第26話 約束
反対側の袖で椅子に座っていた唯春は、あたしが駆け寄るとゆっくり顔を上げて苦笑した。
「ごめんね、忙しいのに」
「全然。それより唯春、どうした」
既に衣装もメイクも済ませた彼女は目を引く美しさなのに、表情だけが浮かない。
深い赤のドレスにシルバーのパンプス、編み込みのハーフアップに大きな赤リボンのバレッタ。メイクは、舞台上で映えることを意識しているのかやや濃いめだ。
「少し客席を覗いてみただけだったんだけどね、思ったより人が多くて……ふふ、駄目だね。怖く、なっちゃって」
その震える手を取り、握った。
既に涙声だ。
確かに彼女は、演劇部に所属していたわけではないのでこんな舞台は当然踏んだことがなく、経験は皆無に等しい。
そんな中いきなり、脚本の修正等配慮があるとはいえ主演の代役を務めることになり、想定外に多い観衆の視線に晒されながら演技をしなくてはならない場に出ていくことになった。
「大丈夫。せっかくぼくに任せてもらったんだから、ちゃんと頑張れるよ」
無茶だ。
霞先輩からは、後輩たちに声をかけられ外を覗いた瞬間呼吸が荒くなったので恐らく過呼吸になりかけたのだろう、と聞かされた。
彼女にとってきっと、他人の目は、恐ろしいもの以外の何物でもないのだ。
今ここで、『出るのはやめろ』なんて言えない。
それは演劇部の努力を無駄にする行為で、唯春の意志を潰す行為だから。
でもじゃあ、このまま唯春をステージ上に送り出せるかといったら、それは無理だった。唯春本人が行けると言っても周囲がそれを止めるだろう。あたしも、とてもじゃないが大丈夫だなんて言えない。
なんと言えばいいのか。
気遣ってくれたのか、今このスペースにはあたしと唯春しかいなかった。
少しだけ考えて、それから唯春の両頬を手で包む。
「はる」
まっすぐ目を合わせる、数秒。
彼女の視線が動揺したように揺れて、それから泣きそうに潤んだ。
「何が怖い? 何が不安なんだ?」
静かに問う。
逡巡した後、唯春が口を開いた。
「見られるのが、怖い。──目が、」
「うん」
「もし失敗したら、……ぼくじゃだめだったら、どう、しよう」
自責の色。唯春自身も、きっと泣きたいほどに悔しいのだろう。頑張りたいと言った、彼女の言葉を聞いた。その努力をあたしはずっと近くで見ていたから。
だからこそ今、この状況で、体がすくんでしまうことに彼女がどれだけもどかしさを感じているかが痛いほどに分かる。
「はるが頑張ってたのは、誰よりもあたしが知ってる。はるがここに立ってることに文句言う奴は、少なくともこの演劇部にはひとりもいないよ。いても、あたしがぶっ飛ばす」
「ふふ、」
唯春の表情が、ほんの少し和らいだ。笑う余裕が戻ってきたようだ。
「はる、」
その名前を呼ぶ。
視線を絡めたまま、そっと額を合わせた。
「この舞台に上がってから、あたし以外のことを考えんのを禁止する。あたしだけだ。あたしだけを想って、あたしだけを愛して。それ以外は絶対に許さない。分かった?
あたしに逢いに来て。
──あたしの為に、全部捨てて」
「…………ん、わかっ、た」
吐息がぶつかる距離で、キスを寸止めする。
不安に満ちていた唯春の瞳が情欲に塗り変わり、求めるように近付いてきた唇をかわして人差し指で止めた。
もどかしそうに息を漏らす唯春に笑って、あたしは彼女からすっと離れる。
「頑張ってない子に、ご褒美はあげられないけど?」
「ぁ……」
唯春の表情が変わった。
どうやら震えも止まったようだ。
もう大丈夫だろう。先にステージ上にいる霞先輩の元へ戻って、唯春が落ち着いたことを伝える。
やがて少し後に顔を見せた唯春に状態を確認し、ステージ上には全部員が集められた。
もうすぐ時間だ。
霞先輩から最後のコメントがあって、全体の士気を高めたところで各自持ち場につくように号令がかかる。
開幕のブザーが鳴り、アナウンスが流れた。
「それではこれより、午後のステージを開始いたします。6番、演劇部による劇『
緞帳が、上がる。
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