2.春待つ祈り
千秋とは、幼稚園の頃から気付けばずっと同じクラスだった。
特別仲のいい友人関係を築いていたわけではない。ただ、気付けばいつも同じところにいる、まさに『腐れ縁』という言葉が相応しいようなどこか気安い関係性。
小さい頃の千秋は、無鉄砲で、粗野で、まさに野生動物のような子供だった。
同級生の女の子にはよく男みたいだと言われていたし、千秋自身もからりと笑ってそれを肯定しているのを見ていた。
千秋のお兄さんのことも、よく知っている。小学校では2年ほど時期がかぶったはずだ。お兄さんの照葉さんは陽気で器の大きい感じの人で、千秋とも仲が良かったため教室でよく姿を見ていたように記憶している。
──などと、これだけ情報が出てくるくらい、私と千秋の関係は長かった。
けど千秋は、いつだって独りだった。
千秋は人に囲まれているようなポジションの人だ。それは間違いない。クラスメイトとも関係は良好だし、振られてきたおふざけにも乗ったりするくらいには明るい。
けどそれでも、千秋が特定の誰かと一緒にいるところは一度も見たことがなかったのだ。
じゃあ私が仲良くしよう、という思考には、ならなかった。だって私と千秋の関係は、もっとさっぱりすっきりしていて、気兼ねのないような感じなのだ。だから少なくとも、私がどうにかしようとするようなことではない。
そして千秋も、そんなことを私に望んだりはしないだろう。
長年顔を見てきたお互いにとっては、この距離感が一番丁度良かったから。
そしてそんな私も、初めて恋をした。
小学校5年生くらいの時、クラスに転校生が来たのだ。
向夏蛍乃佳。初めは正直、私は彼女のことをなんてうるさい子だろうと思っていた。声もリアクションも大きいし、強引だし、根っから明るい性格をしていたから。
けれど時間を共に過ごしていくにつれ、私は次第に彼女のその強い輝きに惹かれるようになっていた。彼女の隣にいると、世界がいつもの何倍も輝いて見えるのだ。彼女が手を引いてくれると、何だかいつも未知の世界に足を踏み入れたような胸の踊る感覚がある。
幼少の頃から何かと”冷めている”なんて言葉をかけられることが多かった私は、彼女がどうにも不安定で危なっかしいように見えて、よく口出ししたりもした。けどそれがどうしてか気に入られてしまったらしく、そこから私と蛍乃佳はよく一緒に過ごす友人のような関係性になっていったのだ。
聞けば蛍乃佳は、両親が離婚し母方の実家へ世話になる形で母と妹と弟とともに移り住んできたらしかった。
そんな話を聞けば尚更、私は蛍乃佳を放っておけなくなってしまった。幼心にも、こんなに綺麗な光が陰るようなことがあってはならないと思ったのだ。蛍乃佳をひとりにしてはいけない、私がそばにいなくてはと。
そんな蛍乃佳への感情が恋だと気付いたのは、彼女が他のクラスの生徒から告白を受けてきたことがきっかけだった。
その時は、『全然知らない人だから』と断った話を蛍乃佳から聞いたけど。私は到底、穏やかでいることなんてできなかった。
──自覚してしまったのだ。
ずっと蛍乃佳へ抱いていた自分のこの感情は、友人へ向けるようなものではなかったのだと。だって、蛍乃佳が誰かと付き合うなんて嫌だと思った。蛍乃佳が私以外の誰かを見て、好きになるなんて嫌だと思った。
考えるだけでも、どうしようもなく胸が痛んだのだ。
『あー……、見てない、聞いてない』
ある日の放課後。
蛍乃佳の机に触れて考え事をしていたところを、私は千秋に見られてしまった。
ほら、誰だって、好きな人の机やものにこっそり触れてみたことはあるだろう。そういうやつだ。でも、それでも私は蛍乃佳の席に座るという行為だけはしなかった。それだけは、ぎりぎり理性が勝ったから。
でも最悪なことに、てっきり自分しかいないと思い込んでいた私は、そこそこの声量で独り言も言ってしまっていたのだ。
荷物を取りに来ただけだからなどと言い訳をしてどこかへ行こうとした千秋を、私はすぐさま引き止めた。そして、彼女へどこまで私の独り言を聞いていたのか問うた。
そこで私は、千秋に私自身の秘密を全て知られてしまったことを理解したのだ。
一気に頭が真っ白になってしまった私に、千秋は苦笑して言った。
『あたし別に、誰にも言いふらしたりしないけど。……でも、気になるならあたしもひとつくらい秘密言おうか』
千秋には、私が知る女の子のような距離感の近さがなかった。
例えばこれが千秋でなくクラスの女子だったならば、絶対にもっと私の話を深掘りしてきたことだろう。なぜ、どうして、どういうこと、いつから。口の軽さに関してもあまり信用がならない。口先だけでは『秘密にするから』などと言っておいて、絶対翌日には話が広まっているし、そうなれば私はクラス全員から奇異の目を向けられることになる。
でも千秋は、根掘り葉掘り聞いて言いふらすどころか、至って何でもないことのように自らの秘密も打ち明けてきた。
『あたしも多分、女の子好きになれるよ。性別が気になんねえの。だから言っちゃえば、男でも女でもなくてもいいんだ。きっと』
あたしの耳元でぐっと声をひそめ、けれど何ら躊躇うことなく千秋はそう言ってのけた。
それから鞄を持ち上げて、さ、帰るぞと千秋は笑った。その軽さに拍子抜けしてしまって、そこで私は、長年を共にしておきながら初めて千秋の人柄を知ったのだ。
それから私と千秋は、ただの腐れ縁ではなく秘密を共有した”ひどく近しい腐れ縁”になった。
辞書を引けば腐れ縁は『離れたくとも離れられない好ましくない関係』と出てくるが、その語源は『鎖に繋がれたように離れられない』鎖縁がもとになっているのだという。
私と千秋は、まさにそんな感じだった。
決して望んだ訳ではない。実際友達のように仲良くした記憶もない。ただ気付けば、何かに繋がれてしまったようにずっと気配を感じずっと同じ場所にいた。
時間を過ごせば、多少は情だって湧く。
私はいつしか、このひどく孤独で孤高な長々しい秋に理解者が現れることを願い始めた。
ただひとりでいい。この女を深く愛し、そのぬくもりで包んでやれるような人間が現れはしないものかと。
それから時は経ち、小学校の卒業式の日。
当日、私はあえて蛍乃佳とあまり話さないようにした。父親の辞令により私は遠方の中学校へ行くことが決まっていたし、あまり縋り付くのも無様だと思ったからだ。
蛍乃佳が寂しそうな顔をしているのには気付いていた。けれど、中学校に進んでしまえばそれも過去の出来事になると思った。
蛍乃佳はいい子だから、友達も恋人もすぐにできると。
『どうせ離れんなら、最後に言っちゃえばいいんじゃねえの? もう顔も見ないだろ。ずっと抱えてるより、捨てた方が軽くなるし』
卒業式を終えて皆が感傷に浸りながら談笑する中、千秋はひとりどこか感動が薄い様子でそんなことを私へ言った。
何を簡単に。そんなのは無理だと言おうとして、けれど反論できない自分がいた。このまま胸の中で握り潰して押し殺してしまうには、この感情はあまりに大きすぎたのだ。
『──凪雪ちゃん、』
私に距離を取られることに痺れを切らしたのか、そこで蛍乃佳が私の名前を呼んで話しかけてきた。彼女も、私が皆とは他の中学校に進むことを知っていた。だから本当はもっと、卒業式の前から感情を共有してはしゃぎたかったんだろうに。
その日の彼女は、いつになく静かだった。
『蛍乃佳。話したいことがある』
それからは、先述の通りだ。
返事を求めず告白して、けれど高校で思わぬ再会を果たし、結果交際からアタックを重ね蛍乃佳と両想いになるに至った。
蛍乃佳と付き合うことになったと打ち明けた時、千秋は初めて私の前で感情を動かした。
へぇ、と、返事はごく素っ気ない一言。
けど、その瞳の奥が揺れたように見えたのだ。それが何なのかは私に分からなかったけど、不思議と悪くない感情を抱いてもらえたらしいことはなんとなく察せられて、私はようやくそこで千秋と分かり合えたような気がした。
蛍乃佳と千秋の関係性は、まるで成犬と幼犬のような感じだった。じゃれつく蛍乃佳を、千秋が呆れながらあしらう。
小学校の時私はそれを不思議に思っていたけど、こうして付き合ってみて分かった。私が蛍乃佳を好きだと知っていたから、千秋は蛍乃佳と距離を保とうとしたのだ。蛍乃佳は、油断すればすぐ他人との距離感が近くなる。だから私が不快にならないように、千秋は蛍乃佳と一線を引いたのだ。
千秋は優しい。私は時折その分かりにくさがどうにももどかしくなるのに、千秋は一度も周りへ理解を求めたことがなかった。
そうして誰に対しても、媚びたり気に入られようとしたりすることがない。その様はまるで、私からはあえて他人を遠ざけようとしているようにも見えていた。
一度、どうしてかと彼女に聞いたことがある。事実を話して理解を求めないのかと。そうしたらもっと千秋は周囲に愛されるだろう、なのにどうしてそうしないのかと。
そうしたら千秋は、興味がないのだと言った。他人の評価には興味がない、振り回されるのももう懲り懲りだと。それでも分かってくれる人間がいるなら、その人と付き合っていけばいい。他人のために自分を揺るがす気はないと。
私はその時、彼女は誰とも分かり合う気がないのだと思った。
他人に理解を求めないこと。つまり、他人と無理に歩み寄る気はないということ。
彼女は元々他人への関心が薄いように見えた。だから尚更、私には彼女がずっと孤独に見えていたのだ。
その点、若月真佑は優秀だった。
若月は私とも千秋とも中学校が違うものの、高校に入ってから千秋とすぐに安定した関係性を築いた。
ほどよい距離感、ほどよい意思の疎通。それでいて遠慮は皆無。若月は煩雑なことを好まないサバサバとした性格で、ある意味千秋と似通ったような部分がある人間だった。
ただ少し違うのは、千秋が慎重派だとすれば若月は過激派だということ。若月は”我慢”ができない。目の前に見えた目標へ、一も二もなく走ってすぐ掴み取らなければ満足できない。もどかしいことを嫌うたちだから。
そんなこんなで千秋に彼女ができたという話を聞いた時、うじうじと考え込んで足踏みする千秋の背中を突き飛ばしたのが若月らしいという話を聞いて、私は納得してしまった。あいつはまぁ、そういう奴だ。
ただ一方で、あいつは面倒を嫌うためにふたりが付き合ったあとの一切を私に投げて寄こした。千秋はこれまで、他人と距離を詰めた経験がない。だからこそ、恋人がどういったものであるか分からない。
丁度クラス横断の調べ学習が始まった時、教師の指示のもとクラスがあまり被らない5人の生徒でグループを作ることになった。
内実は先に題材とするジャンル選択の希望調査が取られた上でのグループ作成だったにもかかわらず、気付けばまた千秋と顔を合わせる羽目になってしまって、私達はもう諦めの境地に達しながら同じグループになることをお互いに承諾したのだ。
来年はクラスまで同じになるんじゃないだろうか。真面目にそれも有り得る気がする。
諸々の要素を加味して、グループのリーダーは千秋になった。けど、しっかり役割分担をしたためメンバー内での作業量にはそれほど差がなかった。例えば、千秋はリーダーの招集に応じたり先生から下りてきた指示や課題諸々をメンバーへ共有する担当。私は、全体の統括とスケジュールや進捗を管理する担当だ。
その日、私は提出するよう指示されていたレポートが自分のグループだけまだ提出されてなかったことを教師から知らされた。
他のクラスにいるメンバーに声をかけると、皆すぐにレポートを出してくれた。そうしてあとは千秋だけというところで、そういえば千秋は恋人である先輩と空き教室で食事を取っているのだったかと思い出したのだ。
付き合い出してまだそれほど経っていない千秋たちをふたりきりにしてやりたい気持ちは山々だったものの、レポートの提出期限は丁度その昼休みまでだったため、待ってやることもできなかった。
それで仕方なく顔を出した、空き教室。
初めて千秋の恋人を見た。
なるほど、学校内でもトップクラスの美人だ。スタイルもいいし、所作も綺麗だし、彼女が妬まれる理由も分かる気がした。
むしろ何故千秋がこんな綺麗な人を捕まえてこられたのか、不思議に思えるほどだ。……いや、千秋のあの素直な人柄が、恐らく彼女の心に刺さったのだろう。
千秋といる唯春先輩は、とても幸せそうな表情をしていた。
私は一応千秋と付き合いが長いから、小学校以前のことなら知っている。私が知る過去の話でもすれば場が盛り上がるかと思い、クラス行事でやった焼肉の話を持ち出してみたものの、先輩の反応はいまいちだった。
……ふむ、失敗したようだ。蛍乃佳は千秋からそういった話を聞いた時喜んでいたのだけれど、人が何で喜ぶかは違うらしい。
そういえば、千秋と蛍乃佳と私はもともと顔見知りだったけど、先輩とは初対面だ。知らない奴が急に現れて話し出したのが良くなかったのかと思い千秋を見ると、千秋も先輩の視線の色に気付いていたようで私の紹介に入った。
『あぁ、こいつ? あたしの腐れ縁』
軽い調子で千秋が私の説明をする。
その時私は、先輩に不安の色が過ったのに気付いてしまった。だから千秋の足りなすぎる説明を補足するように言葉を重ね、自分の所属、千秋との関係性を順番に明かした。
全然変な仲ではないし、心配するようなことも一切ない。今回だって、授業の件さえなければ私は千秋に会いに来る理由なんてこれっぽっちもなかったのだ。
一応理解を得た様子の先輩は、少しだけ表情を和らげたようだった。けど、悪いことをしてしまったかと思い千秋を見ると、千秋は一切気付いていない様子でけろっとしていた。
私はそれが何だかひどく苛立たしくて、その頭をはたき千秋を教室から連れ出したのだ。
『あんた、レポートくらいすぐ書いときなさいよ。一応、リーダーでしょう』
『いや、忘れてて……悪い』
『悪い、って? 謝るなら先輩に謝って。不安そうな顔してたでしょ。気付かなかった?』
『あー……まじで?』
本当に、馬鹿な千秋。
以前交際したことを聞いた時、千秋の口から、自分を信頼して慕ってくれる先輩のために頼れる恋人でいたいのだと聞いた。
それなのにこの有様。千秋は、人と深く関わることを無意識に避ける傾向がある。なんていうか、ごくすっきりとした深入りしない関係構築を好むのだ。
『あのね。あんたもっと、先輩のこと見た方がいい。先輩が言葉にできなくても、あんたが察してやれるくらいの感覚を持ちなさい。あんたが先輩を安心させてやれなくてどうすんの』
言いたいことを全て言ってやると、千秋はぐっと言葉に詰まって苦々しく頷いた。
それから教室まで千秋をせっつき、そこでレポートを書き出したのを目一杯急がせ、奪うようにそれを受け取りできるだけ早く千秋を先輩のもとへ戻らせたのだ。
それから千秋は、先輩のことをより意識するようになった。それで何かあるたびに私へ相談に来るようになって、私は先輩のため仕方なくその相談に乗っていたのだ。
まぁ内容は、ほとんどが惚気だったけど。
それでも当初、私はふたりは至って順調だと思っていた。
ことが大きく動いたのは、とある日の放課後だ。もとより用事があった人に加え、急きょ部活に参加しなくてはならなかったり病欠したりしたメンバーの欠席が重なったことにより生徒会の集まりが中止になった。
その日は塾もあったものの、生徒会があるていで予定を入れていたため時間には余裕があった。そこで思い出したのが、例のクラスを横断する調べ学習の件だ。
あれは授業内に作業時間も取られるものの、完了に必要な作業時間と比べたら7割あるかないかくらいなのだ。つまりそれは、授業時間に頼らず自主的に集まらなければならないということ。加えて、クラスを横断するということは、その分だけ集まるのが困難になるということだ。部活があったり委員会があったり、塾があったり、習い事があったり。全員で集まることが難しい日も珍しくなかった。
それで教室を覗いてみると、千秋の鞄が見えた。千秋はまだ学校にいるらしい。
丁度いい、まだ決めていなかった今後のスケジュールを調整してしまおう。そう思って順番に近隣の教室を探して行った時、空き教室から千秋の声が聞こえた。
スケジュールを見るだけだから、さほど時間はかからないはずだ。そう思って教室の中もろくに見ずに勢いよく扉を開けた瞬間、私は人生で最大の失態を犯した。
千秋は他でもない、先輩と一緒だったのだ。しかも視界の端に、先輩が千秋を抱きしめていたのが見えてしまった。これは明らかに、邪魔しない方がよかった状況だった。
思わず顔を顰めてしまって、けどここから引き下がるのもおかしいかと思い持ってきた要件だけを告げた。
断れ。今は無理だと言え。スケジュール調整なら、何も今日でなくても何とかなる。何なら、連絡先を交換すればメッセージ上でだって可能だ。私と千秋の仲だからお互いの連絡先ももちろん知らなかったけど、そんなのは後で確認すればいいこと。
なのに、千秋が言葉を発するその前に、先輩が行ってくるように告げてしまった。
そこで千秋も粘ればいいものの、『そうか?』などと言って納得してしまったのだ。
私は頭が痛くなるのを感じながら、千秋を連れ教室を出た。その時の先輩の顔は、どこか泣きそうだったようにも見えた。
無言。
どこから何をどう言えばいいのか分からなくて、深い深いため息が喉から出てきた。
『はー、千秋ってそういうとこあるよね』
『何が言いたいんだよ』
いじけたような千秋の顔。
私もこんな説教じみたことはしたくない。けど、どうしても言わずになんていられなかった。だって、見ただろう。先輩の顔を。
『普通は先約を優先するでしょう。それなのに千秋は……全く、人の気持ち考えたことある? みんながみんな何でもすっきり割り切れるほど強くないし、我慢を続けられるほど暇なわけでもないの。少なくとも、私はよくない』
先程の場合は私よりも先輩が先約だったし、何より明らかにそっちの方が大事だったはずだ。なのに、後からぽっと出でやってきた私の、大して重要でもない用事を目の前で優先されてみろ。私なら、恋人に軽んじられていると思ってしまうしすんなりとは割り切れない。
それに、初めは我慢がきいても、積み重なれば限界を迎えるだろう。
『まぁ私も悪かったけど。そんなだから私、あんたのせいでいちいちやきもきしてる』
千秋には幸せになって欲しいのだ。
だって先輩は、ずっと孤独だった千秋が初めて掴んだ”唯一”だから。
私と千秋は友達ではないけど、それでも歴だけは長い一種戦友のような仲だと勝手に思っていた。今回は、私の失態だ。それは認める。けど、切り返しによっては先輩の不安を取り除くことだって可能だったはずだ。
本当に、気付けば最近、私は千秋の心配ばかりしている気がする。
『……』
言いすぎたようだ。
千秋が黙り込んでしまったので、とりあえず空気を変えようとその話題の中心である千秋の最愛について議題を移した。
付き合うことになった時の出来事から始まり、今日は先輩から手を繋いでくれただの、腕を組まれただの、いつも私は惚気を聞き続けていたのだ。まぁ私以外に話せる人がいないというのも理由の一つではあったんだろうけど、それにしたって千秋の変わりようはすごかったと思う。
『……でも、ちょい困ってる』
ぽりぽりと頭を掻いて、千秋が呟いた。
”困っている”。ほらまた始まった。これは千秋の、惚気の常套句だ。
『ああやってくっついてくんのとか……正直やめてほしいんだ。耐えられない』
本当に、お幸せなことで。
続く千秋の言葉を、私は話半分で聞き流した。まともに聞いていたら胸焼けしそうだから。
『まじで、すげえいい匂いがすんの。あと、めちゃくちゃ柔らかい。気がおかしくなりそうなんだ。でも唯春はすげえピュアだから、あたしはぐっとこらえるわけ。
でも正直、すげえ抱きたい。我慢できねえ。あんなふうに抱きつかれてみろよ。押し倒すかと思った』
『もう抱けば? 最近、先輩も積極的だって言ってたでしょ。それ向こうから痺れ切らしてきてるんじゃないの。はいはいおめでと』
『まじ……?』
意外なことに、千秋は本命には重くなる方だったらしい。普段の人間関係がドライだからあまり想像していなかったけど、先輩の話をする時の千秋は途端に、気軽に話しがたいような重い感情を見せ始めるのだ。
ただそれを、本人に見せたことはなかったようだけど。
曰く、先輩の前では格好よくて優しい恋人でいたいのだという。束縛したりするのは柄じゃないし、それで嫌がられたりしたくないと。
後から思えば、一種の防衛反応だったのだと私は思う。
抑え込んで距離を取っているうちは、まだコントロールがきくのだ。それがあふれてしまえば最後、きっと後戻りはできないから。
だから、千秋はずっと自制していた。
それは何より、先輩のために。
『よし。これで終わり。スケジュール共有しとくから、あとでもう一度確認して。変動あったら都度報告よろしく』
『分かった』
その後、もともと長話する気もなかった打ち合わせは10分もない程度で終わった。千秋が先輩のもとへ戻るために立ち上がって、流れでスマホの画面を見る。
……が、その日はそこで想定外のことが起こってしまった。
『やらかした』
ぽつり、感情の抜け落ちた声が千秋の喉から落ちる。
『何?』
『唯春帰るって。……これ、まずいよな? 買い出しって書いてあるけど、』
嘘だ。
もともと千秋と時間を過ごすつもりだったんだろうから、この数分でそんなことになるはずはない。であればこの件で、先輩の心情が動いてしまったのだろう。
『千秋、ほんとごめん。私が悪かった』
『いや。凪雪は悪くねえ。全部あたしのせいだ。……どうしよ、あたし、』
『メッセ送って。返事来ないかもしれないけど、何もないよりマシでしょ。帰るって連絡来たのはいつ?』
『7分前。多分もう、走って追いかけても間に合わない』
窓の外を眺めても、それらしい姿はない。教室を出ていった千秋が、少しも経たずに戻ってきて姿がなかったことを報告してきた。
『明日会って、腹割って話しな。……あのさ、多分先輩は結構不安になる方なんだと思う。色々あったでしょ、先輩』
『あぁ』
『多分、あたしがふたりの前に顔出しまくったのも良くなかったんだよ。溜め込んでたんじゃない? 最近の先輩、私と顔合わせるたびに思い詰めた表情してたし』
この様子だと、もしかしたら私達の会話を聞いていた可能性もある。
私達がふたりで会話する時、割と言葉や情報が省略されたり言い回しが強くなったりすることが多い。まぁそれはお互いに遠慮するという感覚がないゆえの私達の日常なんだけど、何も知らない人が聞けば勘違いしてもおかしくないだろうから。
『…………唯春がしんどい時、あたしになら言ってもいいかなって思ってほしかった。頼ってほしかったんだ。……でも、唯春はあたしには頼れないって、思ったってことだよな』
『千秋、』
『あたし、最悪じゃね? 唯春が辛いの、ただ見てることしかできねえってことだろ? ……怖かったんだ、あたしがあたしじゃなくなるみたいで。だってこんな感情、知らない。
でも、だからって、唯春に我慢させたいわけじゃなかったんだよ』
あぁ、本当に馬鹿な千秋。
その背中をさすりながら、私はしばらく千秋の独白を聞いていた。
自分の中に湧き上がる強い感情を押さえ込み、理想とする綺麗な自分で居続けること。自身をコントロールすること。どれもこれも千秋が相手を思ってやったことだ。けど、意識すればするほど溝は深くなっていって。
『あんたはさ、きっと今でも、独りぼっちのまんまなんだよ。先輩が隣にいるのに、心の中はまだ独りきりなの。あんたの気持ちは分かるよ。けど、自分から心を開かなきゃ、相手だって開いてくれないでしょ』
そもそも、千秋は先輩よりも年下なのだ。
だから先輩だってきっと、千秋が夢見るような完璧な理想像を千秋に求めたりはしていないだろう。先輩が千秋に求めるのは、そんなものではなかった。だから先輩の心は千秋から離れたのだ。
『あたしは、あたしだよな……?』
『何馬鹿言ってんの。それを決めんのはあんたでしょう。あんたがそう決めれば、それはあんたなの。そうやって人に委ねないで。無駄なものなんか何ひとつない。悩ましいなら納得いくまで悩めばいい。──そうやってあんたを生かすのは、あんた自身なんだよ』
見失ってはいけない。
自分の手綱を握るのは、いつだって自分だ。
決して誰にも預けてはいけない。分からなくなってしまうから。なくしてしまうから。
『明日、唯春と話す』
そう呟いた千秋の背中を、叩いた。
全く、全然私たちらしくない。我慢し切れずこいつの背中を突き飛ばした若月の気持ちが分かる。
でもきっと、千秋をこんな風にできるのは、世界で先輩ただひとりなのだ。
『ねぇ。焼肉、私行ってあげるよ。若月には面倒くさいって断られたんでしょ?』
『あぁ……』
『でもその代わり、条件がある。私、ほのも連れてくから。話通しといてね』
私の存在が良くないなら、私にはもう最愛がいることを明かしてしまえば済む話だ。
むしろ千秋なんかと仲を疑われたのだと思うと若干不快ではあるけど、私と千秋の関係性的にまぁ仕方のないことだろう。
『ほのもずっと先輩に会いたいって言ってたから、きっとじゃれつくと思うけど……こっちが被った迷惑料だと思って我慢しなさい』
『ん、分かった。悪い』
それに蛍乃佳なら、いい具合に場を盛り上げてくれそうだ。蛍乃佳はテンションが高くて空気が読めないように思われがちだけど、実は周りを見ている子だから。
本当に、私どころか蛍乃佳にまで心配をかけて。傍迷惑な奴だ。
それから、私と千秋は解散した。
きっと千秋は明日の朝すぐに先輩に会いに行って、今日のことについて話すんだろう。まぁ、心配はしていない。千秋なら上手くやるだろうから。
……なんて悠長に考えていた、その翌日。
どうなったか一応確認してやろうと思い一時間目終わりくらいにB組を覗くと、若月が私に気付いて首を横に振った。
多分トイレ、とのことだったのでトイレを覗いてみると、手洗い場でぼんやりしている千秋の後ろ姿を見つける。
『あんた、何してんの……って、』
目が赤い。それから、水道で顔を洗ったのか顔がびしょ濡れだ。
『タオルは? ないの?』
ないらしい。仕方なくハンカチを貸して顔を拭かせ、ひとつ息を吐いた。
幸い人も少ない。向こうから切り出すのを待ってやると、千秋は躊躇うように何度も息を吐いて、それから口を開いた。
『…………唯春のこと、泣かせた。あたし、唯春のこと何も分かってやれてなかったんだ』
『何があったの』
『話せなかった。でも、唯春が友達と話してるとこ、聞いちゃったんだ』
要約すると、話そうと思って行ったが彩羅先輩という唯春先輩の友人が一緒にいてできなかった。でも唯春先輩の様子が明らかにおかしいのが分かって帰ることもできずにいると、霞先輩という人がよければ案内しようかと声をかけてくれた。……そこまではいい。
けど、意図せず彩羅先輩と唯春先輩の話を盗み聞きする形になってしまって、耐えられずに言葉も交わせないまま帰ってきた、と。
『なぁ、なんで、あそこにいんのがあたしじゃねえの? なんであたしに言ってくんねえの? ……いや、分かるよ。あたしが唯春の声を聞こうとしなかったから、一歩踏み込もうとしなかったから唯春はあたしを諦めたんだよな。分かる。
──……でも、不満でもなんでも、あたしは直接ぶつけてほしかったよ』
あぁ、多分千秋は今、泣きたいのだ。
分かってしまった。でも、千秋は泣くことができない。彼女が感情的になっているところを、私はこれまでで一度も見たことがなかった。きっと彼女は、そうまでして自分自身をセーブしていたのだ。
そうやって本心を告げることを許してくれる相手が、きっと千秋にはいなかったから。
『……なゆちゃん?』
とそこで、私の姿が見えないことに気付いたらしい蛍乃佳がトイレまで私を探しに来た。
『ほの』
姿が見えた瞬間、千秋はさっと顔を拭いて表情を無に戻した。ここまで来ると、流石だとさえ思えてくる。
蛍乃佳は私と千秋を見て、小さく微笑んだ。それからポケットを探り、なにか小さいものを取り出す。──飴だ。
『千秋ちゃん。千秋ちゃんはいつも頑張り屋さんだから、自分を褒めてあげなくちゃだめだよ。わたしは、そのままの千秋ちゃんが格好いいと思うし、素敵だと思う。なゆちゃんも、千秋ちゃんのことすごく心配してたよ。だから、ひとりぼっちなんかじゃないよ。
だいじょうぶ。頑張って無理しなくても、千秋ちゃんを好きな人は、千秋ちゃんを好きなままだからね』
蛍乃佳はそれから乱れた千秋の前髪を指先で直して、その手に飴を持たせた。
実はこの中で唯一、蛍乃佳だけが長女だった。だからこういう時、私は蛍乃佳の強さを実感する。私は自分の意見を言うことで相手に近付くけど、蛍乃佳は相手を尊重し寄り添うことで相手に近付くのだ。
私にはできないことを、蛍乃佳はいつもさらりとやってのける。
『……っ、だめだぁ。千秋ちゃんの悲しい顔見てると、わたしまで悲しくなっちゃう。千秋ちゃん、痛いことは、痛いって教えて』
蛍乃佳は、人より少し共感性が高い。
だからこうして人の感情を受け取ってしまって、関係もないのに泣いたり怒ったりしてしまう。そしてそれは、目の前に人がいなくてもいいのだ。例えば映画を見ていても、蛍乃佳はこうして感情を動かされてしまう。
『はは、何で蛍乃佳が泣くんだよ。意味分かんねえ……ほら、ひどい顔だぞ』
千秋が蛍乃佳の顔を乱雑に拭って、蛍乃佳は泣きながら笑う。
千秋が泣けないから、蛍乃佳が代わりに泣いたのだ。……だから本当は、千秋には蛍乃佳がいたほうがよかったんじゃないかと時々思ってしまう。蛍乃佳なら千秋に寄り添えるし、こうして関わっているうちに千秋もいい影響を受けるだろうから。
でも、それでも、蛍乃佳だけは駄目だった。
私は蛍乃佳が好きだ。だからそのために、私はある意味千秋を切り捨てた。
幸せになってほしいなどと勝手に願っておきながら、けれどその手を離したのだ。それは何よりも、自分の感情のために。
『凪雪、悪い。……あたしは大丈夫だから。凪雪が気に病むようなことは、何もねえから』
ころんと飴を口に放り込んで、千秋が笑った。
包みは青と白の、ソーダ味だ。
もうそろそろ休み時間が終わる。身なりを整えてから戻るという千秋を置いて、私と蛍乃佳は先に教室へ戻った。
『ね。だいじょうぶだよ、なゆちゃん』
困ったような顔をして、蛍乃佳が私の頭を撫でた。
思ってしまったのだ。ああしてずっと、思えば私は千秋を見捨ててきた。綺麗事を並べて、千秋を責めて、けれど常に自分だけは一歩離れた他人事でいた。
本当に一番最低なのは、きっと、私だ。
『だいじょうぶ、だいじょうぶ。わたしは、なゆちゃんが大好きだよ』
蛍乃佳のあたたかい手が、私の頬に触れる。
私にはもったいない子だ。でも、それでも蛍乃佳は私を選んでくれると言った。だから、私が不安になっていてはいけない。
『私もだよ、ほの』
世界一大好きな、私の光。
一生大切にする。一生そばにいる。
だからあいつにも、そんな光が訪れますように。あいつの長い長い秋が、終わりますように。
──どうか、お願いだから。
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