第9話 春の園
「おはよう、唯春ちゃん」
教室に入ると、小さな声で話し掛けられた。
「霞ちゃん。おはよう」
クラスメイト。それから……ぼくの、高校初の友人。
彼女はもともとぼくに関する噂が流れ出しても唯一ぼくへの態度が変わらなかった人で、ぼくが当番の日の図書室にもよく来ていた人だった。人柄はわりとおとなしめで、見かける時は大抵いつもひとりで本を読んでいるような子。
ぼくが千秋くんに告白したあの日、図書室を塞いでいてくれたのも実は彼女だった。
あの日施錠時間になって図書室から出た時、本を抱えながら戸口に腰を下ろして居眠りをしている人がいた。それが、彼女だ。
──聞かれていた。そう思って身を固くしたぼくに、けれど彼女は焦ったように告げた。
『あっ、あの、内容はよく聞こえなかったんだけど、大事なお話かなと思って、……来ちゃった人達には演劇部の練習中だって言ったから、その、…………安心して!』
そういえば彼女は、演劇部の副部長だった。
あとからよくよく聞くと、読み終わった本を返却しようと図書室へ来たところで中から話し声が聞こえて、それから図書室に来た人達に帰ってもらいつつ待っていたら居眠りしてしまったのだそうだ。
そして彼女自身も何も聞いていないと言うけれど、やはりぼくは話の内容が聞こえていたんじゃないかと思う。
色々気を遣ってくれるし、あれからぼくと一緒にいてくれるようになったから。優しい人だ。多分それほど人付き合いが得意ではないんだろうに、毎朝こうして頑張って挨拶してくれて、話しかけてくれる。
それから、
「霞、唯春ちん、おはよ!!」
「さらちゃん、おはよう」
唐突に元気のいい声が飛び込んできて、まっすぐぼくたちの方へ走ってきた。それを霞ちゃんが迎えて、小さく苦笑する。
彼女はぼくたちと同じD組ではなく、その隣のE組の子だから。その前の1年生の時にもクラスは別だったと記憶しているし、そもそもぼくと関わりがなかった、というのも恐らく理由のひとつではあるのだろう。
それで最近は、この3人でいることが増えた。これはきっと、友達と呼んでもいい関係性だ。
「ねーねー、今日午後からこっちとそっちのクラスで合同で自習だって!」
溌剌とした、明るい声が空気を揺らした。
ふわふわと浮き足立つような空気が一瞬で塗り変わって、確かな温度がぼくをこの場所に繋ぎ止める。
「え、そうなの?」
「そー。何かね、こっちで家庭科入ってたんだけど、先生が急に休みになったらしくて。だから、DとEで合同で自習にするらしい」
朝から元気だ。
ふたりの会話をぼんやりと聞いていると、ふいにこちらへ話が振られた。
「唯春ちん、聞いた?」
「え」
何の話だ。自習の話か。
「うーん、ぼくも知らないかも。合同で自習か……騒がしくなりそう」
「ね!? でも何か、先生の勉強会だかがカブってるとかで空いてる先生全然いないんだって。だから視聴覚室で、ふたクラス合同自習にするらしいよ。南先生見るって。朝会って聞いたんだ、うちの吹部の顧問だから」
吹奏楽部の顧問でお馴染みの南先生は、物腰は丁寧だけれど少し不思議な雰囲気を持つ人だった。でもぼくは音楽の授業はとっていないし、部活にも入っていないから接点がない。
「だいじょぶだいじょぶ、あの人基本的には優しいから。音楽になるとやばいけど」
彩羅ちゃんが、ぼくの背中をぽんぽんと叩いて笑った。
「たまにお話するけど……ほわほわしてて、不思議な感じの人だよね」
「えー? ほわほわしてるか? してるか。でもあの人、合奏になったら怖いぞ」
ふたりはこうして、いつもぼくを気遣ってくれる。今はだいぶ穏やかになったもののクラスメイトとの距離感はまだあるし、起きたことがことだから男性が苦手になったし。
でもぼくが少しでも不安な顔をすると、ふたりは立ち止まってぼくに寄り添ってくれようとする。
「あ、もうそろそろ時間だ。戻るね。霞、昼来るでしょ?」
「うん」
ふと時計に視線をやった彩羅ちゃんが、時間の経過に気付いて教室に帰る準備を始めた。
「唯春ちんは、千秋ちゃんとだもんね」
「うん……ごめんね」
「ほらー、すぐ謝んないの」
胸の内が、暖かくなる感覚。
ぼくがずっと諦めていたもの。無理だと思い込んで、駄目だと決めつけて拒絶し続けていたもの。
全部ぜんぶ、千秋くんがぼくにくれたもの。
「唯春ちゃん。もし良かったら、今度千秋ちゃんも一緒にみんなでご飯しよう。ふたりきりがよかったら全然大丈夫なんだけど、わたしたち、唯春ちゃんともっとお話したいな」
「それいい! 何なら、4人で焼肉とか行こうよ! あ、千秋ちゃん先輩の中にひとりだったら気負うかな? だったら他に、クラスの友達とか連れてきてもいいし」
ふたりが提案してくれた話に、じわりと目の奥が熱くなった。本当に優しい。
話せば、伝えようと思えば聞いてくれる人はどこかにいるのだ。例えばそれが、すぐ目に入るほどに近い場所ではなくても。
「うん。……話して、みるね」
霞ちゃんがティッシュで目元を拭ってくれて、彩羅ちゃんはぼくの隣に立ってくれた。
本当に、最近涙脆くて困る。
自分では全然泣くつもりなんてないのに、強い感情が抑えきれなくなるとすぐ、涙とともにあふれだしてしまうのだ。
「ごめんね、唯春ちゃん。わたし、もう少し早く勇気が出せればよかった。唯春ちゃんのそばに、行ってあげられればよかった」
「ううん、違うよ。嬉しかっただけ」
霞ちゃんは優しい。きっと全て知っていて、分かっていて、それでもぼくといてくれようとしている。
彩羅ちゃんも、ぼくの背中を優しく叩いて明るい場所へ引き上げてくれる。
──本当に、眩しくて焼けてしまいそう。
「やだーつられるー!! 唯春、うちもごめんね! ごめんー!!」
彩羅ちゃんが強引にぼくを抱きしめてきて、ぼくはつい吹き出してしまった。
「彩羅ちゃん、もうそろそろチャイムがなりそうだけれど……」
「んあ!! 嫌だー、なんでうちだけクラス違うの? うちも霞と唯春ちんと授業受ける!」
「だめだよさらちゃん、もうそろそろ先生来ちゃうよ」
「うえー」
渋々離れた彩羅ちゃんが、名残惜しそうに教室を出ていくのを見送る。そこから1分も待たずにチャイムが鳴って、ぼくたちはつい顔を見合せて笑ってしまった。
「ごめんね、さらちゃんちょっと距離感近くてテンション高いところがあって……。嫌だったり、してない?」
「ふふ、大丈夫。楽しい」
落ち着かなくて、ふわふわしてしまう。
こんなの、一生有り得ないと思っていたから。少し前までは、高校を卒業するまでの辛抱だと自分に言い聞かせる毎日だったのに。
千秋くんに話したいことが、たくさん降り積もっていく。
嬉しかったことや楽しかったこと、それから、一緒にご飯に行こうという話も。
「唯春ちゃん、可愛いから……緊張しちゃう」
「ふふ。そう? 怖い人じゃないよ」
「だっ、大丈夫! 唯春ちゃんは優しいって、わたし、ちゃんと知ってるから。わたし……唯春ちゃんがいる時の図書室がいちばん、ゆっくり本が読めて、好きなんだ」
ぼくが当番の日図書室に来るのは大抵、学年が違って接点のないような人か、急を要する用事があるために仕方なく来る人だった。
うちの図書室はもともと人の行き来の少ない場所ではあったけれど、ぼくがいる日はそれに拍車がかかるようで、結果ぼくはそこをひとりきりで気を抜ける場所として使ったりしていたくらいだったのだ。
けれどそこへ、頻繁に来る人がいた。
ぼくとよく話すようになってからの千秋くんと、もうひとり……霞ちゃんだ。
霞ちゃんはいつもひとりで来、隅の席で小説を読んで、読みきれなかった分を借りて帰っていた。放課後は部活があるから、大抵は昼休みの時間に。小さな声で『ありがとう』と言って笑ってくれるのが可愛らしいなと、ひそかに思っていたのだ。
「ごめーん遅くなった、号令!」
と、そこへ先生が教室に入ってきて、ぼくたちの会話が終了した。
ふたりで顔を見合せて、小さく笑う。
あんなにも息がしづらかった冷たい海の底みたいな教室が、今は少しだけ暖かくなったようだった。きつく締まっていた喉が緩んで、ずっと胸に抑え込んでいた声が一気にあふれ出した。そうして持ち上げたまぶたの向こうは、想像していたよりも綺麗で。
だって、永遠に終わらないはずだった悪夢があの日、桐の葉が一枚舞い降りるようにふわりと覚めてしまったのだ。
「連絡事項だけど、今日の午後E組で入ってた家庭科の授業、大庭先生が体調不良でお休みなのでなくなりまして、人手が足りない関係でD組と合同で自習になるので時間来たら各自道具持って視聴覚行ってください。
監督は南先生なんで、何かあったら南先生に聞いてね」
彩羅ちゃんが言っていた通りだ。
きっと今日の自習の時間はいつもより少しだけ騒がしくて、けれど楽しいのだろう。そう思うと、今からふわふわと胸が踊った。
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