第15話 匂い立つ紅
ぱたん、と教室の戸が閉まる。
先に入った千秋くんが窓の鍵に手をかけて、からりと大きく窓を開けた。
涼しい風が頬を撫でる。静かな放課後だ。そんなに時間は経っていないはずなのに、ひどく久しぶりに彼女と顔を合わせたような気がした。
「唯春、ごめん。あたし、あんなに大口叩いておいて何も唯春の力になれてなかった。凪雪にも叱られた。……まじで、ごめん」
細い声が、謝罪の言葉を漏らす。
そんな言葉を聞きたいわけではなかった。声を掛けたくて数歩前に出た僕に、けれど彼女は続ける。
「唯春に頼ってもらえるあたしでいたかった。いつでも余裕で、心が広くて、唯春のこと何でも聞いてあげられる彼女になりたかった。でも本当は、こんなに小さいんだ。
あたし、全然格好よくないし綺麗なんかでもない」
違う。……違う。
ぼくがどんなに彼女に救われたか。どんなに嬉しかったか。
無理をしてぼくのために動く彼女が好きなのではない。例えばぼくのお菓子を食べて、例えばぼくに会いに来て見せてくれたような、そのままの彼女が好きなのだ。
──そうか。
『ふたりは多分、少しだけ、遠慮しすぎちゃうんだと思う。……あっ、勝手な想像なんだけどね! でも、考えてることってお互いに思ったよりちゃんと伝わってなかったりするし、その……勘違いは、寂しいから』
言葉が足りなかった。
付き合いが短いなら尚更のこと、ぼくは彼女ともっと話をすべきだったのだ。
「あのね。……ぼく、そうやって千秋くんが無理をするたびに、距離を感じて苦しかった。千秋くんが遠いな、って、思ってた。
寂しかったの。ぼくは千秋くんが、高校に入ってきてからのことしか知らない。それまでのこと、何も知らないから。だから千秋くんにも気を遣わせて、無理に我慢させて……。
だから、こんなぼくが千秋くんの隣にいていいのかなって、」
「唯春」
「聞いちゃったんだ。冬野さんと話してる時、千秋くん、耐えられないって言ったよね。だからぼくは、千秋くんが優しいから……嫌なのにぼくのために、我慢してるんだと思った」
ガタンと大きな音がして視線を上げると、千秋くんが机にぶつかりながらぼくのそばまで来て、ぼくの手に触れた。
「違う。違うよ、唯春。それは違う」
瞳の奥が、動揺したように揺れている。
冷たい千秋くんの指先。
あぁ、もしかして、ぼくはとんでもない思い違いをしてしまっていたのかもしれない。
「あたしは唯春が思うほど綺麗じゃない。こんなに汚いあたしの中身、唯春には見せられないと思って」
瞬間、千秋くんの目の色が変わって、ぼくはつい後ずさってしまった。
けれど彼女はそれを逃がさないように、追い詰めてぼくと距離を詰めてくる。ぶつかった所に机があって、すとんと腰が下りた。
「はるはあたしのものだ。誰にも許せない。はるに触れるのはあたしだけがいい。
はるがあたしに触るたびに、あたしはずっとはるをめちゃくちゃにしたかったんだよ。笑えるだろ? 我慢できそうになくて、でもはるは絶対嫌がるに決まってると思ったから、ずっとこらえてたんだ」
きゅっと胸の奥が甘く痛む。
どきどきと心臓が高く鳴りだして、千秋くんと指先を絡めて繋いだ。
「独り占めしたい。もっとはるの余裕のない顔が見たい。あたしだけのはるになってほしい。──でも、あたしははるの前では格好よくて優しいだけの彼女でいたかった」
首を横に振る。
上手く言葉が出ない。けれど何よりも目がその強い感情を物語っていて、ぼくは繋いだ手に力を込めた。
「ぼく……もっと千秋くんの近くに行きたいって、思ってたんだ。ぼくだけの千秋くんがいいって。だから……、嬉しい」
メープルシロップみたいに甘い、彼女の瞳の色。
嬉しい。千秋くんもぼくと同じ気持ちだったのだ。ただ少し意思の疎通が足りなくて、すれ違ってしまっただけだった。
「触れて欲しいって、ずっと、思ってたの」
その指先が、ぼくの髪を掬って耳にかける。
もう視線を交わらせるだけでも、お互いの考えていることが分かった。どくどくと心臓が暴れている。吸い込まれてしまいそうなほどに甘やかなダーク。額を合わせて、見つめ合う。
逸らすことは許されない。
やがて彼女の手のひらがぼくの頬へ添えられて、ふたりの鼻先が触れた。
「くち、」
押し殺したような声が鼓膜を揺さぶる。
ぼくがほとんど反射で唇を薄く開いた瞬間、その場所はぼく以外の熱に支配された。
あぁ、頭がくらくらする。
おそらく彼女が何か食べたのだろう。ほんのり甘い味がして、けれどそんな考え事さえ許さないように彼女がきつくぼくを睨んだ。
ゾクゾクッと背筋が震える。食べられてしまうのだ。ぼくは今から、千秋くんに。
無意識に逃げようとしたぼくの首の後ろを押さえ込んで、彼女が深く侵入してくる。上手いやり方なんて分からない。懸命に応えながらも、頭の中はどんどん真っ白になっていく。
「っあきく、」
ぞわぞわとした快感が腰のあたりを渦巻き始めて、意思に反し身体が跳ねてしまう。それを面白がるように千秋くんが指でなぞって、指の腹でくすぐり撫でた。
「はる、暴れない」
「や、っ、」
「……はは、かわい」
濡れた唇を彼女の親指が拭って、腰を抱き込まれる。
「泣き虫だな、はるは」
「ちがう、もん」
顔中に宥めるようなキスを受けながら、深く呼吸した。驚くほどに満たされている。目を見て触れてしまえば、疑う余地もなかった。
呼吸を深く奪われ、視線で支配されて、震えるほどの快感から逃れることもできない。
「──、」
今度はぼくからキスをねだって、柔らかく唇を触れ合わせた。
恐らくもう二度と逃げられない愛おしい檻の中に、自ら足を踏み入れる。それは窒息してしまいそうな程に重く、深い愛の底だ。
「はる、うちにアルバムがあるんだ。あたしの小さい頃から中学校までの写真、全部とってある。……見に来る?」
静かな声が、ぼくを捕らえて離さない。
逃げるなら今が最後だ。これ以上はもう、後戻りができない。これが最後。
「うん、行きたい」
足を踏み外した先にあるものが彼女の愛なら、ぼくは喜んでそこから飛び降りる。他に望むべくもない。
だってぼくが今生きているのは、ひとえに千秋くんのためだから。
ぼくを生かせるのも、殺せるのも、この世界でただひとり。
例えば彼女の口づけがぼくの呼吸を止めたとして、それさえぼくには甘い褒美なのだ。彼女がくれた傷や痛みの全て、ぼくをぼくたらしめるぼくだけの宝物。
「──あきくんのこと……ぼくに、教えて」
ぼくだけの、あきくん。
絶対に離さない。
ぼく以外を見るなんて許さない。
例え誰がぼくたちを否定しても。
その先に待つ結末が、破滅だとしても。
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