的楽しめるものになったんじゃないかと思う。


「おーい、まだ感動すんのは早いぞー」


「わざわざ水差さないで、薫」


 そこで横から野次が飛んできて、呆れでついあたしはため息をついてしまった。

 直後、雨田に頭をどつかれて、風谷が後頭部をさする。結構痛そうだ。唯春に同情を求め、心配してもらっているのを見て苦笑した。

「いいだろ、ちょっとくらい感傷に浸ったって。明日もあるってのは分かってるし」

「んー、まぁ今日のはよかったよねー。きっと明日は、今日の話聞いた人とかめちゃくちゃ来るんじゃない? 唯春さん見に!」

「うわ」

 それは心配している点だった。

 明日は一般公開があるため、確実に観客は今日よりも多くなる。そうなれば唯春はたくさんの視線に晒されることになるし、ファンだって今よりさらに増えるだろう。そんなことになったらと思うと、あたしはその後の学校生活が不安でならないのだ。

「ねー、どうします? 下駄箱とかにファンレターが詰まってたりしたら! いや、ありえない話じゃないすよ。みんな釘付けでしたもん。朱里さんは太陽ですけど、唯春さんはなんか薔薇って感じですよね」

「えと、」

「唯春さんへのラブレターは唯春さんの恋人が全部回収して処分するでしょ。ね、唯春さん? 告られるとかそういうの、嫌な人だって前言ってましたよね?」

「ん、うん……」

「何だよ響、例えばの話だろー」

 もし唯春が手紙を受け取ってきたりなんかしたら、きっとあたしは迷わず処分させるだろう。まぁ一応、中身の確認くらいはするかもしれない。そしてそれが唯春へ愛を囁くようなものだった場合は、即刻アウトだ。

 でも唯春は、押し付けられでもしない限りそういったものは受け取らないと思うが。


「よしよし、話逸れてきたから、そろそろここは解散にしてそれぞれ学校祭に戻ろうか。あともう少しだけ終了まで時間あるし、行ってないところとか顔出してみて。明日は一般の人も入るから、多分混んじゃうと思うし」


 ミーティングの終了を宣言して、霞先輩がぱんぱんと手を鳴らした。

 14時半。終了まではあと30分程度だ。

 それほどゆっくりはできないけど、時間のかからない場所であれば、どこか1箇所2箇所くらいは顔を出せるかもしれない。

 声掛けされて部室を出ていく部員たちを横目に眺めながら、あたしはひとつ息を吐いた。


「ごめんね。本当はもっと早く解散にできたら良かったんだけど、あの子たち学校祭で遊ぶのにあんまり興味がないみたいで……」


「いえ、全然大丈夫です」

「うん。ぼくたちも、楽しかったし」

 霞先輩が、戸口を眺めながら苦笑する。

 まぁ学校祭へのモチベーションは、人それぞれ違って当然だろう。こういった賑やかしい雰囲気が苦手だという人もいるし、そもそも演劇部としての発表の場であるという以外に参加理由を持たないような人もいるんだと思う。

 実際、声をかけられてもまだ部室に残って、小道具の補修等作業の手を止めない部員の姿も見受けられた。

 きっとここは、少なからずそういう人の居場所になっているんだろう。


「じゃあわたしも、そろそろ行こうかな。さらちゃんのこと待たせちゃってるし」

「分かりました。唯春は?」

「千秋くん、」


 決まりだ。

 霞先輩と別れて、とりあえず歩き出す。


 少し思い出したけど、中学生の時はあたしも、こういうイベントで誰かとつるんで遊んだ記憶があまりなかった。

 兄貴の学校祭に顔を出したこともあるけど大抵家族でいたし、あたし自身ひとりでぶらつくのも苦にならない方だから、わざわざ誰かと連れ立って行動することがなかったのだ。


 それが今は、隣に唯春がいる。


 他人に合わせるのは苦手な方だと自分で思っていたけど、唯春の声を聞きながら一緒に歩くのは全く嫌じゃなかった。それどころかむしろ、彼女がはしゃいだようにあたしの手を掴んだりするのは、どこか嬉しい。



「────唯春せんぱあああああい!!!!」



 あぁ、きた。

 よく知った声がすごい勢いで近付いてきて、そのまま唯春の胸に飛び込む。


「蛍乃佳ちゃん」


 蛍乃佳。もう止める気もないのか、凪雪は随分と後ろを歩きながら呆れ顔をしていた。

 唯春はそれを受け止めて困り顔だ。それでも頭を撫でて宥める唯春を見て、あたしはそれを力いっぱい引き剥がした。

「危ねえだろ」


「さいご、あえて、よかったああ……!」


 涙と鼻水でぐしょぐしょだ。

 泣きながら感想を話しだす蛍乃佳に、唯春はどこか微笑ましいような表情になる。顔を汚す涙と鼻水をティッシュで拭いてやりながら、唯春が相槌を打って話を聞いた。

「なんでしんじゃうんですか? いきてちゃだめなんですか? なんでばいばいしなくちゃいけなかったんですか?」

「うーん、難しいね。許されない恋だったから、生きて結ばれちゃ駄目だったんだよ。きっと」

 そういえば、凪雪が言っていた。

 映画館で映画を見たり、ふたりでドラマを見たりしたときも蛍乃佳はしばらくそれを引きずってしまうらしい。

 嬉しい場面では嬉しい感情を。苛立たしい場面では怒りの感情を。悲しい場面では悲しい感情を。全て鮮明に受け取ってしまって、なかなか抜けられないのだという。

「でもでも、唯春せんぱいも千秋ちゃんも、すっごく素敵でした!! ドレスも綺麗で、結婚式みたいだなって、」

「そう? ふふ、それは嬉しいな」

 結婚式。確かに、唯春には華やかなドレスがよく似合う。一方のあたしは、柄じゃないのでドレスにあまり憧れはない。なんというか、自分が着るところを想像すると鳥肌が立つのだ。タキシードを着て彼女をエスコートするのが、あたしには合っているだろう。

 誰の祝福も必要ない。誰の許しも重要ではない。例えば小さなチャペルで、誰に認められずともお互いを想い続けたあのふたりのように、唯春とあたしのふたりきりで。

 だって、あたしたちの人生はあたしたちだけのものなのだ。決して、誰かの感情を満たすために存在しているのではない。



「蛍乃佳、もう劇の途中からぐずぐず言い出しちゃって大変だったんです。お疲れさまでした。すごかったです」



 ようやく追いついてきた凪雪が、蛍乃佳の隣に並んで微笑んだ。

 ──あたしらしくもない。

 この騒がしいのを、”心地いい”だなんて。

 そうして3人が劇のことについて話し出すのを、あたしは隣でぼんやりと聞く。


「でも本当に私、最後は血の気が引きました! ……私だけですか? 私がおかしいんですか? ずっとひとりでハラハラして」

「ううん、全然おかしくないよ。ぼくがもう少し、ちゃんとできていればよかったんだ。緊張しすぎて、セリフが出てこなくなっちゃって」

「わたしは好きです!! きゅんきゅんしちゃいました!」

「ありがとう。明日は、もっと堂々と格好よくできるように頑張るよ。凪雪ちゃんも、心配してくれてありがとう」

「無理はしないでくださいね? 嫌なことはちゃんと、嫌だと言わなきゃ駄目ですよ?」

「ふふ、うん」


 いや……もしかすると、このふたりなら大丈夫かもしれない。

 あたしは優しくない。だから許したくないと思ったものは一生許さないし、上っ面の言動を簡単に信用したりできない。人は大抵、自分が可愛いものだろう。だから、他人の苦しみよりも自分のひと時の快感を取れるのだ。他人になど大した興味はない。だから、焼け野原でも笑っていられるのだ。

 他人はあたしたちの人生を壊しはしても、その先の責任まではとってくれないから。

 理解はできる。人なんてそんなもんだ。

 それでも、あたしはあたしが愛した人間のためなら何だってしたいと思う。


 例えば唯春が望まない世界に、唯春がいない世界にあたしは意味を見いだせない。


 そんな世界で生きていけなんて、あたしには無理だ。命よりも重い唯春を手放せだなんて、そんなの、絶対に無理。

 でもふたりは、思えばこうしていつも、あたしたちに寄り添ってくれようとする。

 凪雪は、言葉こそ強いもののそばに置いた人間が苦しい時は放っておけない人だし、蛍乃佳は底抜けに明るく何も考えていないように見えて、実は誰よりも繊細に周りのことを気遣っているのだ。

 あたしも、思えばふたりには結構色々なところで助けられている。



「──あきくん! 行こう」



 唯春に腕を掴まれて、そこであたしの思考は止まった。

 どうやら4人で動くことになったらしい。

 前を歩く凪雪と蛍乃佳が、パンフレットを開いて楽しそうに話している。

「明日は、あきくんに助けてもらわなくてもちゃんとできるようにしなくちゃ」

「そうか? ま、唯春なら大丈夫だろ」

「んふふ。そうかな」

 あたしは、唯春を信頼しているから。

 唯春はもともと多才だしステージなどの華やかな場所も似合う人なので、彼女が抱え込んでいる不安が取り除かれさえすれば、あとあたしが心配すべき点は特にないのだ。


「で、どこ行くんだ?」


 そういえば行き先を聞いていない。

 ここから重たい内容の展示に行くのも時間的に厳しいだろうと思いながら聞いてみると、蛍乃佳がぱっと振り返って笑った。


「2Dのカフェ! みんなで行こうって!」


 唯春のところか。

 あたしはまだ一度も行っていなかったし、丁度いいかもしれない。

「んー、売り切れてたりしたらごめんね」

「その時はその時だろ。休憩もオッケーなんだよな? 適当に駄弁ろうぜ」

「そうだね。私たちも、一日中歩き回って足疲れたし。あとはもう休憩にしましょう」

「明日もありますし!」

 既にやりきった感があって満足してしまいそうなところだが、実はまだあと一日あるのだ。

 明日、弟は多分来ないだろう。両親に関しても来るのかどうなのかといったところだが、あたしは正直そこに関心がないので来ても来なくてもどちらでもいいと思っている。

「なゆちゃん、明日お姉さん来るの?」

「んー、来れたら。日葵ひまりりょうは?」

「来るよ!! あっ、妹と弟です! 妹が中学生で、弟が小学生!」

「へぇ、そうなんだ。いいね」

「せんぱいにもご紹介しますね!! ……あ、でも、せんぱいはわたしのせんぱいなので、あんまり優しくしちゃ嫌ですよ!」

 誰の誰だって?

 聞いていたあたしが思わず顔をしかめると、唯春がそれを見て小さく笑った。

「蛍乃佳の先輩である以前に、あたしの唯春だけどな」

「ふふ。3人の先輩で、千秋くんの唯春だよ」

 凪雪と蛍乃佳を順番に見やり、それから楽しそうにあたしを見つめて唯春が腕に触れてくる。可愛らしい。はしゃいでいるようだ。

 今日一日を通しても、お化け屋敷と演劇部公演の本番前を除いて彼女はずっと楽しそうにしていた。──とりあえずは安心した。今年の学校祭は、いい記憶として残りそうだから。


 唯春の幸福のために、あたしが存在している。


 そう言葉にしてみて、何度も、何度も実感する。あたしは彼女に見つけてもらって、彼女に手を引いてもらって今ここにいるのだ。初めてあたしの世界に踏み込んで、あたしを包んでくれたあたたかいひと。こんなにも綺麗で、愛おしい、あたしだけの春。



 ──彼女があふれるほどの幸せに満たされてほころぶ、その瞬間のためにあたしはこの場所にいるのだ。



 ただそれだけで、あたしは何よりも幸せになれるから。

「ん」

 ポケットに入れていたスマホが震えたので、取り出して通知を確認する。


『お疲れ。あんたがあんな演技派だったなんて知らなかったわ。とりあえず、唯春先輩のことはあんたがガードしなね。あとはこっちで誤魔化しといてあげる』


 真佑だ。メッセージとともに、あたしの知らない妙にニヤついた変なキャラクターのスタンプが添えられている。

「どうしたの?」

「真佑。ほら」

 トーク画面を唯春に見せながら、返信を打った。

「ぼく?」

「あぁ。唯春がモテるから、あたしでどうにかしろってこと」

「ぁ……ごめん、なさい」

 途端に悪いことをした子供みたいな表情になってしまった唯春に笑って、あたしはその頭をぽんぽんと撫でる。

 彼女にとって、モテることはあまり嬉しいことではない。唯春自身がそういう色を含む視線をもともと苦手としている点に加えて、あたしがいつも嫌だと言うから。


『さんきゅ、助かる』


 送信。

 普通でないなら、いっそそれを誇ってしまえばいいのだ。凡人からすれば非凡さは、歯噛みしたいほどに羨ましいものだから。

 武器にしてふりかざしてしまえば、もう他人が何かを言う余地もない。

 彼女は、自らが美しいことを理解した。

 だからこそああして綺麗に着飾り、ステージへ上がり、いちばん高貴な席へ腰を下ろしてあの瞬間他者からの視線を許したのだ。

 今までも、唯春が悪かったのではない。唯春がいた場所が悪かっただけ。あの狭い教室が、唯春には相応しくなかっただけだ。噛み合わないパズルのピースを必死に押し込んだってお互いに痛いだけだろう。

 そのピースがはまるべき場所は、そこではなかったのだ。



「おおっ、奇遇!! みんなもここに来たの? さ、座って座って!」



 唐突に大きな声が鼓膜を揺らして、あたしは反射で顔を上げた。

 扉の取り払われた2Dの教室。壁にはカフェの名前と装飾が施されており、店内には机にテーブルクロスをかぶせた席がいくつか用意されている。

 うちひと席には、たくさんの食べ物や飲み物がずらりと並べられていた。

 そしてその傍らには、いい笑顔の彩羅先輩と困り顔の霞先輩。

 どうやらふたりもここに来ていたらしい。


「いやーあのさ、霞が終わったら食べようと思って買ってたやつに色んなとこの売れ残りとか余りとかが加わって、結構な量になっちゃったんだよね。丁度いい、手伝ってよ!」


 そういえば霞先輩は、早めに演劇部の準備へ入ったため昼食は持参した軽食で済ませたらしいと聞いた。

 だからきっと彩羅先輩が代わりにいろいろ買っていたんだと思うけど、見ると余った材料を集めたような有り合わせのクレープや少し焦げたたい焼き、中途半端に残った1.5リットルペットボトルのジュース、使い切れなかった業務用バニラアイスなど、確かに全体の半分は色々なところの残りものが集まったんだろうというラインナップだった。

「えっ、いいんですか?!」

「いいよいいよ、ほら! 持って帰るのも手間だしね、よかったら食べて。先輩たちがくれるって言うからさあ、ついもらっちゃって」

「さらちゃん、いつもこんな感じなの。みんなから色々もらって腕いっぱいになっちゃって、わたしにまで分けてくれるんだ」

 霞先輩が苦笑しながら、手元にある空のプラスチック容器をつんと指先でつついた。


 それは何だか、分かる気がする。

 きっと彼女を見かけた先輩たちが、こうしてぎりぎり売り物にならないストックを持ち出して、『売れ残りがあるけど食べるか』などと持ちかけたのだろう。そうして彼女は、それを喜んで受け取りほくほくと持ち帰ってきた。

 この人にはそういうところがある。なんていうか、彼女が楽しそうに笑っていると場の空気が格段に明るくなるのだ。

 だからみんな、きっと自然に彼女を笑わせようという気持ちになって体が動く。



「お、今日の主役!!」



 そこで駆け寄ってきた彩羅先輩にいきなり肩を組まれて、あたしもつい笑ってしまった。

「超よかったよ! うちもうるっときた!」

「いや、あたしは別に……すごいのは霞先輩と唯春なんで……」

「なぁに言ってんの! 千秋ちゃんもすごかったよ、王子様みたいで! ね、唯春」

「うん、格好よかった」

「そうすか……?」

 反対側で肩を組まれている唯春が、こくりと頷いて微笑む。

 大したことはしていないと思うけど、まぁうまくできていたようでよかった。それにしても王子様だなんて、あたしはそんなにキザったらしくしたつもりはなかったんだけど。


「でもさぁ、唯春が演技上手いなんて知らなかったな。舞永朱里も相当悔しいんじゃない? すぐに見つけて勧誘できなくて」


 彩羅先輩が楽しそうに笑って、霞先輩からポテトをもらい口に入れた。

「うん、そうみたい。わたしにも、すごく連絡が来るんだよね。いはるちゃんはどうだ、靡かないか、私の話はするかって」

「惚れ込んでんじゃん」

「でもいはるちゃんは全然そのつもりないから、いつもやんわり断わってるんだけどね」

 あたしの隣で唯春が申し訳なさそうにするから、霞先輩は笑って言葉を継ぐ。

「しゅりちゃんはいつも、猪突猛進って感じだから。芸術家肌っていうかなんていうか、一度”見つけちゃった”ら周りをなぎ倒してまでつかみ取りに行くんだよね。全然悪気はないんだ、だから、人が嫌がることを強要したりする人ではないんだけど」

 何だか、そんな話を聞いていると彼女が学校に来るようになってからのことが今から心配になってしまう。

 だって今は顔を合わせていないスマホでのやり取りだからどうにかあしらえているものの、学校で会うようになったら向こうがどんな手段に出てくるか分からないのだ。

「──……」

 こうやってカリカリしすぎるのはよくない。それに、唯春が応じたくなったらあたしは応援すべきだろう。頭の中で自分に言い聞かせて深く息を吐いたその時、口に何かを押し込まれて、あたしはつい咀嚼した。

 ……たい焼きか。中身は、あんこだ。


「っむぐ、もご」

「ため息しないで。ぼくは全然、そんなつもりないから」


 呆れた表情。あからさまな態度をとったつもりはなかったんだけど、苦笑する唯春の表情を見て少し反省する。

「んー……、でも、はるがやりたいならあたしが止める権利はねえし」

 この期間、演劇に向き合う唯春の表情はいつになく輝いていた。だからもし彼女がやりたいと思うなら、あたしはあたしなりにそれを応援してあげたいのだ。

 ただ、まだ部員ではない唯春と部長である朱里さんを並べて二枚看板のような言い方をされているのが少し不服ではあるけど。


 今回唯春が代役を務めた姫役もそうだが、部員たち曰く朱里さんは常に演劇部の中心となる役割を『誰にも代わりは務まらない』と周囲に言わしめるほどに全うし続けてきた。

 しかも彼女はもともと”男装の麗人”という言葉が合う男役の上手い人だったらしく、今回代役で姫を務めた唯春がああやって大成功を収めたことによって、既にふたりをカップリング扱いする声が出始めているのだ。

 確かに、ふたりが着飾って並べば相当豪華な絵面になるだろう。あたしにだってそれくらいは分かる。

 一方であたしは、それほど整った美しい容姿を持っているわけでもないし。



「────あきくん」



 静かな声に名前を呼ばれて、両頬を捕らえられた。

 ……しまった。あたしがずっと朱里さんの名前が出るたびに暗い感情を引きずり続けていたから、呆れられてしまったかもしれない。

 そんなことを考えて、どう謝罪しようか口を開きかけると、唯春はまっすぐにあたしを視線で捕らえて先に唇を動かした。


「ぼくはね。不特定多数の好意より、たったひとりからの愛が欲しいよ」


 学校祭一日目、終了間近の賑わい。

 スピーカーから流れるBGMと、生徒たちが談笑する声も、全てすべて遠くなっていく。

「誰でもじゃ駄目なの。ただひとりのためだけの、お姫様がいい。だから、ぼくの唯一が”嫌だ”と思うことはぼくだって嫌だよ」

「はる」

 あぁ、ここがどこかを忘れてしまいそうだ。

 それはどろりと甘さを増した、ひどく美しく柔らかな朽ちかけの果実のようで。


「だからもしぼくの王子様が『捨てろ』って言うなら、何だって捨てるよ。

 それがぼくの幸せだから。それがぼくのしたいことだから。……まぁ、ぼくの王子様はそんなひとじゃないけど」


 あたしは何も、何も唯春に捨ててほしくない。彼女が必要だと思った全て、あたしのために捨てるなんてことがあってはならないのだ。だって彼女は、いつだってあふれるくらいの幸福に満たされているべきひとだから。

 でも、それでも、彼女があたしのために全てを捨てると、それが幸せだと言ったことがこんなにも嬉しいなんて。


「ぼくはヴィーナスなんかじゃないよ。きみの……きみだけの、ぼくだから」


 例えば彼女があたし以外の全てを失って、あたしだけを愛し、あたしだけに縋る生き物になったら。それはどんなに愛おしいことだろう。

 そんなことはありえない。

 あってはならない。

 でも、それでも、彼女があたしに愛されるために全部を捨てるとしたら。彼女の全部が、あたしで染まるとしたら。

 それはどんなに、甘美なことだろう。


 14時46分。

 学校祭の1日目が、まもなく終了する。




「あたしのために死んで。


 ──あんたのために、あたしを殺して」




 低くそう告げた、刹那。


 彼女の顔がこの上ない歓喜に染まって、それから小さな頷きが返ってきた。



「嬉しい。……ぼく、決めたんだ。あきくんのことだけは、絶対に諦めないって」



 きっと誰にも分かりはしないだろう。

 それでいい。むしろ、理解が欲しいとも思わない。あたしと唯春を繋ぐものは、きっと綺麗な”運命”なんかじゃないのだ。

 あたしたちは絶対に離れたりしない。

 お互いよりも大切なものなんて、この世には存在しないから。


 物語に描かれる綺麗な絵空事は、何も知らない無垢な子供のためにあるのだ。



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