第3章 月の下

第18話 変化




「それでね! みんなでご飯食べて、夜は部屋でお話してね、」


 土曜日の昼下がり。

 唯春の家に招かれたあたしは、唯春に手を繋がれたまま、彼女が嬉しそうに思い出話をするのを聞いていた。


 唯春のお母さんには以前挨拶したことがあるけど、ふわふわしてて穏やかな感じの人という印象だった。雰囲気はまさに唯春のお母さんといった感じで、けれど唯春よりはテンションが高く、何と唯春がお母さんを諌めるという珍しいシーンも見ることができた。

 ちなみに今日は、仕事で不在だそうなので、事前に『お邪魔します』という挨拶だけして今日家に上がらせてもらっている。

 唯春をうちに呼んでも良かったんだけど、土曜日だから弟がいるし、両親は唯春を呼ぶ度にはしゃぐし、唯春も見せたいものが多いと言うので諸々の要因により今日は唯春の家へお邪魔するに至っている。



 つい先日、唯春が修学旅行から帰ってきた。



 修学旅行といえば、2年生の一大イベントだ。

 しかしたった数日間とはいえ、あたしと離れなくてはならない不満やクラスメイトと長い時間を過ごすことへの不安も強かったようで、前日まで唯春はひどくぐずっていたのだ。

 でも心配に反して、帰ってきた唯春はにこにこと上機嫌だった。

 とりあえずその事には安心し、今日はこうして思い出話を聞きながらお土産を受け取るという名目で家デートを決行しているというわけである。

「楽しかったな。行ってよかった」

「そか。よかった」

 目的地は関西だったらしい。本場のグルメを味わい、文化に触れ、ショッピングを楽しむ。個人の旅行ではなく修学旅行だから、自由に動ける時間は限られているけど、めいっぱい予定を詰めて動き回ったのだそうだ。

 一緒に行動したグループは、霞先輩を含む4人。雰囲気は至って和やかで、夜も色々話したりして思いの外盛り上がったそうだ。距離感があったことによって勝手に出来上がっていた唯春のイメージを壊すように、彼女はそこで色々なことを話した。お菓子作りが好きなこと、本を読むのが好きなこと、それから、大好きな恋人がいること。

 結果的に、親交を深めることには成功したようだった。

 唯春はしっかりしているから、修学旅行中は世話焼きポジションだったらしい。なんとなく想像がつく。唯春は何でも気が回るし、おおらかだから甘えたくなってしまうのだ。


 まぁその唯春に甘えてもらう特権を持っているのが、あたしというわけだけど。


 唯春は先程からずっと、あたしと手を繋いだまま離そうとしない。

「はる?」

 笑いながら繋いだ手を振ってみると、唯春は嫌がるように手繰り寄せてきた。

「やだ、……今は、充電中だから、」

「充電中? じゃあ、ぎゅーはしなくていいのか?」

「や、やだ!」

 やだやだばかりだ。

 唯春の目をまっすぐに見据えてやると、その色素の薄い瞳がかすかに揺れた。

「ぎゅー、する」

「ん、おいで」

 膝の上に唯春を乗せて、そのまま抱きしめる。随分と久しぶりな気がした。唯春の家だから、唯春の匂いが濃い。そして、柔らかな感触。

「あきくんとも、行きたいな」

「あぁ。行こう」

「あきくん、あきくん」

「なに」

「もう一度だけ、名前を呼んでほしい」

「はる」

 唯春は不安とネガティブが若干強い。だからいつも、自ら口を噤む。

 あたしはそれを、いつもあえて待つようにしている。何を望むのか言わせる。言うまでは気付いていても与えずに、その代わり言えた時は何があっても必ずそれを肯定し与えるのだ。

 あたしになら話してもいいと、そう思ってもらえるように。



「ぼく、ね、……あきくんと同じクラスになれたら良かったのにって、思ったこと、ある」



 罪を告白するように小さな小さな声で、唯春が言った。

 あたしを抱きしめる腕に力がこもって、唯春が堪えるように顔を埋めてくる。その仕草につい笑って、あたしは唯春の髪を撫でた。

「あたしもだよ。あたしも、何度も思った。唯春と同じクラスだったら、入学式から一緒だったし、体育祭も一緒だったし、宿泊研修も一緒だったし、修学旅行も一緒だもんな」

「ん、……でも、体育祭は、嫌だ」

「何で?」

「…………ぼく、体育祭、嫌い」

 そうだ。

 唯春は運動嫌いのインドア派で、体育の授業や体育祭も特段好きではなかった。

 運動はしないけどお菓子作りが趣味だし、よく食べたりもするから、唯春はあたしよりも少し肉付きがよくてむちむちしている。

「ねぇ、今、変なこと考えたでしょう。ぼくは全然、太ってなんかないからね。ちょっと上だけど、それでも標準体重だから!」

「はは、分かってるって」

「確かに最近は、少し、太っちゃったけど……あきくんが細すぎるの!」

「何も言ってねえだろ。それに、あたしは少しくらいふわふわもちもちしてる方が触り心地良くて好きだけど?」

 かっと顔を赤くした唯春が目を伏せたから、それをすくい上げるように口づけた。

「あきくんのばか、へんたい、ン、」

「多分あたし、はるがめちゃくちゃ太ってもはるのこと愛せると思う。だからその辺は、全然心配しないで。可愛いはる、余さずぜんぶあたしのもんだよ」

 それにあたしの感覚では、唯春が太っただなんて全然思わない。こうして抱き締め、触れていても──まぁあえて言うなら、胸が多少大きくなったかなという感覚はあるが。

「…………、」

 言い返せず困りきった表情になってしまった唯春の唇を、もう一度奪う。いつもは綺麗な顔をしている唯春が、あたしの前でだけこうして表情を崩すのは見ていて気分がいい。

 他の誰も、唯春がこんな子だってことを知りはしないのだ。唯春がどうあたしの名前を呼ぶか。どうあたしに縋るか。触れた時どう反応して、どう感じて、どんな声を出すか。限界を迎えた唯春がどうなるのかまでも。


「っはふ、あきくん、……だめ、今日はふたりでゆっくりするって、」


「そうか。悪い」


 確かに、ただでさえ体力のない唯春は旅行帰りで尚更疲れているだろうし、楽しかった話をいちゃいちゃで流すのもあまりよろしくないかもしれない。

 ただあと少しだけ抱きしめさせてもらおうと思い、ぎゅうっと5秒間強く抱きしめてから離れる。──と、拍子抜けしたような声が唯春の喉から漏れたのが聞こえてしまった。

「ぇ、」

 あっさりあたしが離れたのが意外だったらしい。

 確かに、数日間とはいえ顔も見られず電話もできずでは正直思うところもあった。ただ唯春が楽しめたことはあたしにとっても嬉しいことだし、それにあたしは唯春が好きなのであって、決して性欲モンスターなどではないのだ。

「このストラップ、可愛いな。さんきゅ、大切にする」

「ん、うん……」

 桜をモチーフにした、ピンクの愛らしいストラップだ。どこに付けよう。鞄は危険なのでやめておきたいところだ。スマホにつけようか。……ふむ、そうしたらいつも見られるし、結構いい考えかもしれない。


「あきくん、」


 そっと袖を引かれて、あたしはそこで思考を止めた。

 ぎゅうと胸を押し当てるような、安直な誘惑。どうしようもなくて泣き出しそうな彼女のその声音に、つい笑みがこぼれた。

「……さみしかった、の、……だから、」

「だから?」


「…………離れ、ないで」


 もう充分だろう。

 唯春があたしを求めている。その事実だけでもう、あたしはおかしくなれてしまう。


「わ、」


 縋り付く唯春を引き剥がして、そのまま床へ押し倒した。床へ広がった髪をひと束すくい、口づける。

 あぁ、もしかして、この数日であたし以外の人間が唯春の笑顔を何度も何度も見たんだろうか。例えばはしゃぐ姿を。例えば寝顔を。大浴場であれば、その素肌を見た人間もいたかもしれない。風呂上がりの火照った姿も。唯春は美人だ。そうしたうちに色目を使いだす人間がいたって、何らおかしくはない。


 ────でも、そんなのは到底耐え難い。


 どうして、あたしはもう一年だけ早く生まれることができなかったんだろうか。

 大人になれば一歳の年の差なんて些細なことだというけど、そんなのは子供には関係ない。こんなあたしたちには、たったの一学年でさえも大きな大きな差なのだ。

「あきくん」

 唯春の声が、あたしを呼ぶ。

 その手のひらが気遣うようにあたしの頭を撫でた。本当に、敵わない。

「ごめんね、変なこと言ったね。大丈夫。ぼく、こうして触れてくれるあきくんがいちばん好きだよ。幸せなんだ。本当だよ」

 ぐっと引き寄せられて、唇が触れる。

 唯春の喉から甘い吐息が漏れて、それを塞ぐようにもう一度口づけた。


「でも、心配なら……安心できるまでぼくに触れて、印をつけて。あきくんしか知らない、あきくんだけのぼくにして。」


 今ここにある体温だけが、あたしたちにとってはこの世界で唯一確かなものなのだ。

 明日のことなんて分からない。遠い未来なら、尚更だ。そうやって形の分からない不確かなものに手を伸ばすたびに、深い闇のような途方もない不安に呑まれてしまいそうになる。

 手の届かない綺麗な光を欲してしまいそうになって、けれどそれが到底不可能なことなのだと思い知るたびに、どうにも息が苦しいような感覚を覚えてしまう。

 ずっとあたしを包んでいた薄い膜。

 それを破ったのは、唯春だ。唯春はいつだってあたしの手を引いてくれた。あたしに向き合ってくれようとした。本当はこんなに小さくて臆病なあたしを、唯春はその全てで優しく包んでくれる。



「唯春、……一生あたしだけの唯春でいて。一生あたしのそばにいて。お願い、」



 本当に、みっともない。

 あまりに無様で笑ってしまう。けれど、そんなあたしを抱きしめて唯春は言った。



「うん。ぼくは、ずっとあきくんのそばにいるよ。だから、泣かないで」



 唯春に触れている時だけ、あたしは深く呼吸ができる気がする。

 一度手にした幸せを失うのは、怖い。

 だからきっと、唯春の死ぬ時はあたしの死ぬ時だ。彼女がいなくてはもう、あたしは上手い息の仕方さえ分からないから。



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