第10話 不協和音




 階段を一階分上がって少し歩くと、教室が見える。

 1年B組。賑やかなそこへ少しだけ顔を出すと、挨拶とともに後輩の子たちが『茅岡千秋ですか』と聞いてくれるので素直に頷いて、呼んでくれるのを待つ。

 千秋くんの席は、窓際の真ん中くらい。

 それから千秋くんがぼくのところまで来てくれるので、そこから少し歩いたところにある空き教室へ移動して、ふたりでお昼にするのだ。


「それでね、霞ちゃんと彩羅ちゃんが、千秋くんも一緒に焼肉に行こうって。ふふ、楽しそうだね? お友達と焼肉なんてぼく行ったことがないから、すごく緊張するけれど」


「え、いいの? あたし? 先輩たちと焼肉か……。ん、楽しみだね」

「うん! あ、でもね、千秋くん先輩の中にひとりになるでしょう。だから、お友達連れてきてもいいよって」

「友達か」

 たくさん話してしまうぼくに、けれど千秋くんは嫌な顔ひとつしない。それどころかずっと嬉しそうに聞いていてくれて、ぼくの話をもっと聞きたいと言ってくれる。


 自分の話をするのは、苦手だった。

 どう話したらいいのか、どこまで話したらいいのか、どれくらいが相手を不快にさせないのか、色々考えすぎてしまって結局何も言えないまま終わる。

 けれど彼女は、そんなぼくの話をひとつひとつちゃんと聞いてくれるのだ。

「ぼくの方でお話しておくから、ゆっくり考えて。ふたりとも部活してるし、日程も合わせなくちゃだから。……あ、お肉苦手とか、あったりしない? 本当は行きたくないとか、」

「ないよ、大丈夫。肉は大好きだし」

「そっか、よかった」

 千秋くんと恋人になれて、本当に幸せ。

 一緒にいるだけで胸が暖かくて、とくんとくんと少し落ち着かなくて、でもいちばんぼくらしいぼくでいられる。

 けれど今、ちょっとだけ悩んでいるのは、



「────失礼します。お昼中すみません。千秋、レポート」



 唐突に扉がノックされて、女の子の声が教室に入ってきた。

 ぼくたちの会話は中断されて、千秋くんに用事があったらしいその子はまっすぐ千秋くんの方へ歩いていく。それを千秋くんは、口の中に入っていたものを飲み込み、手に持っていた食べかけのパンを机へ置いて迎えた。

「あー……、今? もう?」

「うん。今日の昼までって言われてたでしょ。もう書いてる? 出しに行きたいんだけど」

 手に持ったプリントの束を見せるように千秋くんの目の前へ差し出し、女の子は言う。

 その子は、ぼくの記憶にはない子だった。まっすぐでつやつやの黒髪が綺麗な、クールな雰囲気の美人さん。ふたりは授業の話らしい会話を交わしながら、やがて千秋くんが立ち上がる。


「ごめん、唯春。授業のレポート忘れてた。ほんのちょっとだけ外すな。ごめん」


 もやりとした重いものが胸をよぎるのを感じながらも、ぼくは頷いた。

 授業のことならば仕方がない。ただ一瞬だけ引っかかってしまったのは、少しだけ近いふたりの距離感と、よく知って慣れた様子の気さくな会話。

「先輩、お食事中すみませんでした。少しだけ千秋を借ります。すぐお返ししますから」

 その子がふいにぼくを見て、静かに微笑んだ。ぼくはできるだけ平静を装って綺麗に笑み返し、気にしないでなどと返事をする。


 ぼくが最近、少しだけ悩んでいること。


 千秋くんに近付きたくなってしまうこと。もう少しだけ近い距離で、触れ合いたくなってしまうこと。キスがしたくなってしまうこと。



 ──それから、時々ぼくの知らない彼女が見えて、寂しいと思ってしまうこと。



「あ。凪雪、焼肉とか行く?」

「何の話?」

「先輩たちと焼肉行く話が出ててさ。あたしも誰か連れてくかなと思って」

「へぇ。いつ?」

「んー、その辺はまだ決まってねえけど」

 先程千秋くんに持ちかけた、霞ちゃんや彩羅ちゃんとの食事の話だ。ぼくが知っている千秋くんの友人は、いつも教室に行った時に近くに見かける若月わかつき真佑まゆさんという子くらいだったから、勝手にその子が来るものだと思い込んでいた。


「千秋、焼肉でお腹壊したことなかったっけ。食べすぎて吐いたんだっけ?」


「いやあったけど……小さい頃の話だろ。もうそんなことねえし、第一先輩に呼んでもらってんのにやらかせねえよ」


 ぼくの知らない話が、目の前で広がっていく。ぼくは千秋くんとは高校からの仲だから、中学以前のことは全く知らないのだ。

 ほんの少しわだかまっていたそれが、少しずつぼくの中で大きさを増していく。

 学年も違うし、さらに高校からの付き合い。こんなでぼくは今まで、一体彼女の何を知れていたのだろうか、なんて。

 ぼくの視線に気付いたのか、千秋くんがぱっとこちらを見た。


「あぁ、こいつ? あたしの腐れ縁」



「1年A組、冬野とうの凪雪なゆきです。千秋とは、幼稚園から小学校くらいまで一緒だったんです。中学校は違いましたけど」



 腐れ縁。通りで、気安く見えた関係性にも納得がいった。

「今回は、学年全体で合同授業がありまして。クラスを跨いでグループを作ったので、そのレポートだけ回収しに来ました」

 優しそうな子だ。

 顛末を軽く説明してくれた冬野さんが、千秋くんの頭を一度はたき、その首根っこを掴んで教室を出ていく。何か話し声がしたものの、その内容までは聞こえなかった。


 こんなことで不安を感じるのは間違っている。けれど、年月の差は大きい。

 幼稚園から小学校まででも、9年くらいはあるのだ。対してぼくは、まだ1年もない半年程度の付き合い。そして共有した時間自体も、実際あまり多いとはいえなかった。

「ん」

 ひとりきりになってしまった教室。ふとスマホが着信を示したので、確認してみる。


『唯春ちん!! みてみて、今日の運勢最高だって!』


 霞ちゃんと彩羅ちゃんとの3人のグループに送られてきたそんなメッセージには、食べ終わったあとのおかずのカップの画像が添えられていた。ぼくも知っている。これは、カップの底に運勢が書いてある冷凍食品だ。しかも画像に乗っているカップの色はゴールド。運勢は最高、今日は無敵の日、などと書かれている。


『ご飯中にごめんね、さらちゃんが唯春ちゃんに見せたいって……気にしなくていいからね』


『ハッピーのおすそ分け!! こんなの見た事ないよね? うちやばいの引いた?!』


 ぽん、ぽんと続くメッセージに、つい笑ってしまった。ふたりは何も知らないはずなのに、なぜか励まされてしまった気分だ。

 画面をタップして、メッセージを打ち込む。


『うん。ぼくも初めて見た。すごいね、きっとレアな当たりカップだよ』


『だよね?! うわ、大切にしよ』


『取っておくの?』


 霞ちゃんの呆れた顔が目に浮かぶ。

 少し一緒にいただけでも感じるけれど、彩羅ちゃんは何でも小さなことを拾い上げて幸せになってしまうような子なのだ。そうして周りへも幸せな気持ちを振りまいて、霞ちゃんは時折フォローしながらそれを見守っている。

 曇り空が嘘のように晴れ渡って、ふたりと一緒にいるとどうしてか、どんな苦痛もいつかは終わるのだと思えてしまう。


「……ふ、」


 少しだけ、元気が出てきた。

 ぼくは今でも充分幸せなのだ。学校だって、もう今までのように息苦しくない。千秋くんがぼくの声を聞いてくれて、あの暗い場所から連れ出してくれたから。

 しかも彼女は、ぼくを好きだと言ってくれた。恋人にしてくれた。それだけでもぼくには、奇跡のような出来事なのだ。

 だから、ぼくがこれ以上何かを彼女へ望むのは、きっと欲張りだろう。


「唯春、ごめん。終わらせてきた!」


 千秋くんが戻ってきて、まっすぐ目の前の席へ座った。外部講師が招かれたのだという、先程のレポートの授業について彼女が話し出すのを聞く。講話を聞くパートとグループワークのパートがあったらしく、クラス関係なくグループを作るよう指示されて一緒になったのが先程の冬野さんだったらしい。

「冬野さんとは、仲良いの?」

「んー、どうだろ。中学は違ったし、それより前も何かよく一緒になるなくらいの感覚しかなかったからなぁ」

「……そっか」

 それにしては仲が良さそうだったけれど。

 なんてついまた気分が暗くなってしまって、それを誤魔化すように口の中へ卵焼きを入れた。ぼくの好みは甘めだ。母の作る卵焼きの味が好きで、以前作り方を教えてもらってからよくお弁当に入れている。

「唯春、ごめん。嫌だった? やっぱレポートくらいは授業の時すぐに書いとくべきだったな……。ごめんな、唯春」

「ふふ。もういいよ」

 千秋くんに手を取られて、笑ってしまう。

 微妙に違うのだけれど、ぼくが内心穏やかでなかったことには気付いたみたいだ。にぎにぎと手を繋ぎあって、それから引き寄せる。


「千秋くん」


 ぼくの千秋くんだ。誰にもあげたくない。ぼくの、ぼくだけの女の子。でももし、千秋くんがぼく以外を選んだとしたら……その時ぼくは、ちゃんとこの手を離してあげられるのだろうか。分からない。


「千秋くんと一緒にいられるの、嬉しい」


 我儘は言わない。ちゃんと謙虚でいるし、その時が来たら千秋くんとはちゃんとお別れできるようにする。だから少しでも長く、1秒でも長く彼女と居させてほしい。

「だいすき」

 名前を呼んでくれるのが好き。

 目を見てくれるのが好き。

 ぼくの話をちゃんと聞いてくれて、嬉しそうにしてくれるのが好き。

 ほんの少しだけがさつで、けれどぼくのことをいつも見ていてくれて、ぼくと手を繋いでいてくれるのが好き。

 格好良いところが、どきどきして、好き。


「あたしも。あたしも大好きだよ、はる」


 その手を口元に引き寄せて、不慣れに唇を押し当ててみた。千秋くんみたいに上手くはできない。けれど、愛おしいと思うこの気持ちだけは、嘘なんかじゃないから。


 同じ学年になりたかったと、思わない訳ではない。もし同じ学年の、同じクラスになれたとしたら。そうしたら授業中一緒に勉強したり、少し私語をしてみたり、行事も一緒に参加して、もっとたくさん彼女といられたかもしれない。

 けれど一方で、もしかしたらぼくたちが同じ学年になることによって、出会う瞬間に何かが掛け違ってしまってぼくたちは恋人どころか友人にさえなれなかったかもしれないのだ。

 だからきっと、ぼくはやはり今がいちばん幸せなのだと思う。



「……もう、予鈴鳴るね」



 そっと手を離して、教室に戻る準備を始めた。

 もう少しだけ一緒にいたい気持ちを押し込めて、小さく深呼吸する。午後は自習だ。ふたりと話せば、この重たい気持ちも紛れるだろう。落ち込んでいる場合ではない。ないものを望んでいる場合ではないのだ。

 永遠なんて存在しない。それはいつだって有限で、だからこそ美しく、だからこそ大切にもされる。悲観的になって幸せを取りこぼすなんて、哀れなことだ。


 残っていたスコーンを包み直して、千秋くんの手に渡した。

 彼女が美味しそうに食べてくれるのが、ぼくにはいつも嬉しかった。だからぼくはレシピをたくさん調べて、決して多くはないお小遣いを切りつめ節約し、毎日は難しくても工夫を凝らしながらたくさん作ってきていたのだ。

 ありがとう、と彼女から満面の笑みが返ってきたことに少し笑って、ぼくは時計を確認しつつ席を立つ。

「今日の放課後は、委員会の仕事があるんだ」

「そか、残念」

 定期的に行われる読書週間のために、次の企画に沿った内容のポスターやPOP、クラス配布用チラシを作成しなくてはいけない。その作業時間が、今日の放課後で設定されているのだ。伴って、今日は放課後の図書室解放もなしということになっている。


 ──胸の奥が、きゅっと痛む感覚。


 すうっと通った肌寒さをこらえて、ぼくは千秋くんと解散し教室を出た。

 けれどそれから少しずつ、ぼくたちの関係性は崩れ始めてしまった。



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