モラトリアム人間(10)

 優奈さんから電話があったのは深夜の一時だった。僕は気乗りしない思いで電話に出ると、優奈さんは元気溌剌な声で「今からあのバーね」と一方的に言って電話を切った。僕は重たい身体に鞭を打って久々に街へと繰り出した。


 バーに入ると、優奈さんが一人でお酒を飲んで、奥にあるボトルを眺めながら暇をつぶしていた。


 僕は何も言わず横に座ってウィスキーを注文する。


「相当やつれているね」


「そう、見えますか」


「うん、かなりね」


 優奈さんは僕に煙草を差し出した。


 僕はそれを受け取って自前の百円ライターで火をつけた。


「君も一人で煙草を吸うようになったの」


「今じゃ唯一の精神安定剤ですからね」


「ウケが悪いって言ってなかったっけ」


「もうそんなこと、気にしちゃいませんよ」


 僕はそう言い返して、少し黙った。


 そして思い切って悩みを口にする。


「僕は、改めて何者でもないんだな、と」


「今の君は私のオモチャとして存在しているね」


 優奈さんは悪びれずにそう答えた。


「僕はこれまで優奈さんに委ねてきました。それは自分で決断をするのが怖かったからです。でも、僕はそうやって何者にもなれない自分がいるのも怖いことだと分かりました」


「ほう、それで?」


「僕って、何者にもなれないのでしょうか」


 僕は根本的な問いを提起した。


 優奈さんは静かにその問いを噛みしめ、飲みかけのロックグラスに目を落とした。


「その問いはね、皆が抱えている悩みなの」


 そしてこう付け足した。


「私たちは皆、マトリョーシカなのよ」


 マトリョーシカ? 言っている意味が比喩的で何もわからなかった。


「マトリョーシカ、ですか」僕は言った。


 優奈さんは頷いた。


「そう、マトリョーシカって入れ子型だという一般認識があると思うんだけど、そのたとえ話よ。アイデンティティの確立というのがあるのは高校の倫理の授業で習ったよね。あれと同じような話。幼少期の頃は何者にもなれる可能性があって皆がそれぞれ夢を持っているけれど、抱いていた夢が越えられない障壁のもとで打ち破れていく。その度に、自分をまた見直して新しい夢を持って生きていく。人生ってその繰り返しよ。他人と比較して自分の身の程を受け入れて、大人になっていくの。自分が持つ可能性が一つ一つ消えていって自分の内面性、人格が定まっていく感じね。『私はこういう人間だ』と経験的に分かっていくのよ。自分が何者にでもなれる可能性が段階的に縮小していくように。つまり、マトリョーシカみたいに最初はあらゆる可能性を持っているのに、最終的には可能性が限定的になる、ってこと」


 優奈さんは頭で思い描いているであろう図式を一つ一つ言葉に置き換えていって話した。


 僕は彼女の言っていることを必死に理解しようとしてマトリョーシカを思い浮かべたが、想像できたのは物体としてのマトリョーシカで、優奈さんのイメージにはついていけなかった。


「多くの人は大学生活というモラトリアム期間で『自分はどういう人間なのか』と頭を悩ませるの。一概には言えないけれど、大学生はマトリョーシカで言うところの最終段階の一歩手前といったところかしら」


「僕の悩みも同じ類ということですか」


「そうだね。君もまた、例外ではない」優奈さんは言った。


 僕は世間一般から逸脱しない悩みでこんなにも憂鬱になっていることに、さらに自分の弱さを感じた。


 優奈さんは「ところで」と口にした。


「さっきの問いの答えは、君自身が出さないといけない。私の答えは問いの答えになりえない」


 優奈さんはそう言いはなった。


 彼女はあらゆる問いに対して答えをくれたのに、巣立ちを強制するように僕を完全に突き放した。僕は優奈さんの言葉を咀嚼しようとしたが、この場で解を導き出すのは不可能だと悟り、灰皿に置いた煙草を手に取って口寂しさを潤すために吸った。


 そして僕はそれとは関係ない疑問を口にする。


「僕が優奈さんの完全な傀儡になれば病むことを初めから分かってたんじゃないですか」


 優奈さんは小悪魔的に微笑んだ。


「私はその人自身を尊重するけれど私自身もまた尊重しているの。君は君自身を放棄したんだから私の思い通りに動かしただけだよ。良いも悪いもあったと思うけど、君がそこに気づけたのだったら良かったんじゃない。もしかしたら私に頼らなくても自力で自分自身の価値を見つめ直す機会があったかもしれないけど」


 優奈さんの言葉に悪意を感じなかったが、彼女は本質的には僕のことを想ってくれていないのだと分かった。


 僕は「僕―優奈さん」の親密な関係性があると思っていたが、それは一方的な押しつけであり、優奈さんは僕を思考のアウトプット先としか認識していなかったのだろう。いつのまにか僕は彼女に期待を抱いてしまっていたのだ。優奈さんからみると僕と彼女は完全に分離した存在であり、それが一人ぼっちで誰もいない島に放り出されたような気がして孤独感に襲われた。





 それから僕は、優奈さんから解放された。


 いや、解放されたというより、僕がそうなるべきだと考えたのだ。


「答えは、君自身が出さないといけない」


 その答えが自分で出せる気は全くしなかった。今まで優奈さんの言葉だけを頼りに生きてきたのだから。


 いつもと変わらない日中、少し喉が渇いたので目に映ったコンビニに入り、ミネラルウォーターを買うことにした。


 昼時だからか、少しばかり行列ができていた。等間隔に間を取って皆が並んでいた。


 並んでいる妊婦の前にやんちゃそうな金髪の男が割り込んで入った。妊婦は少し困った顔をしたが、何も言わずに少し後ろに下がって間隔を空けた。


 僕はその男性に注意した。


「後ろに並んでください」


 別にその妊婦の容姿が美人だったからだとか、正義漢ぶりたかったわけではないと思う。ただ何気なく、気づいたから、ぐらいの気持ちだった。


 順番を抜かした男性が声を荒げて僕の胸倉を掴んだ。僕はそれ以上何も言わなかった。


 周りで見ていた人々が僕たちの間に入り、暴力沙汰には発展しなかった。彼は皆の白い目に圧倒されて、持っていた商品を棚へと無造作に置いて立ち去った。


「ありがとう」


 妊婦から感謝された。そして「あなたはとても勇敢な方なんですね」と褒めてくれた。


 僕はてきとうに会釈して最後尾に並んだ。


 そして僕は咀嚼する。評価されたかったわけではなかったけれど、さっきの行動で自分という人間が分かった気がした。それはイレギュラーな出来事とそれに対する僕の決断から導き出せそうだと思った。もしかしたら、優奈さんが作り上げたペルソナを演じてきたその副作用による行動だったのかもしれない。だが、今ここにいる自分の判断は、何者にも委ねていない自分自身によるものであるはずだ。僕という人間は、このようなちっぽけな事象からでも帰納的に見出していけば、いつかは自分の中でラベリングできるのだろう。


 レジで会計をすませて外に出ると、日差しが強く降り注いでいた。陽光がいつもより力強く、映えてみえた。


 僕のマトリョーシカが、歪ながらも脱皮しようとしていた。

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【短編】モラトリアム人間 お茶の間ぽんこ @gatan

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