両手いっぱいに百合の花束

兼定 吉行

第一章 春の嵐

第1話 伝説の桜の樹の下で

 入学式を一週間後に控えた四月一日。

 人気も無く、しんと静まり返った深夜零時。

 夜の粒子の中、青白くぼんやりと浮かんで見える、まだ春休み期間の真っ最中である紫峰(しほう)高校の校舎。

 その校庭の片隅に、新一年生として入学予定の少年、斎木一朗の姿はあった。

「……」

 ひらひらと夜風に舞う淡いピンクの花弁が頬を掠めるのを気にも留めず、彼は敷地内にある一角へと向かい、真っ直ぐと力強い足取りで進んでいく。

 そして花弁を降らせる大元である立派な枝振りの桜の樹の下で、立ち止まった。

「……」

 これがかの有名な伝説の桜の木か……。

 見事だと、綺麗だと、伝説に足りうる霊樹だと、一朗は感心し、恐れ、おののいた。

 ……たかが木に、何を気圧されてる? 

 ビビるな。

 やるんだ、俺は……! 

 新たに決意を固め、背負っていたリュックサックを下ろす。

 そして中からガチャガチャと、小型の斧やら楔やらを取り出した。

 その内の一つ、ノコギリを手にしっかりと取る。

 ……伐るんだ。

 この伝説の桜の樹を! 

 ――一朗がここへ来た目的は、伝説の桜の樹を伐ることだった。

 実はこの桜の樹の下で告白をし、結ばれたカップルは別れないと、そんないわくがある。

 もちろんあり得ないことではあるが、恋愛のシンボルとも呼べるこの樹の存在そのものが一朗には目障りだったのだ。

 なぜなら――。

 俺が告白してオーケイしてくれるような女子なんて、どうせこの世に存在しない! 

 恋に浮かれたアホどもの幸せそうな面を拝ませられるくらいなら、こんな木はいらない! 

 少しでも陽キャリア充の足を引っ張るためにも……いや、生徒の本分である勉強に身を入れるためにもこの悪しきシンボルを――伐り倒すッ!! 

 ――そう本気で考え、こうして実行に移そうと思う程に、一朗は非モテをこじらせていた。

 一朗はおもむろにノコギリの刃を樹皮へと水平にあてがい、今まさに力強くそれを引こうとしたその時だ。

「君」

「――ッ!?」

 不意に背後から掛けられた声に、肩が跳ね上がる。

 マズイ――!? 

 見付かった!? 

 なんでこんな時間に!? 

 私立でも無い公立高校に見回りの職員が雇われてるのか!? 

 宿直ってやつか!? 

 そんなのがこの高校にはあるのか!? 

 ぶわと体温が上がり、脂汗が吹き出ると同時に、腹の底の体温は冷たく失われ、体は強張り、足から一気に力が抜けた。

 なんの言い訳も思いつかず、またなんの言い逃れのしようも無い、決定的な場面。

 一朗は絶望する。

 ……終わった。

 入学取り消しかな……。

「ノコギリなんて持ってまさか……」

「す、すみません……!」

 情けない声を喉から振り絞るように出し、恐る恐る振り返った。

 そして驚く。

「えっ」

 月明かりに照らされた陶器のような肌。

 夜露を吸い寄せそうな長い睫毛。

 涼やかな目元には憂いを帯びた瞳。

 筋の通った形のよい鼻に、薄く上品な唇。

 そこに居たのは一朗と同年代と思しき――。

 美少……女? 

 いや、少年か……? 

 美しい少女にも見紛う程の、美少年だったのだ。

 そういえば落ち着いた口調ながら、まだ声変わりすらしていない子供っぽい声だったということにも今になって気付く。

 もっとも一朗は大きく混乱していたため、こうして目で見て確認するまで気付きようなど無かったのだが。

 最悪の事態は避けられそうだという淡い期待を抱きながらも、少年の目的がわからず、口ごもる。

「えっと……」

 するとその様子を見た少年が薄く笑みを口元に浮かべた。

「安心していいよ、ボクは別に君を咎めたい訳じゃないんだ」

「えっ」

 助かった……? 

 だが……。

 彼の思考がますますわからない。

 通報される訳では無いことがわかった一朗は、態度を一変させて訊ねる。

「……じゃあ、お前は何をしにこんな時間に?」

「ボクの用も同じさ」

 そう言って彼がパーカーのポケットから取り出したのは、ライターオイルとマッチ箱。

 ――こいつ!? 

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