第12話 亀裂




 それからぼくは、頑張って常に一歩千秋くんへ近付くようにしてみた。

 考えてみれば、ぼくたちの距離感は付き合う前とあまり大きく変化していなかったのだ。

 お昼は一緒に食べて、会えば話をして、図書室にも行って、放課後は時間があれば会う。時折手を繋いだりはするけれど、そのくらいなら友人同士でも普通にする。


 だからもう少しだけ近く、恋人のような距離感で。


 インターネットで調べてみたことを、順番に試してみる。だって、分からないのだ。手探りでやってみるしかない。

 恋人繋ぎ、成功。感触も良好。腕組み、成功。これは少し驚かれてしまったけれど、千秋くんは嬉しそうだったのでよしとする。次に、ハグ。……これは、



「はる? やっぱ用事でもあるのか?」



 心配そうに聞いてきた千秋くんの声で、ぼくははっと現実に戻った。

 委員会もなく、千秋くんのバイトもない放課後。いつもの空き教室で会って、ふたりでお話したりして時間を過ごす。


 ──自分からハグする勇気が、出ない。


 まずタイミングが分からない。どう切り出せばいい? どうすればいい? 一応周囲に人が居なくなる放課後に狙いを定めたものの、ふたりきりになってしまうとそれはそれで緊張してしまう。ぼくひとりでそわそわして、考え込んでしまって、気付けば千秋くんに顔を覗き込まれていた。

「あ……の、何でもない!」

 途切れてしまった話の続きを促すと、千秋くんは怪訝そうにしながらもまた話し始めた。

 本当にもどかしい。自分がこんなに意気地なしだなんて思わなかった。こんなにも近くにいるのに、まるで透明な壁があるみたいなのだ。手を伸ばしたい。触れたい。けれど、あと一歩のところを何かが邪魔して動けない。手を伸ばせばそこにいるのに。


「でさ、はるは何かしたいこととかある?」


 千秋くんが、スマホの画面をスクロールしながらぼくへ聞く。そこへ表示されているのは、様々なデートスポットだ。

 ふたりでお買い物をしたり、カフェへ行ったり、スイーツ巡りをしたり。映画はまだ行ったことがなかった。水族館や遊園地、動物園も。千秋くんは体を動かすことが好きだから、公園に行ってみたりするのもいいかもしれない。ぼくはアウトドアが得意な方ではないから、その時は千秋くんに手加減をお願いすることになるけれど。

 でも、ふたりで歩くのは楽しそうだ。

「え、っと、」

 したいこと。ぼくが、したいと思うこと。

 考えてみて、思い浮かぶことはあった。それはずっと胸の奥にあって、少しだけわだかまっていること。

 千秋くんが、ぼくの言葉を待ってくれる。その優しい表情がどうしようもなく嬉しくて、胸の内側に愛おしい感情があふれた。彼女なら聞いてくれる。ぼくが勇気を出せない間も、ちゃんとぼくを待っていてくれる。


「────……ん、」


 両手を伸ばして、そっと千秋くんを腕の中に閉じ込めた。

 ぼくよりも少しだけ背が低くて、細身で、けれどぼくよりもしっかりしている大好きな恋人。ぎゅうっと抱きついて、すりすりと擦り寄ってみる。鼻をくすぐる髪と、制汗剤の匂い。

「千秋くんと一緒なら……ぼく、どこも楽しいよ」

 本当に、奇跡みたいだ。触れたら気持ちが止まらなくなって、さらに腕に力を込めた。こんなにも好きなのに、どうにも上手く言葉にならない。形にしようとするたび不確かにすり抜けていくそれを、一生懸命かき集める。

「千秋くんのこと……もっと知りたいって、思うの。触れたいって、……おかしい、かな」

「はる」

 千秋くんの優しい声が、耳をくすぐる。

 その指先がぼくへ触れて、はやる鼓動にこくりと唾を飲んだ瞬間、けれど想定していなかったことが起きた。



「唯春、ごめん」

「千秋」



 千秋くんの手が僕を引き剥がすのと、ふたりきりだった教室の扉が開いて彼女の名前が呼ばれるのは、ほとんど同時だった。

「ぁ……」

「千秋、まだいるならスケジュール調整したいんだけど」

 綺麗な黒髪、静かな声。


「凪雪」


 冬野凪雪。

 戸口から姿を見せた彼女は、ほんの一瞬だけ顔を顰めて、けれど次の瞬間にはまた千秋くんを見据えて会話を再開させる。

「生徒会は?」

「生徒会はなくなった。なんか先輩が部活に出なきゃいけないとかで、用事がある人も多かったし潰れたの。塾までも時間あるし」

 そうか。冬野さんは生徒会執行部に在籍していたらしい。どこかで名前を見た事があると思ったら、生徒会議事録だ。会計係の末席に、確かその名前があった気がする。


「今は、無理?」


「あー……、」


 ぼくの方を一瞥して、冬野さんが聞いた。

 迷っている様子の千秋くんに、言いようのない複雑な感情が込み上げる。

 先程千秋くんは、ハグをしたぼくをその手で引き離したのだ。しかもこうして他人が入ってきたら、簡単にぼくの優先順位は下がってしまった。

 冬野さんの用事も、大切なことだ。きっと授業のことについて話したいのだろう。

 考えてみれば、ぼくにも記憶がある。1年生の時、確か学年間でクラスを横断するような少し大きな調べ学習の授業があった。その導入として外部講師が招かれた、というのがきっと先日の話だろう。授業時間ももちろん取られるが、それだけでは到底間に合わないため自分たちで時間を作って集まり、最終報告までに調査内容をまとめなくてはいけない。

 さらに今、冬野さんは”生徒会”・”塾”というワードを出した。これだけでもう、彼女が多忙であることが分かる。きっと集まる時間を作るのも容易ではないはずだ。


「…………大丈夫。行ってきて。冬野さんも忙しいでしょう。ぼくは暇だからさ」


「そう、か?」

 ぽんぽんと千秋くんの背中を叩いて、立ち上がる。開けたままの窓へ近付いて、誤魔化すために外へ顔を出した。もうすぐ秋が来る。でもまだまだ残暑は厳しくて、いまいち季節の変わり目が分からない。

「ごめん、唯春。じゃあ、行ってくるな」

「うん。頑張ってね」

 できるだけ動揺を隠すように笑って、ぼくは彼女へ手を振った。何だかひどく目の奥が熱くて、すぐに顔を背けて窓の外の景色へ逃げる。

 部活生の声が聞こえていた。少し離れたところからは、吹奏楽部の楽器の音も。彩羅ちゃんは吹奏楽部でトランペットを吹いているらしい。高らかな金管の音色が耳に届いて、少しだけ泣きたくなってしまった。


「ぼく、間違った……?」


 喉から出た声は、頼りなく震えていた。

 触れられるのが嫌だった? ……そんなことはないはずだ。だって彼女は、それまでのスキンシップなら許してくれた。じゃあ何が。学校だったのが悪かった? 確かに、学校は人目がある。事実冬野さんが千秋くんを呼びに教室に来たし、そうやってぼくが調子に乗ってべたべたしたりして、ぼくたちの関係がばれてしまったとしたら。

 そうしたらまたあの時のように噂が流れて、今度は千秋くんから人が離れてしまうかもしれない。

 ぼくはいい。ぼくはもう、慣れているから。けれど千秋くんは違う。彼女は、たくさんの人に囲まれているべきだ。



 彼女は優しいから。

 だからぼくを、好いてくれるのだ。



 多くを望みすぎないようにしなければ。

 その境界を守って彼女に触れるくらいは、ぼくにもまだ許されるだろう。それとも、もう、嫌われてしまっただろうか。

「……っ、」

 そんなことがあったらぼくは、一体、どうやって息をすればいいんだろう。


 首を横に振って、頬を叩いた。愛されてしまったから、ぼくは弱くなってしまったみたいだ。少し前まではひとりでも平気だったはずなのに、気付けば誰かの温度を求めている。

 こんな自分が恐ろしかった。いつかまたひとりになった時、ぼくはきっと立ち直れなくなってしまう。だってもう、幸せな感情を知ってしまったから。誰かのぬくもりを知ってしまったから。それはひどく甘くて、抗う間もなく急速にぼくを酔わせていくのだ。失うのは怖い。

 それならいっそ、その指先でぼくの首を絞めてほしい。この体に、痛みを覚えさせてほしい。甘さはすぐに消えるけれど、痛みは一生残るから。それを抱きしめて、ぼくはひとりで生きていける。


「なんて、ね」


 我ながら物騒で笑ってしまう。

 けれど、何よりも怖いのは無関心なのだ。負の感情であっても、それがぼくへ向けられているうちはぼくは彼女の中にいられる。けれどそれが無になってしまった瞬間、ぼくは彼女の中から完全に消え去るのだ。

 雑多に鳴っていた楽器の音がふいにしんと静まり返り、数拍置いてトランペットのソロに変わった。歌うように美しいその旋律は、やがて他の楽器と合流して大きな流れになっていく。


 ──諦めてばかりだ、ぼくは。


 窓を閉めて施錠し、片付けて荷物を持つ。

 授業の用事だからきっと千秋くんは暫く戻らない。声だけ掛けて、先に帰ってしまおう。

 声を頼りにふたりがいる教室を探していくと、1年A組の教室だけ電気がついているのが見えた。そっと近付いて、声を掛けるタイミングを伺う。


「はー、千秋ってそういうとこあるよね」

「何が言いたいんだよ」

「普通は先約を優先するでしょう。それなのに千秋は……全く、人の気持ち考えたことある? みんながみんな何でもすっきり割り切れるほど強くないし、我慢を続けられるほど暇なわけでもないの。少なくとも、私はよくない」


 軽い口喧嘩のようなその会話に、割って入る勇気はなかった。

 先約。もしかして、ふたりが話し合いをすることは予め決まっていたのかもしれない。ならぼくは、そこへ割り込んだ邪魔者だ。

「まぁ私も悪かったけど。そんなだから私、あんたのせいでいちいちやきもきしてる」

「……」

 黙り込む千秋くんに、冬野さんは呆れたようなため息を漏らした。

「先輩が可愛い?」

「ん」

「そ。それは良かった。私が来る前もイチャイチャしてたでしょ? 見えてたけど」

「それは……」

「嬉しい? いつもデレデレして」

「嬉しいってか……でも、ちょい困ってる」

 遠くで誰かの声がする。

 校内の部活生か、それとも勉強か何かで残っていた生徒かもしれない。時折大きな笑い声がするのがここまで届いていて、今だけはこの場所が静かでないことがありがたく思えた。



「ああやってくっついてくんのとか……正直やめてほしいんだ。耐えられない」



 そうか。

 彼女はいつも、無理をしていたらしい。


 音を立てないように素早くその場を離れ、階段を駆け下りた。震える手で靴を履き替えて、喉の奥に込み上げたものを懸命に飲み下しながら駆け出す。


 彼女との間に感じていた距離。

 あれは、意図して彼女が保っていた距離。

 思えば普段の彼女はひどく淡白だった。彼女の友人との会話を時折聞くことがあったけれど、ぼくと話す時のように柔らかくはなかったし。遠慮がなく荒っぽくて、けれど気楽そうで。あれが本来の彼女だったのだ。

 別に、ぼくに特権が与えられていたわけでも許されていたわけでもなかった。


 ただずっと、甘えて寄りかかり続けるぼくのために無理をしていただけだった。



『ごめんね。買い出しに行かなくちゃだから、先に帰るね』



 足早に帰路を進みながら、千秋くんとのトークルームにメッセージを送った。

 既読はつかない。けれどそれでもいい。むしろどこかほっとしてしまって、ぼくは続けて母へ帰宅する旨を連絡してからスマホをしまった。冷蔵庫の中身も日用品も、足りないものはなかったはずだ。買い出しがあると言い訳した手前、スーパーに寄る用事は特段なかった。

 むしろそうして買い物をして帰ることで、話し合いを終えた千秋くんとどこかで鉢合わせてしまう方がぼくには気まずい。

 もうそろそろ5時になる。早めに帰って夕飯の支度をしよう。溜めている洗濯物も、帰ったら片付けてしまわなくては。今日中にやらなければならない課題はなかったけれど、予習してくるように言われていたものが現国であったはずだ。……頭の中をやるべきことでいっぱいにして、溢れそうになる感情を抑え込む。


「……っ、ごめ、」


 自己嫌悪。これでは、周囲へ不快感を振りまき続けているも同義だ。本当に救いようがない。ぼくは一体、これまで生きてきた17年間のどこから間違えてしまったのだろう。


 あんなに優しいひとに、『耐えられない』と言わせてしまった。


 それは到底許されるはずもない、重い罪だ。彼女はぼくを、哀れんでくれただけ。ただそれだけ。なのにぼくは言葉の全てを信じ込んで、その優しさに甘えて彼女に我慢をさせた。

 ブッ、ブブッ、と振動し出すスマホの通知を、見ることはできなかった。今見たら感情があふれてしまいそうで、恐ろしかったのだ。例えばそれが彼女からのメッセージだったとして、今のぼくには冷静に応答できる自信がない。


 いつか彼女の手を、離す日が来たら。


 その時ぼくは、綺麗に彼女を手放してあげられるだろうか。そうしなければならない。けれど、もしかしたらその時は、ぼくの全てが終わる時かもしれない。



 ぼくをあの痛くて苦しい場所から連れ出してくれた、ぼくだけの光。



 光が失われたその後に残るのは、ただひたすらに深い、深い闇だ。

 光がなくては人は生きていけない。もうぼくには、彼女がいない世界での呼吸の仕方が分からないのだ。

 それならいっそ、ぼくがあの噂の通り救いようのない淫乱女だったらよかっただろうか。今のぼくにはあまり分からないけれど、身体の繋がりが人を満たすこともあるらしい。そうやって噂の通り好きでもない誰かに身体を許して、他人の恋人でも構わず媚びて、獣みたいに絡み合って。そうしたらきっと、千秋くんと付き合うなんて選択肢は取らなかった。

 信じることは恐ろしいことだ。そうやって期待した分だけ、あとからぼくは自分自身を嫌悪する羽目になる。


 彼女の唇の温度を、思い出してみた。

 それだけでもう全てを失うには充分だと思えるほどに、ぼくは彼女を愛してしまっていた。



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