幕間 雪は白く凪ぐ
1.私の最愛について
私と蛍乃佳が付き合ったのは、高校に入ってからのことだ。
正確に言えば、小学校を卒業する時に告白して、返事を聞かないまま中学校は離れ、高校で再会して返事を受けた。
私が蛍乃佳を好きになったのは、特別大きなことがあったわけじゃなくて、些細な日常が降り積もってのことだった。そして、恋人としての交際を望んだこともなかった。
私は女を好きになる人間だけど、蛍乃佳は全然そんなことがない。普段の会話を聞いていても希望なんてないことは痛いくらいに理解していて、けれど当時唯一秘密を共有していた腐れ縁に『卒業で離れるんだろ』と背中を押されたので玉砕覚悟で告白したのだ。返事は必要ない、ただ聞いて欲しかっただけだからと。
その時の蛍乃佳は、ひどく戸惑った顔をしていた。けれどその中に嫌悪は見えなくて、私はそれだけで救われた気持ちになれた。
涙は出なかった。それどころかとても清々しい気分で、私は自分を目一杯褒め鼻歌なんてものを歌いながら家へ帰ったのだ。
しかし想定外に、私は高校からまたかつての友人が多くいるこの地へ戻ることになってしまった。
しかも、クラス割りを見てみろ。小学校の卒業式の日、告白を言い逃げしたあの向夏蛍乃佳が同じクラスではないか。
私は大いに混乱した。正直とても気まずかった。一体どの面を下げてクラスメイトなんてやればいいのだと、家に帰ってベッドの中で散々愚痴を吐いた。──けど。
『あのね、凪雪ちゃん! わたし、あれからずっと考えてたんだ。わたしね、凪雪ちゃんが好きって言ってくれたこと、すごく嬉しかったの。だから、』
それとなく距離を保ち避けていた私を引き止めて、蛍乃佳は言った。
数年越しの、蛍乃佳からの告白の返事だ。
心臓が口から飛び出そうな程に緊張していた。だって正直、もう玉砕した気分でいたのだ。
なのに蛍乃佳は、私の手を取って困ったように笑った。
『凪雪ちゃんと、恋人になりたい。……だめ、かな。違う? わたし、付き合うとかあんまり分かんなくて! でも、凪雪ちゃんと一緒にいられたら、きっと幸せだなって』
夢を見ているのかと思った。
ぎゅっと力いっぱい頬をつねってみた。痛かった。何なら涙が出た。
そしてそんな私を見て、蛍乃佳は楽しそうに笑った。天使だった。天使が、こんな私の手を取ってくれたのだ。
『私が、頑張るから。だから……、よろしく、お願いします』
こうして、高校1年生の春、私達の交際がスタートした。
それから私は、もう遠慮せずぐいぐい蛍乃佳へアタックした。恋人らしいこともたくさんした。色々な場所へ行って、話して、自分の想いもたくさん伝えるようにした。
そうして時間を過ごし、気付けば夏も盛りという頃。ひどく思い詰めた様子の蛍乃佳が、ある日、私に切り出したのだ。
『なゆちゃん、わたし……なゆちゃんのこと、好きになっちゃった、かも』
沸騰しそうな程に顔を赤らめて、蛍乃佳が私の袖を引く。
その仕草が、表情が、声音がひどく愛おしくて、私はその日初めて蛍乃佳の唇を奪った。それは触れるだけの穏やかなものだ。
私達の関係性は至ってプラトニックだった。触れるだけのキス、軽いスキンシップ。それ以上は何というか、私が私を許せない。それに実際、あまりしたいとも思えなかった。
私はただ、蛍乃佳のそばにいられれば充分だ。それから一応蛍乃佳とも一度話してみて、今はそういったことは必要ないという結論に至った。もし必要だと思ったら、その時はもう一度話をしようと。
「なゆちゃんっ! これ、美味しい!! 食べてみて! これ!!」
手元にあるスイーツをひと口含んだ蛍乃佳が、ふいにはしゃいだ声を上げてスプーンを差し出してきた。
学校が終わった、放課後のカフェ。
今日は先生たちの会議があるらしく、部活も生徒会もなかったのだ。そうして久しぶりに空いた時間を、ふたりで過ごすためにふらりと外へ出た。
差し出されたのは、オレンジソースのかかったチョコレートケーキ。
私は実は、甘いものがそれほど得意ではなかった。けれど、拒絶して蛍乃佳を悲しませてしまうのは本意ではない。
躊躇いなくぱくりと口に入れて、唇を舐めた。
「ん、美味し」
「でしょ!! うふふ、今日は幸せな日だなぁ。来てよかったねぇ、なゆちゃん」
ホットコーヒーを傾けながら、頷く。
幸せそうな蛍乃佳を見ているだけで、こちらまで幸せになれるのだ。これはすごいことだと思う。
私がまっすぐ前だけを見て直進する人間だとしたら、蛍乃佳はその反対だ。色々なものを見て、興味を持ち触れ、人一倍感動して笑ったり泣いたり怒ったりする。
例えば遊園地で目一杯はしゃいで、例えば映画館で大号泣して、例えばこうして美味しい食べ物を目の前に目を輝かせたりして。
私は彼女のこういうところが、いつもすごく、愛おしいと思う。
ひと口だけ貰ったケーキは、追って流し込んだコーヒーと共にとろけるような甘さを口の中へ残していった。
きっとそのケーキは、私ひとりでは甘すぎて到底食べきることができないだろう。けれど蛍乃佳がくれるひと口だけは、私をいつもあふれるほどの幸福感で満たしてくれるのだ。
蛍乃佳は私に、知らない世界をたくさん見せてくれる。この手を引いて、たくさんの美しいものを教えてくれる。
そして私が抱けない分のたくさんの鮮やかな感情を、蛍乃佳が代わりに描いてくれる。
「ほの、口にクリームついてる」
「えっ、どこどこ?!」
紙ナプキンで口元を拭ってやると、蛍乃佳がえへへと笑った。
全く、本当に目が離せない人だ。
けれどそれでいて、蛍乃佳は私のことを絶対に置いていったりしないのだ。私が立ち止まった時は、蛍乃佳も隣で待っていてくれる。
「あ! 唯春せんぱいと千秋ちゃん!!」
ふいに蛍乃佳が、声を上げて立ち上がった。
うんざりとした気分を抱えて振り返ると、確かによく知ったふたりが立っていて尚更うんざりしてしまう。
せっかく蛍乃佳とふたりきりだったのに。
別に千秋と唯春先輩が嫌いなわけではない。ただ、恋人とふたりでゆっくりしていた時に思わぬ顔見知りと出くわすのは、私としてはあまり気分が良くないのだ。
千秋も同じ気持ちのようで、目が合うと複雑な表情のまま視線だけで謝罪の意を寄越してきた。私はそれに仕方ない気分で応えて、唯春先輩に挨拶する。
「お疲れ様です、唯春先輩」
「ううん……ごめんね、もしかしてお邪魔しちゃったかな」
「いいえ!! こっち座ってください、唯春せんぱい! お話しましょ!」
蛍乃佳が嬉しそうに唯春先輩の腕を引いて、隣に座らせた。
蛍乃佳は唯春先輩に強い憧れを抱いている。その立ち姿、振る舞い、言動、全てが大人っぽく綺麗で、将来は唯春先輩のような”高嶺の美女”になりたいのだという。
「何か、悪い」
「ほのが喜んでるから、何も言わないでおく」
「それはどうも」
しくじった、という顔で隣に座った千秋と二言三言交わす。この4人が揃ってしまうと、もういちゃいちゃどころではないのだ。
先日まではどこか遠くて、けれどある日を境にがらりと雰囲気を変えてしまったふたり。
蛍乃佳は全く気付いていないけど、こうして私と話しながらも千秋の目は一切唯春先輩から離れていない。千秋が許容できないラインへ蛍乃佳が入ったらそれとなく唯春先輩へ合図が出ているし、そのたび唯春先輩は声も出さないままぴくりと震えてそれに応えるのだ。
「あんた、独占欲も結構強い方だったんだね」
「まぁ……唯春だけは、駄目だから」
「先輩には無理させてないでしょうね?」
「させてねえよ。まぁ、唯春なら痛くても喜ぶからあんまりアテになんねえけど」
知りたくもないことを知ってしまった。
私はそれ以上話すのをやめて、既に半分になったコーヒーに口をつける。
このふたりは、どこかおかしい。
けれどそれさえも本人たちにはどうでもよくなってしまったようで、最近ではどこかタガが外れたような印象が強くなった。
それがこのふたりの”幸せの形”だったのだろう。私に口を出す理由はない。
ただ、あの日私の背中を押しておきながらずっと孤独だった千秋が、今こうして幸福そうにしているのは、腐れ縁としてそれほど気分が悪くなかった。
「あの頃のあたしたちが今のあたしたち見たら、きっと目ぇ剥くな?」
「でしょうね。想像もしてなかったから。……こんなに、騒がしくなるなんて」
向かいに座ったふたりは、私達そっちのけで楽しそうに談笑している。
「せんぱい、この前頑張ってクッキー作ってみたんですけど、黒焦げになっちゃったんです!! もーショックで!」
「あらら……。予熱はしっかりした? 温度と時間も間違ってなかったかな」
「ちゃんと見たので、間違ってなかったはずなんです!」
「そう……オーブンにもそれぞれ癖があるみたいだから、何回か試してみて調整した方がいいかもね」
「えぇ、難しくないですか?! 癖かあ……」
蛍乃佳は最近、唯春先輩にお菓子作りを教わっている。そうして出来上がったものは、蛍乃佳の家族が食べたり、上手くいくと私に持ってきてくれることもある。
蛍乃佳は私が甘いものが苦手なことを一応知っているので、甘すぎないものを選んで工夫しながら作ってくれているのだけど、私が食べるのを待っている時の顔がどうしようもなく可愛いのだ。そうして私が美味しいと言うと、ぱっと顔を輝かせて喜ぶ。
これまでにくれたものは確か、オーブンも使わないごく簡単な手作りお菓子の数々だった。ホットケーキミックスや市販のセットなどを使ったり、冷蔵庫や電子レンジだけで調理できるようなものだ。蛍乃佳が私に食べさせながら工程を説明するから、私も大体の作り方なら覚えてしまった。
けど今聞いていると、どうやらオーブンを使い出したらしい。蛍乃佳はそそっかしいから、やけどをしたりしないか心配だ。
「なゆちゃん、待ってて! なゆちゃんが感動して泣いちゃうくらい美味しいお菓子、すぐ作って持ってくるから!!」
そうして自信満々に笑顔を見せた蛍乃佳に、私もつられて笑う。
「うん。楽しみに待ってる」
蛍乃佳がくれる感情や愛情の全てが、私には何よりも輝かしく、嬉しかった。
隣でカフェオレを飲んでいた千秋が、そのやり取りを見て小さく笑う。今ここで掴んだ幸せを、私達は決して手放してはならないのだ。
それは決して当たり前などではない、かけがえのない奇跡だから。
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