第22話 美酒に酔うように




 放課後、演劇部室。


「でさー、唯春さんと千秋が知り合ったきっかけって何だったの?」


 絵の具を顔にべっとりと付けながら、大道具担当が聞いてきた。

 1年D組、風谷かぜたにかおる

 中学校時代は、蛍乃佳と仲が良かったイメージのある人だ。

 今はクラスが離れてしまった上、蛍乃佳は凪雪といることが増えたので、以前より話すことは減ったようだけど。

 それでも関係性は続いているらしく、休み時間などでちょくちょく仲良さそうに話しているのを見かける。

 聞くと、蛍乃佳が凪雪に直接相談できないことを持ちかけるのがこの風谷らしい。凪雪が何だか言っていたのを思い出した。内容は忘れたけど。

「んー……、高校入ったばっかの頃、現国で何か作文書かされたことあったじゃん? それで資料借りるのに図書室行ったんだよ。その時の図書当番が、たまたま唯春だった」

「へー。そこで仲良くなったんだ? 趣味合うとか?」

「いや、全然。なんか気に入られたっぽくて、それからよく話すようになった気がする」

「いーなー、自分も唯春さんみたいな美女、先輩か友達に欲しい! あーあ、どこかで運命の出会い起こらないかなー」

 風谷と話していると、何というか独特のペースに呑まれてしまっていらないことまで話してしまいそうになる。

 つい苦笑して、あたしは止まっていた手を再び動かした。

「いないの?」

「んやー、だって霞さんは可愛い系でしょ? 蛍乃佳も可愛い系だし、部長はなんてーか、違うから……。自分だって目の保養に綺麗なお姉さんひとりくらい欲しいわー。ね、唯春さんくれたりしない? お礼は弾む」

「それは断る。自分で見つけてこい」

「やっぱそうかー。ラブラブだもんね。自分としては略奪は趣味じゃないし」

 何の話だ。

 会話に乗るあたしをよそに、他の部員たちは慣れきった様子で適当な相槌を寄越している。これが通常テンションらしい。


 こんな感じの人間と普段から仲良くするなんて、とうとう蛍乃佳を尊敬しそうだ。……いや、蛍乃佳なら全て真面目に聞いて、素でリアクションして盛り上がるんだろう。

「唯春さんてほんと癒しだよな。唯春さんが来始めてから、部活の空気が明らかにほわわわーっと明るくなったような気するし。衣装担当も張り切ってるんだよ、知ってる?

 あの婀娜なヴィーナスを思うままにしてるっていう、その嫉妬深い恋人とやらの顔を拝みたいわ」

「やめな薫、変態臭いよ。千秋、気にしないで。こいつの話聞いてたら部活終わる」

「だって、唯春さんってば普段はお姉様なのに恋人の話する時だけ超乙女なんだよ? あの人をそんなふうにするのがどんな奴なのか、気になるじゃんかー」

 その恋人はあたしだ。……なんて、言えるわけもないけど。

 唯春にはあしらい方を教えておくべきかなどと考えながら、どことなく後ろめたい感情が湧いてひとりで苦笑してしまった。


 みんなにとっての”綺麗な唯春”は、あたしの手の中では全く違った顔を見せる。


 ぐい、と風谷が手の甲で顔を拭い、絵の具が顔に塗り広がった。しかしそれを気にした様子もないまま、風谷は紙の上に繊細な色合いを作っていく。

「自分はさあ、唯春さん惜しいなーと思うんだよ。もっと早く演劇部に来てくれてたらな、ってさ。人間は自らの常識にあてはまらないものをすーぐ異端認定して否定する弱い生き物だから。自分はもう慣れたから気になんないけど、唯春さんはすごく優しいから、全部気にかけちゃうわけじゃない? たぶん」

「あぁ」

「でもこの演劇部はまぁ異端の集まりみたいなとこあるし、ここなら唯春さんが輝けるポジションもきっとあったはずなんだよ。実際今、主役がハマってるわけだし」

 風谷が視線をやった先では、演者たちが姫と王の婚姻話が浮上したシーンを練習中だった。夫婦と姫の住まう家に、王命を携えた使いがやってくるところだ。



「国王陛下が、姫を妃に迎えたいと仰っておいでです。褒美は沢山遣わすと」


「まぁ、こんなに……」



 差し出された書状を見て、夫婦役が揃って歓声を上げた。しかし姫だけは、離れたところで浮かない表情をしている。


 ──確かに、最近の唯春はいつになく生き生きとしていた。


 2年生の秋から部活に入る人間は、ほとんどいないだろう。すぐ3年生になって、そうしたらもう進路活動の時期になってしまうから。

 でも確かに、あんなにも楽しそうなら、惜しいなという気持ちにはなってしまう。

「みんなさぁ、せっかくいいもん持ってんのにわざわざ普通になろうとしなくていいじゃんか。”オカシイ”って、使いようによっては相当面白いと思うけどね。自分は」

 けろりとそんなことを言ってのけた風谷は、紙の上に色を乗せてあたしの知らない世界を作っていく。

「絵、上手いんだな」

「んー、そうか? まぁ、そう言ってもらえるなら嬉しいけど。絵描くの好きでさ、本当は美術部に入ろうと思ってたんだ。でも、ちょい合わなくて。今はここで裏方やってる」

 ″オカシイ″が、面白い。

 要するに、自分の価値は自分で決めろということだろうか。確かにそれなら、あたしも少し分かる。他の誰が変だと言おうと、あたしがそれに価値を見い出せばそれはあたしにとっては大切なものなのだ。

 そう思えば、他人にとってはおかしなことでも、それは自分にしかない価値あるものになる。だから、使い方次第で武器にだってできる。

 そもそも、世の中は変な奴であふれているのだ。自分は普通だと思い込んでる奴ほど全然普通じゃないし、他人と全く同じになろうなんてのも到底不可能だし、そう考えれば″普通″の基準さえ怪しいものだろう。



「あぁ、早いね。もうそろそろ片付けの時間だ。千秋、キリいいとこでやめよう」



 そう声をかけられて時計を見やると、確かに、部活動の終了時刻まではあと15分くらいしか残っていなかった。

「ん、進捗は9割と半分くらいか。終わりそうだね。ありがと、千秋。助かった」

「いや、あたしこそ仕事分けてもらったみたいな感じだし」

 それにしても、本当に風谷と話しているだけで部活の時間が終わってしまった。

「守ることも大切だけど……保守的になるって、盲目になるってことだと自分は思うんだよねー。そう思わない、千秋? 何も見えないふりをして、愛おしいものを取りこぼすでしょ」

「あぁ……」

 風谷の唯春を見る視線は、得られなかった宝物を羨むような色を帯びていた。恋情や友情などではない、けれどどこかそれにも近しい……そう、それはまるで、とてもすごくて美しい芸術品でも眺めるような。


「千秋とは、仲良くなれそうだな」


 風谷が、楽しそうに笑ってあたしを見た。

 あたしはただ話を聞いて相槌を打っていただけなんだけど、何かがお気に召したようだ。若干戸惑っているあたしに気付いたらしい風谷は、可笑しそうにくっと喉の奥で笑って、それからあたしの髪をかき混ぜる。

「わ、ちょ、絵の具つく!」

「はー? こんなの洗えば落ちる、風呂入ってがしがし洗え!」

 本当に、一緒にいると風谷のペースに巻き込まれてしまってだいぶ疲れた。


「あー唯春さん、今唯春さんへの愛について千秋と語ってたところだったんです。今からでも演劇部来ません? 千秋は大道具にください」

「薫、唯春さんが優しいからっていちいち絡まない。ほら、片付けるよ」


「ふふ」


 唯春が笑った瞬間、場の空気がふわりと明るくなる。

 一見高潔で触れがたいように見える唯春は、けど時間を共有すればするほど人を惹きつけていく。それはきっと、唯春のもつ真摯さやひたむきさ、そして心を開いた時の愛らしさが一歩踏み込まないと見えてこないからだと思う。

 唯春は他人に強く見せるのが得意だ。

 それは唯春を守るものだけど、一方で唯春から他人を遠ざけるものでもあった。

 でも、こうして同じものを目標にして長い時間を共に過ごせば、案外と相手の本当の姿は見えてくるのだ。


「千秋くん、お疲れさま」


「お疲れ、唯春」


 どことなく疲れた顔。

 でも、その表情は充実して見えた。

 これは、あたしだけでは唯春にあげられなかったものだ。

 あたしは万能じゃない。そのことを呑み込めてから、あたしはもっとちゃんと唯春と向き合えるようになった気がする。

 あたしは何でもできるわけじゃないし、唯春もあたしに完璧を求めたりはしていない。


 正直、何も気にしていないわけじゃない。


 でもまぁ、完璧で非の打ち所もないようなものよりは、少し欠けたものの方が手を伸ばしやすいし愛着も湧くだろう。



 それこそ普通ではない、少し形が歪んだようなオカシなものの方が。



「じゃあ、ミーティングやります!」

 霞先輩の号令がかかって、終了後の進捗、今後の予定が順番に確認される。

「はい、今日もお疲れ様でした。本番までもう一週間だけど、最後までできることあるので、それぞれ時間無駄にしないで最後まで集中してください。いはるちゃんと千秋ちゃんも慣れない中頑張ってくれてるし、人手不足は言い訳にならないので、戻ってきた部長にいい報告できるように最善を尽くしましょう、以上」

 気付けばもう、本番まで一週間程度しかないのだそうだ。時間が経つのは早い。


「今日も一日お疲れ様でした」


「お疲れさまでしたー!!」


 最後、霞先輩の挨拶でミーティングが締められ、部員は解散しそれぞれの場所へ向かう。帰る人、個人練や作業で残る人。霞先輩や風谷は残るようだ。

「唯春、今日は?」

「帰るよ。家で復習しなおそうかなと思って」

「そか」

 午後6時、少し前。

 一応帰る声掛けをして、部員たちから挨拶をもらい部室を後にした。




 明日、土曜日は演劇部の活動日になっているため、ふたりで練習に出てくる予定だ。

 当日までの残りの一週間は本番のステージに近い環境を確保できるようになるため、全体練習で微調整を重ねていく形になる。そして前日には、ゲネプロ、という本番の舞台で衣装や道具を全て使って本番通りに頭から最後まで通すリハーサル練習があるらしい。

 演劇部の公演の場所は、体育館ステージを割り当てられていた。

 そして当日の2日間は、1日1公演の計2回、時間帯は午後で公演を行うことになる。


「千秋くん、どんな感じ?」


「んー……、まぁ、いけると思う」


 あたしが演技の練習に参加したのは、これまでに2~3回くらいだった。

 ただラストは本当に夫婦の引き止めを受けながらも姫が迎えの手を取るシーンだけだし、あたしは全く喋らないので、比較的スムーズにOKが出た気がする。

 あとは霞先輩から、姫を愛おしんで、表情は最大限感情的に、姫のことしか考えないでという助言をもらったのでそれを意識してはいる。


 でもそれよりも、大きな山場である王からの求婚シーンが難関のようで、部活の時間の大半はその場面の練習に使われた。


 姫に求婚する5人の貴公子たちが順番に姫から与えられた難題の結果を報告し、挫折していく。そこから話は王宮から使者がやってくるシーンへ移り、王との望まない婚姻に追い詰められた姫は、自らが抱えていた秘密とともにその本心を夫婦へ打ち明けるのだ。

 そして確か、そのシーンには唯春が演じる姫の長ゼリフがあったはずである。

 一度小道具を装ったカンペを用意する案も出たものの、大事なシーンでカンペに頼ると盛り上がりに欠けるという指摘があり、結局全て暗記することになったと唯春から聞いた。

「唯春は?」

「うーん……少し、難しいかな。もっと悲痛さが欲しいって。セリフを言うのに一生懸命になってて、悲しくないって言われちゃったんだ。いまいち入り込めないって」

「そうか……」

 演技のことは分からないし、実際その場に参加していないから上手いアドバイスは出てこない。ただ、それでも唯春の表情はやる気に満ちていて、何だか見ているだけで嬉しくなってしまった。


「じゃあ例えば、唯春が他の誰かと結婚することになって、付き合ってる奴とは別れてもう金輪際会えないって言われたら?」


「や、やだ!!」

「例えばだっての」


 今回の話は、多分そんな感じだろう。

 許されない恋によって引き裂かれてしまったふたり。そして姫は、恋人を忘れられず望まない結婚に苦悩する。

「ちあきくん、と……」

 何となくで言ってみただけだったものの、唯春が考え込んでしまった。どうやら案外的を得ていたらしい。


 もし唯春と別れろと言われたら。


 あたしはたぶん、納得できないと思う。

 誰にも何も言われたくない。何にも左右されたくない。だからこそあたしたちの関係は、本当に信頼する人間にしか打ち明けたことがない。何も知らない奴の汚い手で触れてほしくないから。無知で無関心な人間は、そうして他人の大切なものを軽々と壊せてしまうから。



「ねぇ、もし、ぼくたちが誰かに”間違ってる”って言われたら、どうする……?」



 ふたり並んで廊下を歩き、階段を下りていた時。ふと踊り場で足を止めた唯春が、か細い声でそんなことを聞いてきた。

 きゅっとあたしの指に指を絡めて、縋るように引き寄せ、握る。あたしはそれを握り返して、唯春の目を見つめた。


「間違ってるかどうかを決めんのはあたしたち自身だろ。少なくとも、無関係な他人にそんなこと言われる筋合いは無え」


 瞳の奥に、泣きそうな色が揺れる。

 あたしはそれを捉えたまま、安心させるように笑った。



「それでも間違ってる、って言うなら……──その時は、はるを失うことよりも、はると一緒に間違え続けることを選ぶよ」



 誰かが決めた正しさなんて、あたしたちには重要じゃない。

 あたしにとって何よりも大切なのは、桃沢唯春だけだから。あたしにとっての正解は、唯春の笑顔だけ。だから、唯春が苦しむならそれは不正解なのだ。

 それが罪だというのなら、あたしは喜んで罰だって受ける。



「ぼく、も。……ぼくも、そう思ってた。──ぼくもきっと、全て捨ててあきくんに逢いに行く。あきくんのそばに、いる」



 普通になりたいだなんて思わない。

 もしかしたらそれは、安息を得るための一番の近道かもしれない。

 けど、大切なものを全部手放して見る世界は、きっとあたしたちには色褪せてしまってつまらないだろうから。


 それならこのとびきりオカシな感情まで全て愛した方が、よっぽどあたしたちらしい。


 そっと唯春の頭を撫でて、髪へ指を滑らせた。頭の中で本を開いて、ページを捲り、小さくブレスする。



「──────…………、」



 それは本来、あたしは口にしないセリフ。

 けど、確かにあたしの言葉だ。

 霞先輩のセリフと動作を合わせる必要があるから、あたしが言うのではなくても言葉はちゃんと覚えていた。

 受け取った唯春が、一瞬驚いた表情になって、それからふわりと破顔する。


「ん、……はるはずっと、ずっと、あきくんだけのものだよ」


 あたしにだけ聴こえる小さな声で、唯春がそう囁いて微笑んだ。

 あぁ、触れたい。今すぐ抱き寄せて、口づけてしまいたい。

 けど、今はまだ許されない。

 あたしたちの間に保たれた不自然な距離を、今埋めることはできない。

 そっと手を伸ばして、ほんのり色づいた柔らかな頬へ触れた。喉の奥からほうと吐息を漏らして、唯春があたしの手に縋る。

 ──視線が絡んだ、ほんの数秒。

 逃げるように目を伏せて、唯春がぎゅっと強くあたしの手を握った。不安定な荒い呼吸に、胸が上下する。

 その桃色の唇が、うっすらと開かれた。


「我慢しろって、言って」


 泣きそうな色を帯びて、かすかに震える声。

 制御はこちらに委ねられた。

 深く呼吸し、それから、まっすぐに目の前の女を見据える。



「────唯春、我慢」



 唯春からあたしの手を離すのを待つと、彼女はあたしの目を見て小さく震え、こくりと唾を飲み下してからそっと離れていった。

 どうかしている。怒りにも似たこの強い衝動は、今すぐにでも唯春を目の前に屈服させろと叫んでいた。

 ぐつぐつと腹の底が煮立つ感覚。

 こんな強い感情でさえも、唯春は嬉しそうに受け取って飲み干してしまう。唯春を喜ばせたい。けど、同時に、唯春を泣かせるのもあたしだけでありたい。

 嘆息して、あたしは先を歩き出した。

 吹奏楽部は別棟、美術部は美術室、放送局は放送室、写真部は校外、運動部は体育館とグラウンド。中でも熱心な部活生は、部活が終わってもまだ自主練で残るのだろう。

 薄暗い夜の校舎。人の気配が遠いから尚更、おかしな気分になってきてしまう。

 ポケットに入れていたチョコレートをひとつ、口に含んだ。それをごりごりと歯で噛み砕いて、嚥下する。

 あとから追いかけてきた唯春は、決してあたしとは距離を詰めようとしないまま少し後ろを歩いた。足早に階段を下りると、やがて生徒玄関ホールが見えてくる。

 1Bと2Dの靴箱は、少し離れているのだ。

 先に靴を履き替えて唯春を迎えに行くと、座り込んで靴を履く姿が見えた。




 唯春は、精神的な支配を受けると落ち着く傾向がある。これは誰にも言ったことがない、あたしだけの秘密だった。

 例えば唯春が友人と遊びに行く時、ただ楽しんでおいでと送り出せば唯春は普通に楽しんで帰ってくるだろう。ただそこに、あたしがいくつか制約を設けたとする。そうしたらあたしの支配下にあることで安堵感を覚え、唯春はそこで必要以上の暗い思考を手放せるのだ。

 あらかじめあたしから明確に提示しておけば、唯春が必要以上にあたしの顔色を伺って不安になることもないから。

 詳細に報告を寄越すこと。必要以上の接触は控えること。嘘や隠し事はしないこと。あたしがそうと言った時は、何よりもそれを優先させること。もし反するような事があれば、その時は罰があること。

 いい子にはご褒美を、悪い子にはお仕置を。分かりやすい躾だ。

 あたしは、必要以上に唯春を縛ったりする気はない。お互いにとって必要なものを、必要な分用いているだけ。あたしは唯春を支配したくて、唯春はあたしに管理されたい。だから、そうしているだけだ。

 むしろこの手綱を手放せば、あたしは唯春に罰せられるだろう。それは、唯春からの信頼と安心の喪失という形で。


 それに、手放す気もない。

 だってあたしは今、こんなにも満たされていて幸福なのだから。


「ぼくにはあきくんしかいないんだから、そもそもあきくん以外で考えようとしてたのが間違いだったんだよね。もしぼくが、あきくんを奪われたとしたら……きっと、許せない」

 どうやら納得がいったらしい。

 靴紐を結びながらぶつぶつと反芻する唯春に、少し笑う。

 あたしはもうひとつ、チョコレートを口に入れた。今度はそれをあえて噛まずに舐めて溶かし、どろりと甘さを増したチョコレートを束の間舌の上で味わう。

 玄関口は、夜に包まれてしんとしていた。


「あ、何食べてるの?」


 唯春があたしの顔を見上げてくる。

 もう少ししたら、帰宅する部活生などで人が増える頃だろう。ポケットの中で包み紙をくしゃりと握り潰して、静かに唯春と目を合わせた。

 その柔らかな髪に指を通して、丸い頭を撫でる。一瞬その瞳が動揺したように揺れて、直後、頬がふわりと紅潮した。

 空いた片手を後ろの靴箱につく。そのまま腰を折ってぐっと屈み、肩を滑り落ちた髪に隠れて唇を触れ合わせた。

「──ン、」

 あたしに後ろから頭を押えられた唯春は、一瞬体を強ばらせて、それからあたしのブレザーの胸元に縋ってくる。

 混ざりあった蜜の味がひどく甘ったるくて、まるで媚薬みたいにふたりを酔わせていく。それを懸命に飲み下しながら、彼女がしきりに喉の奥から吐息を漏らした。

 先程こちらから我慢を命じたくせに、あたしの方が大概我慢がきかないのだ。

 それでも視界に入る表情がどろりと崩れ出したのを見て、あたしは唯春の唇に強く歯を立てて何とか彼女から離れた。


「チョコレート」


 先程の質問に対する答えだ。

 唯春の唇を汚し口の端を伝うチョコレートを、親指で拭いぺろりと舐める。

 どうやら腰を抜かしてしまったらしい。肩で息をしながらぼんやりと視線をさ迷わせる唯春の頭を撫で、その手の甲に唇を押し当てた。

「悪い」

 あぁ、ぐずぐずしているから向こうの方が騒がしくなってきてしまった。部活終わりで談笑するような声がこちらまで届いていて、あたしは腕を引き唯春を立たせる。

「……、」

 そういえば最近は、授業中どころか昼休みまで学校祭ムードな上、放課後もクラスの準備や演劇部の練習に参加することが多かった。そのせいで、思えばあまりふたりきりの時間を作れていなかったような気もする。

 しかも来週からは、学校祭一週間前でさらに沢山の時間が準備に充てられることになるのだ。放課後の作業も先生に許可を取って遅い時間まで残れるようになるし、そうなれば帰る時間だって遅くなるし、休み時間も作業で潰れるのでなおさら時間が取れなくなってしまう。土日さえも、平日だけでは足りないクラスや部活での参加がある生徒は学校に出てくるし。

 これは今だけの、ほんの少しの欲求不満だ。決してあたしがブレーキのない馬鹿だとか、配慮の足りない馬鹿だとか、そういうわけではない。普段はこんなではないのだ。もっと配慮があって、ごく紳士的なはず。

 ……その、はず。

「はる?」

 少し前から黙りこくっている、唯春の顔を覗き込む。

「…………ちがうの、あきくんが悪いんじゃなくて……ぼくが、」

「ん?」

 その押し殺されたか細い声を聞くために顔を近づけると、唯春はかすかに喉を震わせて、あたしの耳元で小さく打ち明けた。


「おかしいの。だめなことなのに、すごく心臓がどきどきしてて、誰か来るかもって思ったら…………きもち、よくて」



 ──あぁ、本当に、こういうところが狂いそうなほどに愛おしい。



 禁じられるほど感情は強く、深くなっていく。例えば許されない恋に落ちた姫は、罪と咎められ引き離されてなお、その想いに身を焦がし続けた。

 どんな求愛も、どんな富や名声も、彼女を揺るがすことはできなかったのだ。

 だって心の中には、もう既に彼女を縛る存在がいたから。それはまるで、禁じられた甘やかな赤い果実に手を伸ばすように。


 強い刺激に酔わされ、狂わされるように。


「ん……っ」

 こくりと唾を飲み込んで、唯春が押し黙る。

 まるで処罰でも待っているみたいだ。あたしは内心少し笑って、それから彼女の頬に手をあてた。人の話し声はもう、近い。

 けど、あたしは迷わず唯春の唇を自らのそれで包み込んだ。

 気休め程度に手のひらで口もとを隠し、触れるだけのキスを幾度も繰り返す。

 ここは下駄箱の影だ。触れ合う時間をぎりぎりまで引き伸ばし、背徳感にも似た強い快感をこらえながら、まだ少しチョコレートの甘さが残る唇を味わう。

 唯春が深いキスをねだるように舌で触れてくるたび、あえて唇を離して目を見つめた。じらされた彼女が、切羽詰まったように声を漏らして唇で触れてくるのを笑って受け止める。

 それから時間にしてほんの数秒、とうとう限界を察してようやく唇を離した。


 いくつか離れた下駄箱の向こうで、会話をしながら靴を履き替える気配。あたしたちには、気付いていないようだ。


 時計を見た。

 もう既に、時刻は6時を回っている。



「帰ろ、唯春」



 生徒玄関が混み出してしまった。

 こくりと頷いた唯春の手を引いて、あたしたちはようやく校舎を出た。


 余計な言葉は何ひとつない、お互いの感情を感じ合うだけの沈黙。あたしに手を引かれながらきゅっと太ももを擦り合わせた唯春には、わざと気付かなかったふりをした。

 この美しい女があたしに全てを委ねて深く感じるさまを、誰かに見せつけたい気持ちはある。ただ一方で、彼女を誰にも見せず閉じ込めておきたい欲求も確かにあたしの中にあるのだ。



「ぜんぶ終わるまで、ちゃんと我慢できたら……ごほうび、くれる?」



 それはまるで、乞うように切実な声。

 学校祭の準備期間に入ったのが、1ヶ月近く前。であればそれからずっと、唯春はお預け状態になっているのか。

 律儀で従順な彼女のことだから、きっと文字通り、あたしとのことどころかひとりでいる時も”我慢”をしているのだろう。それはきっと、いい子にすればその分だけ、あたしに愛してもらえると理解しているから。



「あぁ。唯春のほしいもの、あげるよ」



 学校祭が終わったあとの放課後と、次の休日を空けておかなくては。

 繋いだ手の指を絡め、くすぐるように触れて手を離した。刹那、唯春の喉からかすかに甘い喘ぎがもれたのを聞いて、どろりと重たいものが腹の底を這い回りだすのを感じる。

 あたしの中にある、どうしようもない飢えのようなもの。

 それを埋めてくれるのは、唯春だけだ。そうして隣で瞼を下ろす彼女を見た瞬間、あたしはいつもひどく安堵する。


 あたしのもとまで堕ちてきた、痺れるほどに甘い春。


 彼女がそうせよと言えば、あたしはその全てに従わなくてはならない。あたしが唯春に首輪をかけているようで、本当はあたしが唯春に捕らえられているのだ。

 そうしてあたしが唯春を失う時、きっとあたしの全部は無意味で無価値なものになる。



 唯春はあたしの全てだ。



 それこそ、他の何を奪われても、彼女の唯一でありたいと願ってしまうほどには。



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