第2章 溺れるほどの愛を

第8話 ぼくの話




 起床、午前5時54分。


 目覚ましが鳴る時間より6分は早い。

 最近は割とそうだ。目覚ましが鳴らないよう先に止めておいて、布団を出る。少し前までは、起きるのが億劫で暫く布団の中にいたのだけれど、今となっては悩むこともないので比較的さっと起き上がれるようになった。

 それから顔を洗い、髪を梳き、台所へ立つ。お弁当は大抵いつも、冷凍食品と作り置きを詰めて形を整える。そしてその残りが、ぼくの朝ご飯だ。食後のデザートは前日に作ってあるので、あとはお弁当と一緒に包むだけ。

 実はお菓子作りは、以前のぼくにとっては手を動かして思考を止める現実逃避の手段に過ぎなかったのだ。でもそれを美味しいと食べてくれる人ができてから、お菓子作りは大切な趣味になった。

 ──と、テーブルの上に置いたスマホが通知を示す。



『おはよ、はる。起きてる?』


『おはよう。うん、起きてるよ。今お弁当包んでる。千秋くんは?』


『まだベッド。昨日課題あって』



 ぽこん、ぽこんと即レスで会話が続く。

 彼女はまた夜更かしをしたらしい。最近数学の課題が多くて面倒だと嘆いていたから、多分そのあたりのことだろう。


『ちゃんと起きられる? 遅刻しないようにね。焦って怪我したりとか、しないでね』


『ん、わかってる』


 タッパーに残ったポテトサラダをお腹に入れながら、彼女へメッセージを送った。

 彼女は、本来であれば朝は強い方だ。早起きしてランニングする習慣もあるくらいだし、むしろどちらかというとぼくの方が起きるのは不得意だと思う。

 でも彼女は、一方で勉強に弱かった。特に座学系。実技で身体を動かすのは得意なのに、机に向かうのはめっきり駄目なのだ。よく電話を繋ぎながら勉強したりするけれど、彼女は興味のないことへの集中力が本当にない。

 でも、ぼくが教えた内容は完璧に覚えてしまうから、もともと持っている能力みたいなものは高いんだと思うのだけれど。

 彼女曰く、『全教科唯春から教わりたい』とのことだ。


 褒めてくれるのは素直に嬉しい。

 けれどぼくとしては、彼女の補習や追試で一緒にいられる時間が減ったりしたら嫌だという気持ちもあるから、僅差で心配が勝つ。

 彼女とはクラスどころか学年から違うし、その上彼女は帰宅部だけど週3でアルバイトをしているし、平日で会えるのはお昼休みか放課後くらいだから。

 その時間さえ会えなくなるなんて、そんなの無理だ。ぼくには耐えられない。

 紆余曲折を経てようやく彼女と付き合い始め、恋人としての時間を共有するようになって、じわじわと自覚し始めたことがある。



 ──多分ぼくは、人より少し、重い。



 桃沢ももさわ唯春いはる、高校2年生。

 母とふたりで暮らしている。

 出身中学校は、今通っている高校からは少し離れたところ。中学校の時に仲が良かった友人は、ほとんど皆別の高校へ進んだ。以降のやりとりもあまり多くない。学生の身分において、学校が違うことは交友関係に結構大きく影響するのだ。仕方のないことだと、理解はしている。


 そうして高校に進んでからの出来事も、あまり大きな声で話せたものではない。

 高校に入学してから知り合った男子生徒に告白され、その男子生徒が振った元恋人がくせ者だったことで、ぼくは入学後たったの数ヶ月で周囲から孤立してしまった。人の彼氏を寝取った、誰にでも股を開くビッチだという噂がみるみる間に広まってしまったのだ。

 そうしたらまず真っ先に女子生徒がぼくから離れ、変な目で見られるようになり、邪な気を起こした男子生徒はぼくへそういったお誘いをしてくるようになった。もちろん、全て断った。ぼくの恋愛対象は女の子だし、そもそも好きな人以外とはそういうことはしたくない。


 当時はとても悩んだ。許されるなら学校に行きたくない、と願ってしまうほどだ。

 でも、誰にも相談できなかった。記憶の隅にもない父には頼りようがない。ひとりでぼくを育ててくれた母は、仕事が忙しいしたくさん負担をかけているからいらない心配をかけたくない。クラスにも頼れる人はいないし、噂の内容が内容なだけに教師にも打ち明けづらい。


 それに、ただ”よくない噂話が流れているだけ”だったから。暴力を振るわれるとか陰湿な嫌がらせを受けるとかそういうことではなくて、ただぼくの印象が悪く、時々陰口を叩かれるくらいだったから。我慢すればいいと思った。

 だから気に障りそうなところは全て変えたし、なるべく目立たないように自分を押し込めた。



 結果、ぼくは限界を迎えた。



 ぼくの声を、聞いてくれたひと。

 茅岡かやおか千秋ちあき、高校1年生。

 出会いは春、昼休みの図書室だった。ぼくはいつも通り人のまばらな図書室で当番の仕事をしていて、そこへ課題か何かの資料を借りに彼女が訪れたのだ。


 一瞬で、惹かれてしまった。


 それはまだ恋愛感情にも満たない、小さな予感のようなものだったけれど。でもその時、『このままさよならは嫌だ』と思った。だから少しだけ勇気を出して彼女を引き止め、自分のクラスと名前を伝えたのだ。


 それからぼくは、彼女と仲良くなるために思いつく限りのあらゆる手を尽くした。

 その日たまたま持ってきていたブラウニーで甘いものへの耐性を確認しつつ、彼女へ色々お菓子を作っていくようにした。姿を見かけたら、できるだけ話しかけるようにもした。お菓子をあげるから食べにおいで、だなんて今思えばもっといい誘い方もあったのだろうけれど、あの時のぼくには彼女を自分へ繋ぎ止めておくだけで精一杯だったから。

 でもそこからお昼を一緒に過ごすことになり、結果ぼくは彼女とお出掛けの約束まで取り付けることに成功した。


 けれどこの時既に、ぼくの胸中は焦りでいっぱいだった。


 彼女の声に。姿に。表情に。言動に。

 どうしようもなく惹かれてしまう。触れられるたびに意識してしまって、彼女がくれる全てが胸を強く揺さぶって苦しかった。一緒に過ごす時間を重ねていくにつれ、ぼくは強く彼女を想うようになっていたのだ。

 このままでは欲深くなってしまう。これ以上のことを、望みすぎてしまいそうになる。


 それで有耶無耶にしたかったお出掛けが実行されてしまった週末、ぼくの心臓ははち切れそうだった。

 待ち合わせに現れた彼女がとても格好良くてどきどきしたし、たくさん考えて服を選んでくれたのも嬉しかった。普段自分が手に取らない甘くて可愛らしい洋服の数々に、胸がときめくのを感じた。

 それから彼女がくれた、可愛いという言葉。頭を撫でてくれて、しかも『あたし以外に見せるな』だなんて。

 あとから考えれば脈アリのサインだったのだけれど、その時のぼくはいっぱいいっぱいでそんなことには気が回らなかった。

 好きだ。大好き。誤魔化しようもない大きな感情が、胸からあふれた。心臓が強く鳴って、触れてくれた彼女の手の温度が熱くて。このまま死んでしまうのかと、思った。


 けれどそれは、彼女が好きだと言ってくれた瞬間ゼロまで戻った。


 調子に乗りすぎたと思った。

 彼女はあくまで友人であって、恋人ではない。ぼくが一方的に恋愛感情を抱いているだけだ。彼女がぼくを”そういう意味”で好きになるんて、到底有り得ないこと。勘違いも甚だしい。恥ずかしい。


 だって、期待してしまうのがいちばん怖いことだから。


 期待して舞い上がって、そこから突き落とされて味わう奈落がいちばん苦しいから。彼女にさえ嫌われてしまったら、きっとぼくは立ち直れなくなってしまう。

 それからぼくは、至って普通の友人の距離感を意識した。けれどやっぱり彼女とお買い物して歩くのは楽しくて、少しはしゃぎすぎてしまった気がする。彼女がぼくに選んでくれた、綺麗なイヤリング。大切に保管して、休みの日は時々付けてみてもいる。

 こういったアクセサリーには触れたことがなかった。けれど彼女が選んでくれたから、ぼくには何よりも愛おしい宝物になったのだ。


 そこからまた色々あって、何も言わずに避け始めたぼくに彼女が会いに来てくれた。

 今まで誰にも言えなかったことを、彼女は聞いてくれると言った。胸の内に隠していたことを少しずつ打ち明けて、そうしたら感情が高ぶって、彼女に抱きしめられながらぼくは泣いた。


 それから……初めての、キス。


 とにかく胸がどきどきして破裂しそうで、千秋くんが格好よかったことだけは覚えている。

 あれから数週間経つけれど、2回目はまだ来ない。正直あの時は空気に呑まれていたから、仕方ないとは思う。ただ、時々意識しすぎて頭がいっぱいになってしまうことがあるのは、ぼくだけの秘密だ。



「あっ」



 目に入った時計が時間の経過を示していた。

 慌てて立ち上がって、テーブルを片付ける。お弁当は包んだ。学校の荷物も整えた。洗面台へ走ってメイクポーチを掴む。といっても薄くクリームとパウダーだけ乗せて、唇には色つきリップを使う程度。あまり濃いと生徒指導を受けるし、そこまでしたい気持ちはない。

 ただ少し、恋人に可愛く見せたいだけの乙女心だ。察してほしい。

 それから制服に着替えて、鏡の前で身なりを整えた。制服を着崩したことはあまりない。あえて言うなら、背が伸びてスカートが少し短くなってしまったくらい。父は背の高い人だったらしい。加えて母もそこそこ身長があるし、ぼくも多分まだ伸びるのだと思う。

 伸びたくなかった、と思わないわけではない。けれど、彼女がそのままのぼくを好きだと言ってくれるから、ぼくも気にしないことにした。


「よし。──いってきます」


 誰もいない室内へ振り返って、呟いた。

 母は夜勤だ。寝室は布団を敷いてある、食事ならいつも通り冷蔵庫にあるしお風呂も掃除してある。頭の中で確認事項を並べて、ひとり頷いた。普段の家事は大抵ぼくが請け負っているから、母が帰ってきたら休めるようになっているはずだ。

 鞄を肩にかけ直して、扉を開いた。


 大好きなひとに会いにいく。

 それがぼくの、学校に行く唯一の理由。



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