第13話 花落つる
朝。
いつもより重い体を起こして、鏡の前に立つ。涙の跡に、赤くなった目元。
こうやってすぐ感情的になってしまうところも、ぼくの悪いところだ。きっと今まで、ぼくが触れたり好きだと伝えるたびに彼女を困らせていたのだろう。
冷たい水で顔を洗って優しくタオルで拭う。幸い目は腫れていないし、彼女を無駄に心配させるようなことにはならないはずだ。
ブブッ、とスマホが通知を示す。
『おはよう。はる、大丈夫か?』
本当に、優しいひと。
履歴を遡ってみると、昨日ぼくが先に帰ったあと、彼女からのメッセージがいくつか届いていたようだった。
『はる、帰ったのか?』『ごめん、すぐ終わるからと思ってはるのこと置いていったの、よくなかった』『調子悪い?』。それからしばらく経って、今度は『本当に大丈夫か? 辛いなら無理に返事しなくていいからな』『ごめん、あたし気付けなくて』。
涙が滲んでしまう。昨日散々泣いたのに、彼女がこんなにも優しいからまた感情が揺さぶられて、辛い。
そっと深呼吸して、トークルームを開く。
『心配かけてごめんね。昨日、あの後スマホの充電が切れちゃって、気付かないままになってたみたい。何ともないよ、ありがとう』
こうして付き合う前にも色々あったから分かるけれど、彼女はぼくが離れようとすると余計にぼくを心配する。だから、何ともない顔をしてそばに居ることが今の最善手なのだ。
できるだけ彼女にとって違和感のない距離を保ち、彼女が別れを切り出してきたらぼくは快くそれに応じる。
『そっか。よかった、安心した』
千秋くんからのメッセージにごめんねと返信して、スマホを置いた。
深く息を吸って、吐く。大丈夫、うまくやれているはずだ。今のこの心情のまま彼女と会うのは辛いけれど、変に避けると彼女が気にしてしまうのでいつも通りにするしかない。
今日のお菓子はスフレケーキ。頭を空っぽにしたくて、無心で手を動かしていたら中々いい出来になったのだ。ぼくの様子がおかしいのを母に心配されてしまったけれど、友人と喧嘩してしまったのだと言ってその場は誤魔化した。
お弁当とお菓子を包んで、ひとつ息を吐く。
何だか食欲がなくて、とりあえずコップ一杯分の野菜ジュースで誤魔化すことにした。けれど最後、底から数センチのところで気持ち悪くなってきてしまって仕方なく諦める。
「馬鹿みたい」
好きな人と両思いだったらしいと浮かれて、けれど恋人になれた瞬間、付き合いが浅く彼女に関して無知な自分に不安でいっぱいになってしまって、これまでの距離を埋めようと躍起になった結果彼女を嫌がらせてしまった。
やめてほしい、耐えられないと口にした千秋くんの声。それから、あんたのせいでやきもきしてる、と千秋くんへ言った冬野さんの言葉も。もしかしたら本当は、千秋くんは冬野さんとの方が恋人としてお似合いなのかもしれない。ぼくが変に頭を突っ込んでしまったから拗れてしまっただけで、本当はぼくの方が邪魔者だったのかもしれない。
『もし、しんどかったら教えてほしい。はるがしんどい時は、あたしもそばにいたい』
その最後のメッセージに、返事はできなかった。
コップに残った野菜ジュースを無理やり飲み干す。時計の針は、刻一刻とリミットへ近付いていく。もうそろそろ家を出なくては遅刻だ。
千秋くんが好き。
けれど彼女の隣にいるべきは、ぼくなんかじゃない。ぼくは欲張りだ。望みすぎてしまう。こんなにも優しい彼女が、そうやっていつかぼくを恨むようになってしまうとしたら。
その前に、この胸に咲いた夢のような小さな春を、終わらせてしまわなくてはならない。
少しだけ重い足取りで階段を上り、2年生のフロアへ出る。
朝の賑やかな廊下。ぼくは体力がないから、いつも少しだけ息が切れてしまう。呼吸を整えながらD組の教室を目指し歩き出した時、ふいに背後から肩を叩かれた。
「おはよ! 唯春ちん!」
彩羅ちゃんだ。彼女はにっこりと笑って、ぼくの顔をのぞき込む。
「……おはよう、彩羅ちゃん。早いね」
「ん? うん、朝練あってさ」
手元に抱えたファイルを見せながら、彩羅ちゃんが言った。恐らく楽譜を収納するためのものだろう。うっすらと五線譜が透けている。
そういえば、そうか。吹奏楽部は朝の練習もあった。それに今日は、ぼくの方が何だか足が重くて、いつもより少しだけ学校に来る時間も遅れてしまったし。
「唯春ちん、だいじょぶ?」
ぼくと目が合った彩羅ちゃんが、ふと心配そうな顔になってぼくの前へ回り込んだ。
「何が? どうしたの?」
誤魔化すようにぼくは笑う。
こういう時の彼女は、少しだけ怖い。ぼくがいくら誤魔化しても逃がしてくれなくて、白状するまで追求されてしまう。けれどそこでぼくが彩羅ちゃんを拒絶できないのは、それがぼくを受け入れようしてくれているがゆえの行動であると知っているから。
「ちょっと話しよっか。霞に一応連絡入れとくね。いい?」
彼女の手が、気遣うようにぼくの背に触れた。ぼくはただ頷くことしかできずに、誘導されるまま廊下を歩く。
「──唯春?」
よく知った声が、階段の方から届いた。
駆け下りてきたらしくやや焦った様子のその人は、少し跳ねた焦茶の髪を荒っぽくかきあげて近付いてくる。
「千秋くん、」
喉から、掠れたような声が落ちた。
顔を見ることもできないまま、つい彩羅ちゃんの袖を掴んで縋ってしまう。
「あー、ごめん。唯春ちんに用事だった? 今ちょっとこの子、目眩してるみたいでさ。連れてって休ませるから、後でもいい? 急ぎ?」
彩羅ちゃんがぼくの背を宥めるように撫でながら、至っていつも通りの調子でそう告げた。
「あ……分かりました、すみません」
行こっか、と彩羅ちゃんがぼくの背に手を当てて歩き出す。
千秋くんがどんな顔をしていたか、見ることができなかった。彼女がしばらくその場に立ち尽くしていたらしいのは分かって、けれどそれもぼくたちが空き教室に入ったことによって、完全に見えなくなってしまった。
「唯春ちん。今日、頑張って学校来たね」
ぼくを椅子に座らせて、彩羅ちゃんも目の前の椅子を引く。ゆっくりと腰を下ろして、彼女は気遣うように微笑んだ。
「……、」
何と返せばいいか、分からない。
目を見ることもできずにいるぼくに、彼女は少し距離を詰めて顔を覗き込んでくる。
「気付いてる? 顔色、すっごく悪いの。眠れなかった?」
身体の内側が、さああっと冷たくなっていく感覚。ばれてしまった。心配をかけてしまった。彩羅ちゃんの時間を奪って、千秋くんにもあんなに素っ気なくして。
「……ごめ、」
急速に焦りが渦巻いて、つい謝罪の言葉が口をついた。彩羅ちゃんはそんなぼくを見て、どこか悲しそうな顔になる。
「うちら、この前唯春ちんに相談してもらえたの、すっごく嬉しかったんだよ」
花のような甘い香りが、ふわりと鼻を掠めた。
気付けば彩羅ちゃんに抱きしめられていて、ぼくはそれ以上何も言えなくなってしまう。
「唯春ちん、謝んないで。うちらに悪いなんて、思わないでよ」
聞いたことのない、どこか震えた声。
彼女を悲しませるつもりはなかったのだ。申し訳なくなってそっと彼女の背に手を添えると、彼女は少しだけ表情を緩めた。
「迷惑だって、かけてほしいよ。うちって馬鹿だからさ。言ってもらわないと分からない。唯春ちんのこと、もっと分かりたいよ。
きっとうちも、唯春ちんのことたくさん傷つけたと思う。知らなかったじゃ許されない罪も、たくさんたくさんあるから。唯春ちんがどれだけ辛くて、何を悩んだかはうちには分からない。けど……分からないままでいたくはない」
気付いていた。
彩羅ちゃんと霞ちゃんが、時折ふたりでぼくの話をしていること。
それはいつだってぼくを気遣ってくれる話で、ぼくを思ってくれることで。先日の焼肉の話だって、ふたりからのお昼の誘いをいつも断っているぼくの罪悪感を消すための、ふたりなりの気遣いだ。
けれどぼくは、いつかふたりに迷惑をかけてしまうことを恐れて、ふたりと距離を縮めることを拒絶した。本音を打ち明けて関わることを、初めから諦めたのだ。
「言いたくないことは言わなくていいよ。したくないことはしなくていい。嫌だったら、嫌だって言ってほしい。けど、唯春ちんが”痛い”と思うものを、”苦しい”と思うものをひとりで抱え込んだままいてほしくはないんだ」
喉の奥から、荒い呼吸が漏れる。滲んだ涙が彩羅ちゃんの肩に吸われて、離れなくてはと思うのにどうにも動くことができなかった。
「唯春ちんの大切なひとも、きっとそうだよ。唯春ちんがあんなに嬉しそうに話してくれた人だもん。うちには分かる。
それにさ。唯春ちんがひとりで辛そうにしてるの、見るの、辛いよ」
許されるの?
こんなに苦しくて重いものを、打ち明けても? 辛いと、そう言葉にしても?
──ひとりで頑張らなくても、いいの?
「……っ、」
どう話したらいいか分からない。
どうすれば上手く伝わるのか。どう言葉にすればいいのか。
「上手く話そうとしなくたって、いいんだよ。唯春ちんの素直な言葉が聞きたい。霞もそう。……千秋ちゃんも、きっと」
胸の底でわだかまっているもの。ずっと言えなかったもの。上手く言葉にできないこと。苦しくて口にできないこと。誰にも迷惑をかけたくなくて、ひとりで抱きしめていたもの。
「ぼく……もう、頑張ったよ」
絞り出したような声が、静かな教室内の空気を震わせた。
「ひとりで、たくさん、たくさん頑張ったよ。もうこれ以上、何を頑張ればいいの? ぼく、どこから間違ったの? 嫌われるのが怖くて仕方ないの、ねぇ、」
「唯春」
「好きだよ。やっと、生まれてきてよかったと思えたのに。なのに……離れたら、生きていけないよ。ぼくを好きだっていったでしょう。あの言葉は本当だったんでしょう? ならどうして、ぼくはこんなにも遠いところにいるの?」
こんなにも汚い、ぼくの心の中。
口にすればするほど、自分を嫌いになっていく気がした。
綺麗な綺麗な春でいたかった。美しいだけの花でいたかった。けれど、無理だ。朽ちかけの果実が、いつよりもいちばん甘ったるく、重く残るのだ。舌触りは、少しだけ痺れるようなざらりとした感覚。誰も好んで腐ったものを口にしようなどとは思わない。
だってそれは、どうしようもなく人には『毒』だから。
それが本来ならば、捨てられるべき薄汚い
口にしてしまったら、すっきりした。
彩羅ちゃんは相槌を打ちながら静かに聞いてくれて、ぼくが話し終えるとぼくの背中を優しく撫でてくれた。特別な助言はなかったし、ぼくもそれを望んではいなかった。
ただ最後にくれたひと言は、ぼくの心を浮上させるには充分な力を持っていた。
「唯春ちん。頑張ってくれてありがとう。生まれてきてくれてありがとう。うち、唯春ちんと友達になれて、嬉しい」
もうすぐチャイムが鳴りそうだ。
タイミングを伺うように戸口から霞ちゃんが姿を見せて、ぼくと彩羅ちゃんの名前を呼んだ。迎えに来てくれたらしい彼女に教室に戻る旨を伝えて、3人で空き教室を出る。
ふと通った柔らかな風が、頬を撫でて髪を掬い、通り過ぎていった。
それはどこかよく知ったような、寂しげな秋の匂いがした。
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