第1章 出会った時の話

第1話 彼女のこと




 初めの印象は、『何か変な先輩』。


 高校に入学して一ヶ月もしないくらいで何故かあたしに絡んでくるようになって、初めは適当に相手をしていたのがだんだんと時間を共にするようになってきて、そうしたら強く惹かれるようになっていたのだ。



「1年B組、茅岡かやおか千秋ちあきさん……ね。うん、貸出期間は2週間だから忘れないで」



 課題で使う資料を借りるために初めて図書室まで来た春のある日、彼女はそのカウンターにいた。それがあたしと彼女の出会い。


 彼女は、学年がひとつ上の先輩だった。


「新入生か。学校はどう? もう慣れたかな」

「あー……そうですね、まぁ」

 人のいない、がらんとした静かな図書室。

 ひとりで当番をしているらしい先輩がふとあたしを引き止めたので曖昧に頷くと、彼女は楽しそうに笑った。

「まだまだ慣れないか。担任は?」

「えーと、江崎先生」

「そう。良い先生だよ。距離感近いでしょう? でも、悪い人じゃないんだ」


 背中を覆う、陽に透ける柔らかな髪。色白の肌にくっきりとした目鼻立ちと、形のいい艶やかな唇。そして、柔らかな曲線を描く体躯。

 彼女は紛れもなく美人で、けれどどこか芝居がかったような、気取ったような振る舞いが目につく人だった。



「ぼく、桃沢ももさわ唯春いはる。2年D組にいるから、何か困ったことがあったらいつでもおいで」



 そうして、あたしと唯春は知り合いになった。






 例えば、移動教室の時。


「あっ、茅岡さん!」


 突然廊下で呼び止められて、振り向くと満面の笑みを浮かべた彼女がいる。

「桃沢先輩」

「移動? 次どこ?」

「化学室です」

「へえ、じゃあすぐそこだ」

 初めは迷っていた校内も、少し経てば分かるようになってくる。頭の中で地図を広げ、そういえばここは2年生のフロアだったか、と思い至った。


「ん。少しだけ待ってて」


「え?」

 ふと何かを思いついた表情になった彼女が、どこかへぱたぱたと駆けていく。それを見送って、嘆息した。



 図書委員なんてやるくらいだから、おとなしい方か、もしくは知的な人なのかと思っていたのに。知れば知るほど、彼女は突飛だった。


「いた……! ごめんね、まだ間に合う?」


「まぁ、あと3分はありますし」


 息を切らして戻ってきた彼女の手には、タッパーが抱えられていて。

「茅岡さん、チョコレートは好き?」

「好きですけど……それが何か」

「良かった。あーん」

「は? っもご、」

 意図を聞く間もないまま口の中に何かを押し込まれて、つい咀嚼する。

 しっとりさっくりとした食感と濃厚な舌触り、それから深いチョコレートの風味。お菓子だ。しかも、



「うま……」



 美味しかった。

 お世辞なんかじゃなく、とても。

「ふふ、よかった。ブラウニーを作ったんだ。中々の自信作でさ。普段は人に食べてもらうことなんて中々ないけれど……茅岡さんなら、と思って」

「なんであたし」

「うーん、なんでだろうね?」

 小さなタッパーの中に並べられた、綺麗なブラウニー。手作りだというけど、売られているものにも引けを取らない見目と味だ。

 あたしは実は甘いものが好きで、こういったお菓子やスイーツをよく買って食べる。

 図書室で軽く話しただけの彼女が、どうしてこうやって絡んでくるのかは分からなかった。

 でも、なにか企んでいるなら胃袋から簡単に掴まれてしまいそうだ、なんて思ってあたしはひとりで苦笑してしまった。


「クラスの人には? あげないんですか」


 こんなに美味しいなら、あたしではなくてクラスの友人に分ければいいだろう。何気なく言ってみると、彼女は緩く首を横に振って綺麗に笑った。


「あげないよ。だから、君は特別」


 こうやってあたしには馴れ馴れしいくせに、彼女のクラスメイトとの距離感はあまり近くないようだった。見かける時も大抵一人でいるし、こうして時々交わされる会話の中にもクラスメイトの話題が出てきたことはない。

 だからきっと、彼女はクラスメイトと仲良くするとかそういうことがあまり好きではないんだろうと思っていた。


 なのにそれから、彼女はあたしを見掛けるたびに声をかけてきたりお菓子をくれたりするようになった。


 こうして移動教室で近くに来たり、空き時間ひとりでいたりすると、どこから見ていたのかふっと現れて、作りすぎたとか試作品だとか言って色々食べさせてくるのだ。

 しかもそれが、”変な先輩の気まぐれ”では到底あしらいきれないくらいに美味しい。

 本当に美味しいのだ。だからあたしは、ついつい断りきれずもらってしまう。


 どうしてあたしが気に入られたのかは、正直心当たりがないし分からなかった。


 けど、猫みたいに気高く気まぐれで、かと思えば時にはひどく懐っこい彼女に、いつしかあたしは絆されてしまうようになった。






 例えば、ある日の放課後。


 あたしはバイトまでの時間をぼんやり教室で過ごしていて、誰もいない静かな教室内でうとうとしかけていたところだった。

 遠くから聞こえる部活生の声が丁度よく子守唄のように聞こえて、そのまま机に突っ伏しかける。が、その時、


「──いた!」


 バン、と勢いよく扉が開かれ、聞いたことのある声が耳へ届いた。

 眠気が飛んで顔を上げると、そこにはビニール袋を抱えた彼女がいる。一瞬自分の目を疑って、それから目を擦りもう一度顔を上げた。



「桃沢先輩?」



 呼ばれた彼女はぱっと表情を明るくして、教室内を見回してからこちらへ駆け寄ってきた。


「あのね、美味しそうで買ってみたんだけれど……やっぱり食べきれないから、どちらかひとつ、もらってくれないかな」


 差し出されたのは、コンビニスイーツ。

 季節ごとに出る期間限定品のようで、ひとつは抹茶と桜を主役にした和テイストのパフェ、もうひとつは桜のミルクプリンだ。ふたつあたしの机に並べて、彼女は髪を耳にかけた。

「くれるんですか」

「うん」

 いまいち行動の理由が読めないものの、くれると言うならそうなのだろう。恐らくこれから少し学校に残って勉強か何かするつもりで、間食のためにコンビニへ買い出しに行ったに違いない。ビニール袋に入ったままのミルクティーとグミを見て、ひとりで納得した。

「先輩はどっちがいいんすか?」

「ううん……迷ってしまうな。どちらも美味しそう。先に選んでよ、茅岡さん」

 とん、とふたつのカップをあたしへ近付けて、先輩があたしの顔を覗き込む。


「じゃあ……こっちで」


 手に取ったのは抹茶と桜のパフェ。実はあたしも、ひそかに気になっていたのだ。

「ありがとうございます、頂きます」

「うん」

 満足そうに頷いた先輩が、屈んでいた身体を起こして帰る準備を始める。本当に不思議な人だ。あたしにスイーツだけ買い与えて、このままいなくなってしまうつもりらしい。


「ねぇ先輩、せっかく来たんだし一緒に食べましょうよ。ほら、適当に椅子持ってきて座ってください。これも気になったんすよね? 分けっこしましょ」


 あたしが声をかけると、先輩は意外そうに目を丸くして聞き返してきた。

「いいの?」

「いいですよ。てかむしろ、そうやって帰られるとなんか申し訳ないっていうか」

 ひとつ前の席から椅子を引っ張り出して後ろに向け、先輩を呼ぶ。遠慮がちに戻ってきた彼女が、目の前の椅子に浅く腰を下ろした。

「茅岡さん、時間は大丈夫? この後予定とか」

「まーバイトはあるんすけど、まだ少し時間あるんで大丈夫です。急かしたりしませんよ」

「バイトか。何してるの?」

「飲食系ですね」

 頂きます、と断って蓋を開け、スプーンを手に取る。下のムースと抹茶ゼリーの部分をすくって先輩へ差し出すと、控えめに口を開いた先輩がぱくりとスプーンを咥えた。


「美味しいです?」

「ん、美味しい」

「団子もいりますよね? はい、あー」

「あ、いや……ぁむ、」


 桜団子を先輩の口の中へ入れて、スプーンをそのまま蓋へ置く。

 何だか、この人といると気が抜ける。いつも不意打ちで予想外のことをしてくるから、もう警戒心を抱く暇もなく『まぁいいや』という気分にさせられてしまうのだ。

 だってあたしは、同級生にだってこんな砕けた対応はしたことがない。彼女はなんていうか、世話を焼きたくなるような子供っぽさがあるというか。

 ふっと現れてあたしに何かを押し付け、二言三言話したらすっと消えてしまうあたりがまさに気まぐれな子供のそれで、気付けばだんだん彼女に対しては”先輩”に払うべき敬意とか意識するべき距離感とかいうものが頭の中から取っ払われてしまうようになった。

 しかもこの先輩は容姿がすこぶるいいから、なおのこと行動が突飛に映って、なぜか放っておけないような気持ちになってきてしまう。


「美味しい」


 先輩が、ふわりと頬を緩めた。

 お気に召したようだ。噛み締めるようにパフェを味わって、それから彼女は自身の手元にあるプリンの蓋を開けた。


「はい、どうぞ」


 大きくひと匙プリンをすくって、スプーンを差し出してくる。それを礼を言って遠慮なく受け取り、口に入れた。

「あ、美味いですね。桜だ。ミルクプリンだから濃厚で滑らかな感じ」

「へぇ。ぼくも、食べてみよう」

 あたしが蓋に置いていたスプーンを手に取って、彼女がプリンを含む。

「んん、美味しい。これお家でも作れるかな? ふむ、桜の塩漬けを買って……」

 これを作るつもりらしい。スマホで材料とレシピを調べながら先輩がひとつ頷き、もうひと口プリンをすくって口に入れた。


「上手くできたら、茅岡さんも食べてね」


 当然のようにそう言ってきた先輩につい苦笑して、頷く。

「はい、まぁいいなら……」

 これだけたくさん甘いものを食べていたら、太ってしまいそうだ。今は部活もしていないし、中学生の時までやっていた朝のランニングを復活させるべきかもしれない。

「ん、うま」

 とはいえ、美味しいものに罪はないのだ。

 パフェをもぐもぐと頬張りながら、窓の外へ視線をやった。天気がいい。自分から来たくせに、先輩はどこか落ち着かなそうにそわそわしていた。それが何とも可笑しくて、わざと見ていないふりをする。

 あたしを見て、あたしの見ている先を見て、それからパフェに視線を落とし、持ったままのスプーンで空のカップの中のクリームをかき集めて舐め、思い出したようにビニール袋からペットボトルを出して口を開け少し飲み。何か言いたげに口を開いて、けれど躊躇って閉じ、もう一度口を開けてみて、やっぱりやめる。



「ふ」



 つい笑ってしまうと、先輩はぱっと視線を上げてあたしを見つめた。

 しくじった。我慢するつもりだったのに。窓の外へやっていた視線を先輩へ向けて、あたしもパフェの最後のひと口を平らげた。


「何ですか? 聞きますよ」


 そう促してみれば、先輩は唇を内側に巻き込んで観念したようにあたしの目を見た。


「最近、図書室に来てくれないなと思って」


 図書室。確かに、行っていなかった。少し前に課題で数える程度顔を出したくらい。もともと本を読む習慣はないし、図書室へ行こうという発想さえ頭になかったのだ。

「そうですね……前に行ったのも課題ででしたし。あたし実は、小説とかあんま読まない方なんですよね」

「そう……一応雑誌とか、絵本みたいなものとか、絵の多いエッセイみたいなものもあるけれど……なら、あまり興味はないのか」

 綺麗に笑っているけど、どことなく表情が暗い。困ったことがあったらおいでと言ってくれていたのに教室へ顔を出したこともなかったし、残念がらせてしまったのかもしれない。


「じゃあ、今度行きますね。おすすめ教えてください。実はちょっと、図書室で本読みとかハードル高いなって思ってたんですけど。先輩いるなら、遊びに行きます」


 この人にそんな悲しい顔をされると、途端に罪悪感が込み上げてきてしまう。

 彼女の口の端に見つけたホイップクリームをティッシュで拭って表情を伺うと、彼女は途端にかあっと顔を赤くしてひとつ頷いた。


「うん、……待ってる」


 あ、可愛いかも。

 嬉しそうな色が微かに目元へ滲んでいる。照れ隠しみたいにあたしが拭いてあげた口の端を指でなぞり、それから彼女は立ち上がってゴミをまとめ始めた。


「じゃあ、ぼく、そろそろ戻るね。課題残してるからさ」


「分かりました。先輩、ごちそうさまでした」


「こちらこそ。楽しかったよ」


 丁寧に椅子を戻し、立ち上がる。

 それから、ひらりとあたしへ手を振って、彼女が教室を出ていくのを見送った。



 ──もしかして、急に現れてコンビニスイーツを食べさせようとしてきたのは、あたしにその図書室の話を切り出す口実だったんじゃないだろうか。

 そう考えたら、何だか可笑しい。

 あたしの目には唐突に映るけど、取られる行動は実は全て彼女の中では繋がっているのだ。その間あいだがあたしに伝わるまでにすっぽ抜けてしまうから、結果彼女は突飛になってしまうのだろう。

 それにしても、どうしてあたしなのかという疑問は今だに残るが。


「っふ、」


 面白い人だ。ますます気になってしまう。

 それからあたしは、彼女が当番の時は時間があれば図書室へ顔を出して、彼女へ聞いたり適当に選んだりして手に取った本を片手にそこで時間を過ごすようになったのだった。






 例えば、とある授業中。


 そこはちょうどグラウンドが見える教室で、あたしは窓際の席にいて、窓を開け靡くカーテンに隠れながら居眠りをしている。


「──ん」


 そうして本当にたまたまやった視線の先に、よく知った立ち姿が見えた。先輩だ。

 授業は体育、種目はサッカーのようで、フィールドを走り回る彼女の姿はすぐに分かった。長い髪は後ろでひとつにくくられていて、走る度にふわふわと揺れる。

 肌を出すのがあまり好きじゃないらしい。季節は春から夏に移り、半袖や短パンで授業を受ける人もいる中、彼女だけは指定ジャージ上下のフル装備だった。

 今年は例年と比べて比較的すぐに気温が高くなり、ニュースでも平年より暑くなるだろうと報じられるくらいだから尚更だった。汗をかかないんだろうか。外での体育だし、走り回るから結構暑いと思うんだけど。


「っく」


 それにしても、ひどくどんくさい。

 体育は得意じゃないのか、少し離れたところでモタモタと走り、ボールが来ても返すのが精一杯で、途中から疲れてしまったのか走ることさえしなくなる。

 あたしは高校からはバイトのためにやらなかったけど、一応中学までは運動部だった。だから余計に彼女の動きが苦手な人のそれだと分かってしまって、そうしたらそれまで完璧に見えていた彼女の弱点が見えた気分になって、つい笑ってしまった。




「先輩、体育苦手なんですね」


 昼休み。ふたつ目のパンの袋を開けながら笑うと、向かいの席に座った彼女がはっとあたしを見てむくれた。

「苦手じゃないよ。やりたいと思えないだけ。ぼくは外で体を動かすより室内にいる方が好きなんだ。ただそれだけ」

「そうすか?」

「そうだよ。はい、この話はおしまい」

 ランチバッグからものを出して並べつつ、彼女が無理やり会話を終わらせる。

 それでもまだ言葉を継ごうとするあたしを見かねて、彼女がいつものタッパーを手に取った。蓋を開けた先に見えたのは、ひと口サイズのカラフルなゼリーだ。

 彼女がそれをひとつスプーンですくって、口の前にぐいと突きつけてくる。別に馬鹿にしたかったわけじゃないんだけど、どうやらもう黙った方がいいらしい。素直に受け取ることにして、あたしはその綺麗なゼリーをぱくりと口に含み、咀嚼した。


「ん、うま」


「かき氷のシロップを使ったんだ。中にカットフルーツを入れてね。美味しい?」

「ん、美味い」

「そう、よかった」

 ほとんど餌付けみたいにして、気付けばあたしは彼女とこうやってよく昼休みを共にするようになっていた。

 確か初めは、『お菓子をあげるからお昼おいで』などと呼ばれたことがきっかけだった気がする。それから彼女は、購買のパンを齧ってばかりのあたしに手作りのお弁当やお菓子を分けてくれるようになった。

 そうして気付けば、何もなくてもふたりで昼の時間を過ごすようになっていたのだ。


 大抵いつも、会うのはあたしの方のフロアの空き教室だ。昼休みの時間帯で待ち合わせて、一緒にご飯を食べ、解散する。

 今日は先輩が、直前まで体育が入っていた関係で少し遅くなった。だからあたしは先にいつもの場所へ来て、彼女が来るのを待ちながらサンドイッチを齧っていたわけだ。

「先輩、髪ボサボサですよ。クシとか、持ってないんすか」

「うーん……持ち歩いてはないかな」

 体育の時雑にまとめて、走り回って、その後ほどいたままなんだろうという感じに見える。

 つい気になって聞いてみると、彼女は至ってどうでも良さそうな様子で、箸を持って弁当箱の包みを開けた。

 まぁあたしだって別にマメな方ではないけど、クシなら持ち歩いている。それに、外で走り回ったりすると髪が絡んだりゴミがついたりするから、都度気にするようにしているのだ。

 何となく放っておけない気分になってしまって、あたしはポケットからクシを出し、席を立って彼女の背後に回り込んだ。

 色素の薄い彼女の髪にそっと触れてクシを通すと、かすかに肩が揺れる。


「あ、嫌です?」


「ううん……驚いただけ」


 その柔らかい髪を、少しずつ梳いた。

 引っかかって痛くないように優しく触れながら、絡んだ部分は解いていく。時折、くすぐったそうに彼女の体が跳ねた。敏感なのかもしれない。なら、急に触れたりして悪いことをしてしまった。

 しかし彼女は、一切抵抗せずただあたしに身を委ねてくれている。

「ごめんね、面倒をかけて」

「いいえ。あたしの、ただのお節介なんで」

 彼女は見ているだけだと校内でもずば抜けた美人なのに、こういうところが少し変わり者だった。手先は器用なくせに、どんくさい上こうして自分のことには疎い。

 あたしは兄弟がいて、兄貴は大学生で家を出ているけど弟は小学生だから、何だかそんな感じで小さい子の世話を焼いているような気分になってしまう。まぁ、そんなことを言ったらいじけるに決まっているので口にはしないが。

 あたしがつい笑うと、彼女はあたしを見上げて、それから緊張で強ばっていた表情をふわりと和らげた。


「何が可笑しいの」


 わざといじけたみたいに唇をとがらせて、彼女があたしへ聞いてくる。


「いーえ、何も」


 あたしはそれに笑って、また彼女の髪へクシを滑らせた。

 この綺麗な髪に触れられる人間は、今のところ校内であたしくらいではないだろうか。──と、そんなことを考えて、あたしはひとり場違いな優越感に浸った。






「千秋、最近先輩と仲いいの?」


 とある昼下がり。友人が話しかけてきて、あたしは曖昧に頷いた。

「まー、そうなんのかな。お菓子作り上手くて。食べさせてもらってる」

「へぇ」

 餌付けじゃん、という言葉に額を小突いてやって、あたしはカバンから教科書を出した。あと数分でチャイムが鳴る。日差しがあって暖かく、風も心地いい。次の授業は絶好の居眠りタイムだ。現国の教科書の上に突っ伏して、彼女のことを考える。


 今日の彼女はどこか眠そうで、お弁当を食べたあとも目を擦って欠伸をしていた。大丈夫ですかとあたしが聞くと、夜更かししちゃったんだと返ってきて、話題は午前中の座学が眠くて大変だった話になっていく。

 あたしが結構居眠りをすることを話してみると、彼女は先輩ぶって注意してきたりして、気付けば軽い調子で談笑していた。

 知り合った当初の自分が聞けば驚くだろう。”なぜかよく絡んでくる美人の先輩”と、今こんなに仲良くなっているだなんて。



「……ねぇ、何であたしが気に入られたんだと思う?」



 ふと、そんな疑問が口をついた。

「さぁ。気安いんじゃない? 千秋結構対応さっぱりしてるし、でも面倒くさそうにしながら話は割と聞いてくれるじゃん」

「そう?」

 あの人は自分のことをあまり話さない。

 見つけたら絡んできて、お昼は一緒に食べて、図書室にも時々顔を出すけど、でもその間の会話は至って普通の日常会話だから。

 あたしの彼女への印象は今のところ”風変わりな美人”といった感じで、それ以上の彼女に関する情報はあまり多くなくて、あえて言うなら何か放っておけないなという感覚があたしの中であるくらい。


「でも……あの先輩、変な噂あるよね」


 友人が思い出したように声を潜めて、唐突にそんなことを言った。

「え? 知らないけど」

「知らないの? 人の彼氏奪ったり、男と寝まくったりするって」

「ふーん」

 そんなの欠片も聞いたことがない。

 それに、普通に接していても彼女からそんな気配は微塵も感じないし、第一あたしは彼女と関わっていて何も迷惑していない。

 あたしにとって大事な情報ではないだろう。

「反応うっす」

「どうでもいいし。あたしにとっての先輩は、お菓子くれるいい人」

「胃袋掴まれてんじゃん」

 恐らく心配から言ってくれたんだろう言葉を適当に流して、あたしは先輩からもらったフロランタンを口に入れた。さくさくとした食感に、香ばしいアーモンド。


 彼女があたしに話さないことをあたしは知りたいと思わないし、彼女の口から聞かないことをそのまま事実だとは思いたくない。

 そして例えその話が事実だったんだとしても、あたしにとっての彼女は”ちょっと変わってるけどお菓子が美味しい良い先輩”だから。今のところは正直あまり気にならない。


「食べる?」


 フロランタンを差し出してみると、友人は首を横に振った。

「先輩は千秋にくれたんでしょ。千秋が大事に食べなよ」

「確かに。やっぱあげない」

「そうですか」

 先輩のスイーツは優しい味がする。

 しかもどれもなかなか手間がかかるものなはずなのに、先輩はいつも色々作ってきてあたしに食べさせてくれる。

 疲れないのかと聞いてみた時は趣味だからと笑っていたけれど、食費くらいは出すべきかと思い始めてきたところだ。

 先輩ならきっと、それも首を横に振って『いいよ』と言うんだろうけど。


「先輩、何好きかな」


「え? 本人に聞いてみなよ」

 何だか、あたしばかりもらっている気分になってきてしまった。

 だっていつもお菓子を食べさせてもらっているのに、先輩に何かしてあげた記憶があたしにはほとんどないのだ。バイトで懐にも少し余裕があるし、いつものお礼に何かプレゼントを買うのもいいかもしれない。


 次の昼にでも聞いてみよう、と心の中で決めて、あたしは最後のフロランタンを咀嚼し飲み下した。



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