第16話 呑花




 千秋くんの匂いがする、家。

 そわそわと気分が落ち着かなくて、緊張でどうにも呼吸が苦しい。


「入って」

「お邪魔、します……」


 靴を脱いで、家へ上がる。

 千秋くんのあとについて廊下を歩き、リビングへ入った。

「父さんと母さんは仕事だな。弟は……遊びに行ってるのか。ほら、手紙」

 テーブルの上にあったメモ紙を手に取って、見せてくれる。そこには鉛筆書きで、『遊びに行ってくる。門限までには帰る。夕陽』と走り書きがされていた。

「夕陽、さん?」

「そ。今は小6なんだ。あとうちは他に、照葉しょうようって兄貴がいるんだけど、大学生で家は出てる」

 千秋くんが細かく説明してくれるのを聞きながら、こそばゆい気持ちになる。ぼくが知りたいと言ったから、きっと彼女は色々教えてくれているのだ。

「部屋は2階なんだ」

 案内されるまま、階段を上る。

 ぼくは一軒家に住んだ経験がないので、何だか新鮮な気分だ。手すりをつかみながら千秋くんを追い、部屋を順番に通り過ぎながらやがて千秋くんの部屋に入れてもらった。


「わ、」


 派手な色や装飾のない、落ち着いた雰囲気。

 全体的な色合いは、白、青、それからグレー。使い古したような勉強机には何かの古いステッカーが貼られており、恐らく兄弟と共有していたのだろうと察せられた。それから、綺麗に本が並べられた本棚と、彼女がいつも使っているのだろうベッド。どこも綺麗に整頓されている。

「あんま面白みもないと思うけど……ま、座って待ってて。何飲む? 水、お茶、オレンジジュース……」

「あ、大丈夫」

「んじゃ、お茶な。ちょい待ってて。漫画とか適当に読んでてもいいから」

 ぼくを置いて、千秋くんが部屋を出ていく。

 途端に心細さに襲われて、ぼくはとりあえずローテーブルが置かれたラグの上に腰を下ろすことにした。

 彼女が言い置いていった本棚には、ぼくにはあまり馴染みのない漫画が数多く並べられている。少年漫画の、しかも少しだけ古い時代のものが多い印象だ。紙が日に焼けて黄ばんでいて、手に取ると紙の匂いがする。

 ページをめくってみた。何かをこぼしたような染みを見つけてしまって、つい笑ってしまう。これはバスケットボールの話のようだ。やけに皆身体が大きくて筋肉質なのは、こういった漫画の特徴なのだろうか。


「あー、父さんと兄貴の趣味。はるはそんなにかな。あたしは普通に読むけど」


 つい夢中になっていると、戸口から千秋くんの声がした。

 彼女は部屋に入ってきて扉を閉めると、テーブルへコップをふたつ置いて隣へ腰を下ろす。

「こういうの、見たことなくて……」

「珍しい? 貸そうか」

「ううん、……また見にくるよ」

「そか」

 漫画を本棚に戻して、ふうとひとつ息を吐く。

 千秋くんは少しだけ腰を上げて机の横の棚に手を掛け、いくつか冊子を手に取りテーブルの上に広げた。

「これはアルバム。こっちは卒業文集」

「見ていいの?」

「あぁ」

 そっと手に取って、開いてみる。


「わ……」


 赤ちゃんだ。どこか今の面影もある、可愛らしい赤ちゃん。

「なんか恥ずいな」

 口の周りをべしゃべしゃにしている写真、機嫌よく笑っている写真、それから寝ている写真。めくるたびに彼女は成長していって、やがて歩き始める歳になる。

「これはあたしが、じいちゃん家に遊びに行った時、遊びで木に登って落ちたやつ。今はもう傷も残ってないけど」

 つい笑ってしまった。

 全身を汚して泣いている写真まで、こうして残っているなんて。

「母さんがすげえ笑ってたのは覚えてる。あたしはギャン泣きで、兄貴に背負われて家まで帰ったんだ。それからあたし、しばらく木登りできくなってたな。怖くて」

 一枚一枚説明されながら、彼女の記憶をたどっていく。

 どうやら彼女は結構やんちゃで、傷の絶えない子供だったらしい。怪我をしている写真が結構多くて、説明するたび彼女が苦い顔をするのを少し笑いながら見ていた。

「チャリで転んだこともある。あの時はがちで終わったと思ったな。曲がりきれなくてガッツリ正面から塀にぶつかって倒れたんだけど、友達がすぐ近くにいてさ。超恥ずかしかった」

「怪我は? 大丈夫だった?」

「ん、大丈夫。擦り傷くらいだったから」

 本当に、はらはらする話ばかりだ。もしぼくがその時千秋くんのそばに居たとしたら、危なっかしくて落ち着いていられなかったと思う。

「あとは、骨折したこともある」

「え」

 骨折。初耳だ。

「いや、そんな重いアレじゃないんだけどさ。小学生の時、遅刻寸前で走ってたらコンクリで転んで手ついて。手首やったの」

「わ、痛そう……」

「んー、超痛かったよ。何してても響いて痛いんだもん。んで、病院行ったら折れてますねって。しかも利き手。あれはしんどかった」

 ふるふると右手首を振って見せて、彼女が笑った。

「今はもう、何もないの?」

「あぁ。もうとっくに完治してるしな。ただたまーに、天気とか気圧の関係でだるくなることはあるかも。あとは全く困ってない」

 古傷が痛む、というやつか。

 そっと彼女の右手を取って、骨折していたという手首に触れてみる。怪我をしていた名残は全く残っていない、綺麗な手だ。

「何か気になる?」

「ううん、」

 当然だけれど、ぼくはやはり彼女のことを何も知らなかったのだ。だからこそ、こうして教えてくれるのが嬉しい。

 今はぼくに触れてくれる、愛おしい手だ。その指先が柔らかく髪に触れ、頭を撫でて離れていった。

「これは、中学校の時の写真だな」

 彼女が次に見せてくれた写真には、今よりもほんの少しだけ幼い彼女が写されていた。

「髪、短かったんだね」

「うん。バスケ部だったんだ。あとは……何か色々迷走してて。男になろうと思って」

「男の子に?」

「まぁ無理だったけど。だから今のあたしが、割とそのままの素直なあたし」

「そう……」

 確かに写真の中の彼女は、笑顔でありながらどれもぎこちなさが滲んでいた。

 無理をしていたのだろう。行事などの写真もどこか浮かないような表情で、男の子と並んでいるものが多い。

「あー……で、これが元彼」

「も、」

 元彼。彼女が指さしたのは、清潔感のある比較的整った容姿の男子生徒だった。

 そうか。いや、分かる。彼女は素敵な人だから、恋人のひとりやふたりいただろう。むしろいない方が不自然というものだ。

 けれど、その男の子と千秋くんがひと時でも想い合っていたのかと思うと、やはり心境は複雑だった。

「向こうから『好きじゃなくていい』って告られて、最後は『温度差感じて辛い』って言われて振られたんだ。悪いことしたな。全然好きじゃなかったんだよ。恋人らしいことも、手繋いだかなくらいの記憶しかないし」

 千秋くんが、苦い表情で言う。

 そうか。好きじゃなかったのか。きっと『好きじゃなくていい』と押し切られてしまって断れず、そのまま交際が始まってしまったのだろう。そして彼女は、相手とは手を繋ぐ以上のことはしていないと言った。

「そ、……っか」

 どこかほっとしてしまった自分がいることに気付いて、性格の悪さに苦笑する。

 なら彼女の”初めて”は、ぼくのものなのだと。そう思ったら、安堵すると同時にひどく嬉しい気持ちになってしまったのだ。


「だからさ。はるはあたしのこと全然知らないと思ってるんだろうけど、あたしは誰にでも同じ態度取ってるわけじゃないし、誰にでも全部見せてるわけじゃない。


 こんなにドロドロしてるあたしのこと、世界中ではるしか知らないんだよ」


 ふいに空気が変わって、千秋くんのひどく静かな声が鼓膜を揺すった。

 どくん、どくんと心臓が鳴り出す。

 彼女の指先がぼくの髪を撫でて、それからぐっと近付けられた唇が耳殼に触れた。



「なぁ。──さっきの今であたしの部屋に来た意味、ちゃんと理解してる?」



 千秋くんの声が変わった。

 ぞくりと背中が甘く震えて、つい彼女に縋ってしまう。

 分かっている。そんなこと、ぼくにだって。もとよりそのつもりだ。……けれど、ぼくは不慣れだから、うまくできる自信がない。


「ん、」


 小さく頷くと、千秋くんがぼくの耳に歯を立ててかりっと甘噛みしてきた。吐息が近くて緊張してしまう。少しくすぐったい。

 それでも抵抗しないぼくに彼女は笑って、それからあたかかく濡れた感触が耳を這い回り始めた。

 わざとらしく立てられる音に羞恥がかきたてられて、かたく目を瞑る。


「ぁ、」


「はる、動いてる。結構敏感なんだな」


 楽しそうな声がじかで耳に届く。ちゅっちゅっと軽くキスを落として、それからもう片方の耳も指先でくすぐられ始めた。

「あたしのアルバム眺めながら楽しそうにするはる、結構可愛かった。あたしにはそんなに楽しいもんじゃないけど……はるが嬉しいなら、これだけ残ってる意味もあったかな」

 耳元で喋らないでほしいのに、彼女は全て分かっていながらもやめてはくれなかった。

 もうここは、彼女のテリトリーだ。ぼくは蜘蛛の巣にかかった蝶のように、ただその時をじりじりと待つことしかできない。

「ん……っ」

 脊髄が震えるような、ぞくぞくとした快感がずっと奥の方で渦巻いている。

 はっ、はっ、と短い呼吸が喉から漏れた。

「や、……あきく、」

 頭がぼんやりとしてきて、ぼくはただ濡れた感触を耳殼に受け続けている。

 もう、もう無理。制御できない身体がしきりに跳ねて、涙で視界まで霞んでくる。


「……っやだ、あきくん、くちがいい、」


 おかしくなって、しまいそう。

 切羽詰まって乞うと、彼女は楽しそうに笑んでぼくの唇を奪う。両耳を手のひらで塞がれて、頭の中にぼうっと水音がこだました。



「──はる。あたしだけのものに、なって」



 拒否できるはずもない。

 蜜のようにどろりととろけた頭で、ぼくは彼女に縋ってそっと頷いた。



 その日ぼくは、人生で初めて花を散らした。



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