第14話 雪解け




『あのね、唯春ちゃん。恋人さんと、もう一度だけちゃんと、直接お話してみてほしいの』


 休み時間。

 少しだけ躊躇ったあとに、霞ちゃんはぼくの目を見てそう言った。


『ふたりは多分、少しだけ、遠慮しすぎちゃうんだと思う。……あっ、勝手な想像なんだけどね! でも、考えてることってお互いに思ったよりちゃんと伝わってなかったりするし、その……勘違いは、寂しいから』


 そういえばここのところは、千秋くんと直接話すというか、千秋くんが誰かと話しているのを横から聞いてばかりだったような気がする。

 ぼくも、勝手に色々考えるだけで直接千秋くんに確かめたことはなかったし。

 彩羅ちゃんと霞ちゃんに、勇気をもらった。

 今のぼくなら、千秋くんにちゃんと話せる。ぼくが何を考えていたか。何が苦しかったのか。ぼくがひとりで抱えていた、この気持ちを。



「…………打ち、合わせ」



 4時間目が終わってすぐ、千秋くんからメッセージが入った。

 内容は、先生から呼び出しがあった、これから授業のことで打ち合わせがあるみたいだから今日のお昼は別々にしよう、というもの。


「唯春ちゃん、わたしたちとお昼にする?」


 気合を入れたところに肩透かしをくらったような気分で、ぼくはその提案に頷いた。

 朝、彼女の顔も見られなかったことが引っかかる。傷付いたんじゃないだろうか。今までぼくは、あんなにも彼女に素っ気なくしたことなんてなかった。彩羅ちゃんが誤魔化してくれたけれど、そういえば朝千秋くんがくれた『しんどい時は教えてほしい』というメッセージにも返信ができないままだったし。


「うーん……。唯春ちゃんから、会いたいって送ってみたらいいんじゃないかな」


 箸も持たずに悩んでいると、霞ちゃんが声をかけてくれる。その助言に頷いて、ぼくはキーボードに指を滑らせた。

「これで……、いい、かな」

 送信前に見せてみると、霞ちゃんはうんうんと頷いてくれる。



『放課後、会いたい。

 少しでいいの。話したいことが、ある』



 送信。

「何なら、こっちから迎えに行ってもいいんじゃない? 逃げられないように捕まえるの!」

 彩羅ちゃんが、唐揚げを頬張りながら腕をヘッドロックのような形にする。楽しそうだけれど、恐らくぼくの力では千秋くんには敵わないだろう。ぼくのほうが身長が高くて、恐らく体重もありはするものの、彼女はぼくと比べて体力も筋力も遥かに上だから。

 それに、ぼくにはそんな荒っぽいことはできない。

「っふ、」

 つい笑ってしまって、そうしたらなぜだか止まらなくなってしまった。つられたように霞ちゃんも笑い出して、彩羅ちゃんはひとりできょとんとしている。

「なんで?! うち変なこと言った?」

「ちがうのさらちゃん、ね、唯春ちゃん」

「ん、ごめんね、違う、」

 季節は秋に、移っていく。

 色濃く染まっていく景色のあまりの美しさに、少しだけ恐れてしまいそうになる。


 けれど、大丈夫。


 深く深く、肺の底まで空気を吸い込む。

 落ち葉の絨毯を踏みしめる。

 なんだか思ったより、気分が軽いような気がした。寂しいばかりではない。誰かはこの季節を冷たいというけれど、こんなにも美しい季節をぼくは他に知らないのだ。



 永遠なんてこの世には存在しない。



 だからこそ、この愛おしい刹那を大切にしなければならない。


 あの日ぼくを迎えに来てくれた千秋くんは、ぼくの声を聞きたいと言ってくれた。

 初めから、こうすればよかったのだ。

 変に隠したりせずに、素直に打ち明けてしまうべきだった。寂しいなら寂しいと。苦しいなら苦しいと。だって彼女は、ちゃんとそれに向き合ってくれるひとだから。


「あ!」


 彩羅ちゃんが急に、声を上げてぼくを見た。

 それから指先で持ち上げられたのは、カラフルなおかずのカップ。

「ふふ」

 隣で、霞ちゃんが笑う。

「『恋愛運Good! 勇気を出して吉』、だって!」

 カップの底に書かれた占いは、たくさんのハートともに幸運を示していた。そこに添えられた動物のイラストが陽気に笑っている。



「──ん。ありがとう、頑張ってくる」



 落ち着かなくて、ひとつ深呼吸をした。


 大丈夫。

 千秋くんがあの日迎えに来てくれたように、今度はぼくが千秋くんに会いに行くのだ。






 放課後。

 どうにもそわそわしてしまうのを霞ちゃんに宥められながら、一応身なりを整えて、何の話をするかを再度確認し、それからようやく1年生の教室へ向かった。

 今日は確か、千秋くんはバイトもない日だったはず。

 ちぎれそうなくらいに心臓が鳴っていた。階段を駆け下りていく後輩たちとすれ違いながら、ゆっくりと階段を踏み締めて上る。

 お昼の時に、放課後話したいと連絡をした。だからきっと、待ってくれているはずだ。

 そうして顔を覗かせた1年B組、



「…………いない」



 既に教室内の人はまばらでがらんとしていて、ほとんどの席には荷物さえなかった。

 いない。いなかった。帰ってしまったのだろうか。……いや、そんなはずはない。彼女はそんな人ではないから。

「そうだ」

 1年A組、冬野さんのクラス。すぐ隣だし、何かと関わることも多いようだったからもしかしたらそちらにいるかもしれない。

 幸い、教室の電気はついているようだ。

 きゅっとスカートを握りしめる。大丈夫、大丈夫。ひとつ深く呼吸した。


「────……、」


 少しだけ、覗いてみる。

 やはり人は少ない。千秋くんも、いない。……けれどそこに、知った後ろ姿。



「ん? …………あれ、先輩」



 冬野さんだ。

 教室で自習していたらしい彼女は、ぼくの気配に気付いたのかさっと振り向いてぼくを見とめ、それからこちらへ歩いてくる。


「先輩、どうしたんですか?」


 気遣うような声音に、どこかほっと安堵してしまう。思えばぼくはいつからか、彼女にも敵意に近い嫉妬心を抱いてしまっていた。

 それも意味のないことだったと、今になって気付いたけれど。

「千秋くん、どこにいるかな」

 そっと聞いてみると、冬野さんは少しだけ考える素振りを見せてから、やがて教室の外へ視線を移す。

「あぁ、もしかしたら発表の打ち合わせかもしれないですね。今日の昼にもあったんですけど、グループリーダーが招集されてるんです。私が代われたら良かったんですけど、生憎そんなに手が回る訳でもなくて」

 彼女は多忙だから、きっと比較的身動きの取りやすい他のメンバーに仕事を振っているのだろう。先日千秋くんと話していた内容を考えても、冬野さんはそれを統括するポジションに立っているように見えるし。


「あの」


 ふいに冬野さんが、何か決心したような表情になって一歩距離を詰めてきた。

「何かな」

 綺麗な黒髪が肩を滑る。

 おとぎ話に語られる白雪姫のような、けれど涼やかな印象を受ける美人さん。

「千秋は馬鹿ですけど、まっすぐな奴です。他人の痛みを分かろうとする奴です。下らない嘘はつかない。あいつには、そんな技量ない」

 すごい言いようだ。つい笑ってしまう。

 けれど冬野さんは至って真面目なようで、視線はぼくを捕らえ続けている。

「頼られないの、辛いです。好きな子が辛そうなのただ見てるだけなんて、私なら耐えられない。でもあいつは、何よりも先輩が──……」

 そこで言葉を途切れさせた冬野さんが、ふいに一点を見つめて動きを止めた。

「千秋」

 その名前を聞いた瞬間、すぐに振り返る。

 千秋くんだ。何かのファイルを手に持った彼女は、恐らくその打ち合わせから戻ってきたところで。


「待って、千秋!!」


 ほんの一瞬表情を崩した千秋くんが、くるりと踵を返してどこかへ行こうとした。

 ぼくは弾かれたように走り出して、その背中を追う。足が早い。千秋くんは決して走っていないはずなのに、それでも追いつけない。

 とうに人の気配さえない校内、廊下。唇を噛んで、それからぼくは全力で走った。それから彼女が階段へさしかかろうとした時、ぼくの頭にとある言葉がよぎった。


『──逃げられないように捕まえるの!』


 彩羅ちゃんの言葉。

 もう少しで手が届く。懸命に腕を伸ばす。



「千秋くん!」



 ヘッドロック。……はさすがに無理だったから、彼女を後ろから抱きしめて止めた。

「話がしたいって、言った。どこ行くの? ぼくのこと置いていく? もしかしてもう、嫌いになっちゃった? なら、離すよ」


「なわけない!!」


 振り返った千秋くんが、悲痛な声でそう叫んだ。その瞬間、ぼくは千秋くんの気持ちを痛いほどに察してしまう。

 ぼくが口を噤んだから、彼女を不安にさせてしまった。

「場所変えよう。ここは目立ちすぎる」

 そっとぼくから離れて、彼女は先を歩き出した。向かうのはいつもの空き教室。

 頼もしかった彼女の背中が今はどこか頼りなく見えて、後を追いながら胸がちくりと痛んだ。



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