第6話 その手を引いて




 ありえないくらい暴れている心臓を押えながら深呼吸し、真佑に背を叩かれ送り出されて、あたしは今階段を降りている。

 HRが終わった放課後、まだ部活生もちらほらと教室に残っている時間帯。

 もう帰った、なんてことがないようにできるだけ早く出てきたつもりではあるが、江崎先生が今日あった面白い話という題で雑談を始めてしまったので想定より終わりの時間が伸びてしまった。


 2年のフロアはあたしたち1年のフロアよりひとつ下だから、階段を下りなくてはいけない。駆け足で階段を降りて、廊下に出る。既にHRを終えた2年の先輩たちが教室内や廊下で談笑しているのをかき分けて、嫌な予感を抱きつつ彼女の在籍するD組へ向かった。


「ん、どうした? 誰かに用事?」


 戸口にいた先輩が、気を遣ってくれたらしくそう聞いてくる。きっと相当緊張して見えたのだろう。あたしは恐る恐る教室内を覗き込んで、それからゆっくりと見渡した。


 ──姿は、見えない。



「唯春先輩は、」



 名前を出すと、一瞬顔を引きつらせたその人がすぐに表情を戻して声をひそめた。

「んー、終わったらすぐ出ていったから……分かんないかも」

 いないのか。

 帰ってしまったのかもしれない。全く、今だけは江崎先生を心底恨みたい気持ちだった。先生が授業時間を間違えた話も篠田先生がお昼を食べ損ねた話も、今日みんなの前でじゃなくたって良かっただろう。


「図書室とかにいないかな?」


 表情を曇らせたあたしに、その人が言った。

 図書室。確かに、今日は先輩が当番の日だったかもしれない。いっぱいいっぱいになっていて、すっかり失念していた。



 その人に礼を言って、走り出した。1段飛ばしで階段を上り図書室へ向かう。

 図書室は上の階だ。そして放課後であれば、大抵は誰も来ない。学年の教室とも離れているし、これで遠慮なく話ができる。


 いないとは言わせない。


 話しかけてくる知り合いをかき分けて、早足で歩く。中で委員会や話し合い等が行われていないことを確認してから、あたしはひとつ深呼吸して図書室へと踏み入った。

 入口から少し進めば、カウンターが見える。



「────唯春先輩」



 よく知った姿をそこに見つけて、あたしは静かにその名前を呼んだ。

 目が合った先輩の顔は、いつも通りの静かな表情を浮かべながらも、どこか泣きそうに歪んでいた。






「ごめんね。少し、忙しくて」


 静かに、俯きながら先輩がそう言った。

 人がいない静かな図書室。先輩の手元には、あたしが前にプレゼントした本。もうとっくに読み終わったはずなのに、始まってすぐのページのところに栞が挟まっている。


「委員会の仕事があって。休み時間も使って、少し作業をしていたんだ」


 嘘だ。図書委員の仕事が特段何もなかったことは、もうクラスメイトに確認している。

 誤魔化そうとするってことは、言いたくない何かがあるということ。あたしは今まで、それをあえて聞きたくはないと思っていた。それが先輩の意思なら、先輩が話したくなった時に聞くことができればいいと。

 けど、こんなことになってまであたしは沈黙していたくはない。


「先輩。あたしは、先輩の話が聞きたい。他の奴なんてどうでもいい。誰が何を言うとか、何が良くないとか、そんなのはクソほど興味ない。あたしは、先輩の声が聞きたい」


 先輩の目を見つめた。

 決して逃がさないように、まっすぐ。

 彼女は躊躇うように視線をさ迷わせ、それからぐっと言葉に詰まった。言いたくないらしい。もどかしさで喉から空気が漏れる。

「それとも……あたし何か、悪いことしちゃいました?」

 あたしの顔を見た先輩の表情が、一気に悲痛に歪んだ。目は逸らせないままゆっくりと首を横に振って、それから少しの間を置いた後ようやく唇を震わせる。



「ぼく、何もしてない…………っ!!」



 急いで駆け寄って、その手を取った。

 震えている。大きく目を見開いた唯春先輩が、あたしの手に縋り、やがて涙を溜め始めた。

「知らない、ぼく、ただ……1年生の時告白されて、断っただけ、だったのに、……噂が広がり出して、ぼくが誰とでも寝る淫乱だって、」

 抱き寄せて、背中をさする。

 話が見えた。きっと、あの女の彼氏が高校に入って唯春先輩と出会い、唯春先輩を好きになってしまってあの女を振ったのだ。


 この高校は、近隣にある複数の中学校からそのまま上がってきた生徒が割と多い。あたしもそのひとりだ。ここにはかつて、うちの兄貴も通っていたし。

 そしてそういった場合、部活などの関係でよく交流があって、既に人間関係が構築されていることも珍しくない。

 けど、そうではない少し離れたところからの生徒も毎年一定数は入ってくるのだ。そしてごく一部、遠方からここを選んで入ってくる生徒も。そういった生徒は、大抵の場合既に大まかにできあがった人間関係に加わっていくような形で周囲と友人関係を築く。


「……っ、でも、そんなの、ない、だってぼく、…………はじめても、まだなのに、」


 初めは軽い腹いせのつもりだったのだろう。それが思ったより上手くいって、噂が広く定着した上に反対する人間が現れなかったから調子に乗った。あたしに啖呵を切られて怯んでいたのがいい証拠だ。

 あの様子ではきっと、いじめている自覚もなかったのだろう。


「ぼく、悪いことした? 何が駄目だったの? 全部ぼくのせい? だってこんな顔も、体も、欲しいと思ったことなんて一度もない!! ……気持ち悪い、」


 その指先に、力がこもるのを感じた。

 ずっと彼女の心を傷つけ続けてきた、視線、言葉、出来事。その全てをあたしが分かってあげることは、きっとできない。

 けど、彼女が耐えてきたそれが到底許されないものであることはあたしにだって分かる。

 身体的特徴や内面的特性などの個性、特に”持って生まれたもの”は、侮辱されてはいけない、当然尊重されるべきものだ。そんなのは小学生だって理解している。


 ひとつの価値観が、必ずしも全ての人間に共通するわけではない。


 例えば、誰かにとってはいっそ憎いほどに羨ましくて素晴らしいものであっても、また誰かにとっては捨ててしまいたいほどに強いコンプレックスだったりするのだ。


「先輩は悪くないよ。何も、どこも悪くない。駄目なことなんてひとつもない」


 今あたしがどれだけ言葉を尽くしても、きっと彼女がこれまでに苦しんできた痛みに比べれば大した意味を持たないだろう。

 それでもあたしは、彼女があたしに見せてくれた、そのままの彼女が好きだ。

「でも……ぼくといたら、千秋くんまで、悪く言われちゃう、でしょ? だからぼく、」


「唯春先輩」


 名前を呼ばれた先輩が、ぴくりと震えた。

 もしかしたら、あたしが先輩と一緒にいることが前々から目をつけられていたか、タイミング的に先日一緒に出かけたところを見られていたのかもしれない。



「あいつらに何か、言われた?」



 瞳に動揺が滲む。言うべきか言わないべきか迷っている表情。目をそらさずにいると、観念した様子で彼女が告げた。

「教室で千秋くんの名前が出て……、っ、ぼくはいいけど、千秋くんが色々言われるのは許せなかったの、だから、」

「だから、あたしと会うのもうやめよう、って思った?」

 こくりと先輩が頷く。

 深く息を吐いた。先輩は色々と唐突だ。思考と行動を繋ぐ”過程”が全て抜け落ちて、結果だけがあたしに伝わってくる。


「あたしにも会いに来ましたよ。多分、その人たち」


 先輩の体が強ばった。ぎゅうとあたしの袖を掴んで、視線を下げる。

「色々言ってきたんで、突き飛ばして追い返しました。多分、最近静かじゃありません? あたしがいちばん先輩を知ってんのに、横から色々言われたって揺らぐわけないでしょ」

「ぁ…………たし、かに」

 先輩の手から力が抜ける。

 それに笑って、あたしは先輩の頭を撫でた。どうやら、謝るとかそういうことはしていないみたいだけど。

 むしろ、やり返される覚悟もないのに拳を振り上げていたなんて、とんだお笑い草だ。これがあたしでなく兄貴だったなら、容赦なく返り討ちにされていただろう。

 兄貴は顔が広い方だし、周囲の信頼も厚い優等生だから、敵に回した時点で敗北が確定してしまう。


「──もしかして先輩、あの日会いに来ようとしてくれてました? そういえば返信もちょっと遅かったような」


「……ん、」

 小さく頷かれる。

 ならきっと、あの人たちとあたしの会話も聞いていたんだろう。その後あたしが掴みかかって怒鳴ったところまでは、多分いなかったんだろうけど。

「あたしは、先輩が話してくれたことしか信じない。根も葉もない噂みたいなもんで先輩を判断したくないし、仮にそれで何かあっても跳ね返すくらいの力はあるよ」

 朝ランニングはまた始めたし、筋トレもしているから体力には自信がある。

 精神面に関しても、うちが男兄弟だし女の子らしい繊細さは持ち合わせていない。だから悪評が流れるくらい、あたしには何のダメージもないのだ。

 あたしに凄まれて怯えるようだから、あの人たちがこそこそと囁き合う以上のことをしてこれるとも思えないし。……まぁ、これが誇れたことかどうかは分からないが。


 それにあたしには、彼女を失ってしまうことの方が何よりも恐ろしい。


 例えば彼女がひとりで思いつめて、あたしの手を離れてしまったら? 最悪の事態になってしまったら? ──そんなの、考えるだけで体が震えてしまう。

 あとは最悪、兄貴がここのOBだから兄貴を連れてきて言ってもらえばいいだろう。兄貴は人望も信用もあるし、あいつがここへ在籍していたのは二年前のことなので生徒も教師陣もまだ完全には入れ替わっていないし。


「うん、」


 ようやくかすかに笑った先輩に、あたしも笑った。安堵で胸を撫で下ろし、そっと先輩から離れる。──と、




「…………もうひとつ、あるの」




 小さな小さな声がぽつりと響いて、先輩に引き止められた。

 あたしの袖は、彼女の綺麗な指先でぎゅっと掴まれたまま。けどその色白な肌は、力が入って赤くなってしまっている。

 その手にそっと自分の手を添えると、彼女が喉の奥で呼吸を震わせた。


「千秋くんに会いに行けなかった理由ね、……もうひとつ、ある」


 心臓が波打つ。予感があって、どうにも落ち着かなかった。

 初めて自分からあたしを真っ直ぐに捉えた瞳が、濡れているのが見える。やがてそこから、静かにひと筋涙が流れ落ちた。



「ぼく、……千秋くんが、好きなの」



 呼吸が、止まった。

 強く握られているみたいに胸が苦しい。言ってしまって感情が溢れたのか、先輩はくしゃりと顔を歪めて、次の瞬間決壊した。


「好きで、好きで辛いの……! 初めは本当に、少し気になっただけだったんだよ。でも一緒にいるうちにどんどん好きになって、すごく胸がどきどきして、触れてもらえるのも嬉しくて、……勘違いしそう、なの」


 先輩の指先を包んだ手に、力がこもる。

 急速に思考が回って、上手く処理できない。今先輩は何と言ったのか。それはどういう意味なのか。好きだと。誰が誰を? 先輩が、あたしを。頭の中で何度も何度も巡った。好きすぎて辛いと。勘違いしそうだと。

「ご、ごめんね。急にこんなこと言われても、困るよね。あの日好きだって言ってくれたのも友達としてだし、ぼくは女の子を好きになるけど、千秋くんは」

「先輩」

 焦ったように先輩がまくし立て始めた。

 あたしの目も見ずに言葉を並べて、返事する余地さえ与えずにどんどん突っ走っていく。呼んでもあまり聞こえていないのか、先輩はひとりで良くない方へ話を持って行ってあたしから離れようともがいた。

「とにかく、ごめんね! もう話しかけないから。迷惑かけないから。ごめん、千秋く」


「唯春、聞いて」


 顎を掴んで、無理やりこちらを向かせる。

 その瞬間ひたと話すのをやめて、彼女が怯えたように身を固くした。

「あたしはてっきり、もう気持ちがバレちゃったから避けられてるんだと思ってた」

 強ばっていた先輩の顔が一転、疑問符を浮かべたような表情に変わる。あたしはそれに少しだけ笑って、涙に濡れた彼女の頬を自分の手のひらで包んだ。



「あたしも、唯春先輩が好きだよ」



 彼女の目が大きく見開かれる。

 そうして次の瞬間、彼女は声を上げて泣き出してしまった。

「嘘。うそだよ、そんなの」

「嘘じゃねえって。何でそんな嘘吐く必要があんの。好きだよ。デートの時も言ったじゃん。先輩嫌だったのかと思って、その時は誤魔化しちゃったけど」

「っい、嫌じゃな、」

「ん、分かる分かる。勘違いしそうで怖かったんだよな。ごめん、あたしがもうちょい先輩のこと、気付いてやれればよかったな」

「違うの、ぼくの方がわるくて、」

 ぐしょぐしょになった先輩の顔を、ハンカチで拭う。されるがままになっていた先輩が唇を尖らせるから、あたしはつい顔を近付けた。

「──ン、」

 柔らかい感触。

 そうか。いつも見ていたこの形のいい唇は、こんな柔らかさをしていたらしい。目を見開いて顔を真っ赤にした彼女が愛おしくて、その目元にも口づける。


「もう泣かないでよ。先輩に泣かれたらあたし、胸が苦しくてどうにかなりそう」


 先輩の表情がまた歪むのが見えて、あたしはとうとう先輩を抱きしめた。

「あーあー、また泣く」

「違う、これは嬉しいからだから、だから、」

「分かった分かった。ほら、深呼吸して。大丈夫。大丈夫だよ、唯春先輩」

 泣きじゃくる彼女の背を撫でて、こめかみにキスする。

 先輩があたしの背中を掴んで深呼吸し、それからすんと鼻を啜ってもう一度深く呼吸した。幾分か落ち着いたらしい彼女が、あたしの肩に頭を預けて呟く。


「これが、夢じゃありませんように」


 その髪を撫でながら、笑った。

 むしろこれが夢であってたまるものか。もう随分と、充分過ぎるくらい長く待ったのだ。これ以上はもう待てない。


「夢じゃねえよ。──唯春先輩、」


 名前を呼ばれた彼女があたしと目を合わせ、それからすうっと瞼を閉じる。あたしはその上から口づけて、そのまま唇に触れた。食むように幾度もキスして、微かに赤くなっている彼女の目元を親指でなぞる。

「千秋くん、ぼくに敬語、使わないで。……その方が、いいな」

「そう? ならそうする」

「ね。唯春、って、呼んで」

「唯春」

「ふふ、……どきどき、する」

 あたしの唯春。

 もう手放さない。あたしだけのものだ。幸せそうに表情を崩した彼女の頬を撫でて、もう一度だけ口づけた。その柔く甘やかな唇が笑みをかたどって、あたしの名前を紡ぐ。


 誰もいない図書室。

 放課後の図書室は、5時くらいまで委員が当番制で常駐することになっている。そして今の時刻は、4時半。

 ──あと、もう少しだけ。

 時間が許すまで、あたしたちはそこで言葉を交わし、今までの距離を埋め合った。



 そうして、あたしと唯春は恋人になった。



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