第7話 降り積もる春




「ふーん。それで泣き声、と」


 事の顛末を大まかに話し終えると、真佑が納得したように頷いた。

 話したのは、デマを流されたせいで身動きが取りづらく、あたしにも気を遣っていたらしいというごく当たり障りない内容だ。

「聞こえてた?」

「んーや、近くに行けば聞こえるかなーくらい。でもこっちでは演劇部が練習で使ってるらしいって話になってたから、みんなはそう思ってるんだと思うけど」

 それなら良かった。あまり大きい騒ぎになると先生を呼ばれてしまうこともありえたが、特に話が大きくなっていないところを見るとみんなその話を信じたのだろう。

「それでさ、ちょっと特徴聞いてたけど、多分その噂の発信源私の知ってる人だな。結構厄介な人。ほら、あんたも知ってると思うけど、私らの中学正直言って素行悪いじゃん? その時からもうやばかった」

「うわ」

「てか、その彼氏も確か人から奪ってたはずだよ。掴み合いになって保護者呼ばれて、彼氏取られた方が出席停止になった」

「何で?」

「手が出ちゃったんだよ。あの人喧嘩だけは弱いから。髪引っ張られて泣きわめいたの」

 聞いているだけで疲れる話だ。

 だからか。逃げていく時、私は悪くないだのこれで泣くと思ったら大間違いだの、よく分からないことを口走っていた。

「でも相手が悪かったね。その出席停止になった先輩、私の部活の先輩だったんだ。親が強くてね。家来た先生に怒鳴りつけて帰したって。きっとあの人もその時は、お叱りくらいは受けたんじゃないかなあ」

 それはよかった。まぁ今回の件を見ると、その時の男をそのまま奪い取って高校まで来て、結果そこで他の人を好きになったと振られたようだが。男も男だ。ふらふらとさ迷って、関係のない唯春まで傷つけて。お前なんかが唯春に触れていいわけない。

 絶対に許さない。末代まで呪ってやる。


「あ。千秋」


 ふと名前を呼ばれてその視線の先を辿ると、教室の戸口に愛おしい姿が見えた。

「唯春だ。行ってくる」

「ん。──千秋、あとは任せて」

「ん? うん」

 ひとりで勝手に何か企んでいるような表情になった真佑を放って、あたしは席を立った。

 あれから、唯春は遠慮することなく教室まであたしに会いに来るようになった。

 お昼はもちろんのこと、たまに”会いたくなったから”という理由で教室まで来たりもする。正直、めちゃくちゃ可愛い。


「唯春」


「千秋くん! お昼、もういい?」


「あぁ」


 にこにこと楽しそうな唯春の髪を撫でて、いつもの空き教室へ向かう。

 唯春が教室へ顔を出すようになって、そうしたらみんな唯春の可愛さに気付いたみたいで、唯春が顔を出したら毎回若干クラスがざわめくようになった。

 だからお近付きになりたい奴らがあたしをネタに話しかけようとするのを遮り、いつもこうして唯春を連れ出すのだ。

「千秋くんのクラスの子、みんないい子だね。挨拶してくれるし、千秋くん呼んでくれるし」

「そうか? 唯春に近付きたいだけだと思うけど……」

 あたしの嫉妬にも気付かずに、唯春はどこか嬉しそうだった。

 だって、クラスの奴らに聞かれるのだ。先輩とはどうやって知り合ったのか、どういう関係性なのか、どういう人なのか、彼氏はいるのか、良かったら紹介してくれないか。

 無理だ。だって唯春には、彼氏はいないが彼女がいる。あたしだ。そしてあたしは、唯春があたし以外の奴にそういう風に見られるのが、とてつもなく嫌。

 だって唯春は、あたしだけのものだから。


「そういえば、唯春って何で自分のこと”ぼく”って言うんだ?」


 気になって聞いてみると、唯春は少しだけ考え込んで、それからプチトマトを口に入れもぐもぐと咀嚼した。

「何だか、やることなすこと全部気に障るみたいで……ぼくが男の子みたいにしたら男の子に話しかけられることもないし、女の子を嫌な気にさせることもないかなと思ったんだ」

 あたしが表情を暗くしたのを見て、唯春が困ったように笑う。

「でも今はもう馴染んだし、これが素なんだよ。別に辛くないし、むしろ気を遣わなくていいから楽っていうか……」

 唯春みたいな美人は特に、男子に話しかけられたりするだけで女子の反感を買うことがある。ぶりっ子をしている、男好きだなどと。

 まぁ唯春の恋愛対象は女だから、彼女に関しては実際有り得ない話だったわけだけど。


 だからきっと、あたしは初め唯春の言動が芝居がかっているように感じたのだ。

 あえて男子のような口調を使って、身なりも女子っぽいお手入れや気遣いはあまりせず、少しだけ周囲を遠ざけるような異質さをはらんで。彼女は常に、自らが周囲の気に障らないように、そういう”芝居”を続けていた。


「ね、千秋くん。そんな顔しないで」


 あたしの手を取って、唯春が笑った。

 自分を偽ることがどれだけストレスの溜まる行為か、あたしはよく知っている。

「じゃあさ。それまで唯春は、自分のこと何て言ってたの?」

「んー……私、かなぁ。…………でも、一番気が抜けた時は、『はる』だったかも」

 彼女は、今はもう馴染んで素になったと言った。ならここから戻せというのも、やっぱり彼女には違和感があるだろう。

 なら、


「はる」


 それを全部、あたしがすくい上げる。

 彼女が捨ててしまった彼女自身のものさえ、あたしが全て拾って大切にする。余すところなく全部、ぜんぶあたしが抱きしめて愛する。

 だってそれは紛れもなく、愛おしいあたしの唯春の、その一部だから。

「っふふ、」

 彼女が一瞬驚いたような表情になって、それから破顔した。

「千秋くんは、やっぱり優しいね。……ふふ。そう呼ばれるの、結構嬉しいかも」

「嫌じゃない?」

「嫌なんかじゃないよ。ね、もう一回」

「はる」

「もう一回だけ」

「はーる」

 呼ばれる度に嬉しそうにする唯春が愛おしくて、あたしは取った手を引き寄せ指を絡めた。そこへ何度も口づけて、ぴくりと動いた指先を優しく甘噛みする。

「ちあきくん……?」

 あぁ、好きな顔だ。

 とろりと甘くなって、綻ぶように彼女が表情を崩した。咥えた指先をちゅっと軽く吸って、それから唇を離す。



「はる。──大好き」



 彼女を崩すのはあたしがいい。

 誰にも、何にも許さない。

 彼女の心の奥の柔らかい部分は、一生あたしだけのもの。その愛おしさも、痛みも、得た傷や触れ合った暖かさも全て。

 すべて彼女があたしに許した、あたしだけのものだ。


「ぼくも。……ぼくも、大好き」


 それは春の夜のように、甘い響きを帯びて。

 彼女が絡めたあたしの指先を引いて、そのまま胸の内に抱きしめた。



「千秋くんが、だいすき」



 決して夢などではない。

 この手で掴んだふたりだけの永遠を、また幾度も確かめ合うように。





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