第5話 痛み
「千秋、もうお昼だけど? 何なら今日は私たちと食べる?」
「ん゛ー……」
午前の授業が終了したことを知らせるチャイムが鳴ってしばらく経つ。
けど、モヤモヤと胸の内でとぐろを巻く嫌な感情が食欲を奪って、正直今は何を食べる気にもなれなかった。
「先輩にメッセは?」
「……何も送ってない」
先輩に、避けられている。
あの日、カフェで食事を済ませたあとふたりであたしの服を選んだ。
先輩はあれも似合うこれも似合うとはしゃいで、しきりにあたしを褒めた。正直クソ可愛かった。それはもう、言葉にできないくらい。
それから残った時間はアクセサリーショップや雑貨屋をぶらついて、少し休憩して、いい時間になったところで解散した。
それ自体は問題なかった、はずだ。先輩は良いのか悪いのか至っていつも通りだったし、あたしも距離感には気をつけていたから。
でも、
「もう何日だっけ?」
「3日」
もう3日も、先輩に会っていないのだ。
まず、先輩がお昼に来なくなった。
まぁ言葉ではっきり約束していたわけでもなかったので、初めあたしは何か用事があったんだろうと思った。けど先輩からは何も連絡がなくて、気付けばそのまま顔さえ見ずに昼休みが終わる。
委員会かと思ってクラスメイトの図書委員に聞いてみたけど、何もないと言われたので委員会があったわけでもなさそうだった。
それから、2年生のフロアや自販機、購買、空き教室、先輩とよく会っていた場所に足を向けてみるようにしても一向に姿を見なくなってしまった。
じわじわと焦りが湧いたあたしは、そこでとうとう痺れを切らしてこっそり2Dの教室を覗きに行ったのだ。けどその時は、遠くからだった上、戸口にも人が多くて中の様子はあまりよく分からなかった。
あたしが、変なことを言ったから。
「……後悔してる」
「それは残念」
あの時一瞬見せた、綺麗な綺麗な笑み。
あれは拒絶だ。分かる。彼女があたしに心を許す時は、もっと表情を崩してあどけなく笑うのだ。つまりあたしは、恐らくあの瞬間彼女の気に障った。──間違えてしまった。
もし彼女があたしから離れたら。
そんなことがあったら、あたしは一体どうしたらいいんだろう。彼女に近付くどころか、失ってしまうことになるなんて。何が正解だったのか。じゃあどうすれば良かったのだ。
考えれば考えるほどに、思考回路はショートしていった。
「1回連絡してみたら? もしかして忙しいですか、しばらく来れなさそうですかって」
「ん゛ー、」
彼女くらいの美人であれば、自分へ好意を向けられることには慣れているだろう。
だから、あたしが向けた好意の色にも多分気付いたはずだ。彼女は他人と距離を縮めることに積極的じゃなかった。きっとこれまで何度もされてきたんだろう告白だって、全て彼女にとってはストレスだったのだと察せられる。そう考えるのが一番自然だ。
「千秋、あんたそんな感じだっけ?」
呆れたようにそう言われ、あたしは机に顔を伏せて唸った。
そうだ。あたしは結構気にしいなのだ。しかもそれが先輩のことともなれば、あたしはもう自分の感情をコントロールできない。
だって、先輩に嫌われたかもと考えるだけで、こんなにも胸が苦しいのに。
「はー」
目の前で大きな大きなため息を吐いた友人が、ふいにぱっとあたしの目を見る。
「ん? ……っちょ、」
スマホを奪われた。
取り返そうとするあたしを押さえて、友人は何か文字を打ち始める。まずい。今あたしは、先輩とのトークルームを開いていたのだ。
「──はい」
「っ、」
差し出されたスマホを奪うように取り返し、中身を確かめる。
「うじうじしてないで話してきな。ため息ばっか、もう聞きあきたわ」
トークルームには、あたしから『いつもの場所で待ってます』のひと言。……やられた。
あたしの中でどんどん酸素が薄くなっていくのを感じた。痛いくらいに心臓が鳴る。強引すぎだ。もう少しくらい、覚悟を決める時間をくれたっていいじゃないか。
こいつはこういう所がある。言動がズバズバしてて、意思表示もいつもはっきりしてて。そこまではいい。ただ、こいつには躊躇するという選択肢がない。曰く、やきもきしているのが苦手なのだという。
こいつの名前は
「あ゛ー……。ありがと、真佑」
まぁ今の考えすぎるあたしには、ありがたいといえばありがたいのかもしれない。
礼を言って席を立つと、真佑は苦笑しながらあたしの背中をばしんと叩いた。
いつもは先輩とふたりでお昼を過ごしていた空き教室。
メッセージに返信は、ない。
購買のパンを齧りながら、秒針の音を聞いている。全然味がしない。呼吸が浅くなって、どうにも息苦しかった。
だって、会ったとして一体何を言えばいいんだ。不快にさせてごめんなさい? やっぱ好きです? ……そんなの、全然言える自信がない。
昼休みはもう半分終わった。普通であればもうとっくに食べ始めてるだろうから、来ないと考えるのが妥当だ。
でも、あたしは先輩を信じたい。
「あぁ、いた」
静寂で満ちていた教室。
そんな声とともにガラッと教室の扉が開かれ、突然に沈黙は破られた。
「──……」
一瞬期待してしまった自分を恥じた。
声が明らかに彼女のものではなくて、しかもひとりではない。戸口を見据えているとやがて数人の女子生徒が教室へ入ってきて、あたしの近くまで来る。
「茅岡千秋さん、よね? 合ってる?」
ひとりがそう聞いて、ニッと笑った。
あたしを探してたのか。でも、知らない顔だった。同学年で見た記憶もない。先輩だ。
「そう、ですけど……」
妙に胸がざわざわして、落ち着かない。
先輩たちは顔を見合せて笑って、それからあたしを見据えた。
「──桃沢唯春と仲いい?」
先輩のことか。
何と言うのが正解だろうか。きっとこの先に続くのは、いい話ではない。あたしが逡巡する間に、先輩は続きの言葉を発した。
「やめた方がいいよ。あの子ビッチだから」
くすくす、と嫌な笑いが先輩たちの間で湧いた。思わず顔を顰めそうになるのを、こらえながら話を聞く。
「茅岡さんは彼氏とかいないの? ならまだいいのか。でもあの子誰にでも股開くし、人の彼氏奪うから気をつけた方がいいよ」
「そうそう、この子も中学の時から付き合ってた彼氏あいつに取られたんだから。信じらんない。胸大きいからってあんな女に靡くことないじゃん! カラダだけだよ、あんな変人」
聞いたことがある話だ。
真佑も確か以前、そんなことを言っていた。ならこれは、結構有名な話なのかもしれない。あたしが唯春先輩とつるむからあたしの耳に入らなかっただけで、もしこの噂が学校中に広まっているとしたら。
「ッ、」
寒気がした。
愛想笑いを浮かべていた顔から表情が落ちる。もう繕う余裕さえなかった。腹の底でぐつぐつと怒りが煮立って、空になったパンの袋を強く握りしめる。
「あんな子と一緒にいたら、茅岡さんまで変な噂立てられるかもだし。最近来ないでしょ? このまま離れた方がいいよ」
──こいつらか。
先輩が来なくなったのは、他の誰でもない、こいつらのせいだったのだ。この自信満々の口ぶりからして、悪評が流れるようになったのもこいつらが原因だろう。
先輩は他人と距離を詰めたくないんじゃない。そうやって悪意によって、周りと距離を取らざるを得ない環境に置かれていたのだ。
「知らねえ」
喉の奥から、思ったより低い声が出た。
本当は殴り飛ばしたいくらいなのだ。今ここで耐えているあたしに感謝してほしい。
「は?」
理解できないというように間抜けな声を漏らして、その女がぽかんとあたしを見た。その表情が本当に苛立たしくて、あたしはそいつの胸ぐらを引っ掴み乱暴に引き寄せる。
「知らねえよ、そんなの! あんたがそうやってあることないこと言いふらすような陰湿な女だから、彼氏だって振ったんじゃねえか。
それに、唯春先輩はあんなに可愛いんだから好きになって当然だろ! はー、性悪すぎて吐き気がする!!
唯春先輩をいじめてる暇があんなら、自分磨きしてもう1回振り向かせるくらいしろよ! あんただってそこそこ美人だろ」
怒鳴るようにまくし立てて、そいつを力いっぱい突き飛ばす。それでもまだ収まらないむかむかをこらえて深く息を吐きながら、とりあえずふたつ目のパンの袋を開けた。
騒動になっては困る。何かあって損をするのは、手を出したあたしの方だから。
「はー……」
──全く、これだから嫌なのだ。
自分の思うままにならないだけでネチネチネチネチ、それで他人の人生を潰しうることを自覚しろ。自分の行いに責任を持て。
こうやって言い返されることを予想していなかったのか、そいつらは言葉を失って顔を見合せ、言い訳がましく何かを口走ったあとたじたじとあたしから離れて背を向けた。
「唯春先輩に手出してみろ。もう二度とそのツラ晒せなくなるくらい、ぶん殴ってやる」
どうもそのまま帰すのが惜しくて、教室を出ていく後ろ姿に叫ぶ。
あぁ、ヤンキー漫画みたいなセリフを吐いてしまった。こういうところが困る。家にある漫画のラインナップはスポーツ漫画、バトル漫画、ヤンキー漫画……父さんと兄貴の趣味だ。あたしもそれをよく読むし、面白いと思う。
そこまではいいのだ。ただ語彙が影響されて荒っぽくなるというか、ただでさえ男が多い家の育ちだから気が抜けるとあたしもこうして口調が強くなってしまう。
ただ弟はというと、割と少女漫画が好きで、少年漫画は趣味じゃないなどと言いながら恋愛ものを読んでいる。あたしも少し見せてもらうけど、この家からあんな弟が生まれたのが不思議に思えるほどだ。
──などと、考えている場合ではない。
先輩から返信がないかとスマホを確認した。時計はもうそろそろ、昼休みが終わろうかという時間を指している。
『ごめんね。用事が入ったから、やっぱりやめておくね。ごめん、茅岡さん』
「うわ……」
やっぱり一発、殴っておけばよかったかもしれない。
パンを頬張って無理やりカフェオレで流し、ゴミを握りしめて席を立つ。だいたい分かった。今あたしと唯春先輩に必要なのは、謝罪でも弁明でもなく、対話だ。
先輩の教室は、2年D組。フロアの奥の方だ。席の場所は分からないが、それは行って探せばいい。
もうそろそろ午後の授業が始まる。
空き教室を出てB組の教室へ戻ると、既に次の授業の準備を済ませた真佑があたしを迎えた。
「どうだった?」
あたしは、ゆるゆると首を横に振る。
「来なかった」
「え? でも誰かと話してなかった? 喧嘩みたいな声してたけど」
あたしが叫んだ時か。どうやら思ったより響いてしまったらしい。恥ずかしい。
「知らない先輩。唯春先輩と関わるの、やめた方がいいとか言うから」
「あら」
「嫉妬だよ。唯春先輩が可愛いからって腹いせにあることないこと言いふらして。腹立つ、彼氏に振られたのはあんたが性格悪いからだろ」
「はは、んで……やったんだ?」
真佑は楽しそうだ。他人事だと思って。あたしが胸ぐらを掴んでやったと告げると、真佑はますます楽しそうな表情になって『よくやった』とあたしの肩を叩いた。
「真佑さ、前は噂信じてなかったっけ」
「信じてたよ。だってその人のこと全然知らないもん。けど、あんたがいつもわっくわくでお菓子持ち帰ってくるからさ。こんなにマメな人、嫌な人なわけないなと思ったの」
さっぱりしている。いっそ清々しいほどだ。これからどうするつもりだと聞いてくるそいつにあたしから会いに行くと告げ、カフェオレをひと口飲んで教科書を出した。
次は英語だ。
正直、集中できる気がしない。
「苛々してんじゃん」
真佑が、あたしの顔を覗き込んで笑った。
つんつんとつついてくる鬱陶しい指を払って、深く息を吐き出す。
「するわ。今すぐ行きたいくらいなんだから」
「うじうじしてたのはもういいの?」
「いい。それでもう嫌いだって言われたら、その時は諦めるし」
「へえ」
疑わしい視線だ。
諦められるはずない。そんなことは、あたしがいちばんよく分かっているのだ。
でも先輩が嫌だと言えば、あたしは引くしかない。こうして会いに行こうとしているのも、先輩を諦めたくないあたしの我儘だから。
「ま、無理だったら慰めてあげるよ」
真佑がペンを指で回しながら言った。
励ましてくれているつもりなのか、それとも本当に興味がないのか分からない。まぁ、そういうさっぱりしたところが気に入ってつるんでいるのだ。今更である。
「さんきゅ」
一応礼を言うと、真佑は『らしくないね、千秋』とまたあたしを揶揄った。
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