モラトリアム人間(8)

「元気がないね」


 優奈さんはチョコレートを摘まんで口に入れる。


「そりゃ、その、フラれた直後ですし」


 バーには僕と優奈さんの二人しか客がおらず、ただ僕達の話し声としっとりとしたジャズが流れていた。


「数多くの別れを繰り返した私を見習いなさい。こんなにピンピンしているのよ」


 彼女は僕の背中を少し強く叩いた。


「僕は優奈さんみたいに強い人間じゃないんです」消沈しきった僕は安っぽい励ましなど耳に入ってこなかった。


「そういうときゃ、お酒で流すのに限るのよ! そうだ、煙草吸う?」


「吸ってみたいです」


 優奈さんはソフトを叩いて煙草を取り出した。僕は口にくわえて火をつけてもらう。


 意識して煙を肺に入れてみると、淀んだ泥水が身体を蝕んでいくような心地がした。


「そんなにいいもんじゃないですね」


「最初はそんなもんよ。どんどん美味く感じるわ」優奈さんも煙草を吸った。


「でも確かに、病んでいる自分に煙草、様になっている気がします」


「写真撮ってあげようか?」


「世間では嫌煙家が多いのでウケが悪いだろうし遠慮しときます」


「あ、私を間接的に侮辱したな!」


「そんなつもりはないです」僕はおふざけを軽く流して煙草の煙を楽しんだ。病んだ身体をさらに痛めつけるように有害物質で自傷しているわけだが、不思議と心地よく感じた。


「僕って、いったい何者なんでしょう?」


 僕はそう呟いた。


「ずいぶん哲学的な話だね。はて、君は一体何者なんだ」優奈さんは顎を触って大げさに頭を捻ってみせた。


「その、彼女にフラれた理由もそこな訳で」


「君は何がダメなのか分かっているでしょ」


「僕は、自分で決断するのが怖いんです。何か自分の意思を表明すべき場面になったとしても、僕はいつも避けてきたし、相対せざるを得ないときは優奈さんに頼ってきた。優奈さんの言う通りにすれば大抵は上手くいくし」


「そう生きてきた君は、何者でもない」優奈さんは僕の考えを見透かしたかのようにそう付け加えた。


「君はどうして決めることを恐れるの」


「自分がした決断で傷つきたくないし、ましてや自分みたいなクソ人間は結局、誰かに縋ることでしか生きていけないんだ」


「なるほど、責任範囲が自分になるのが嫌でそれよりも成功率の高い方に頼りたいってことだね」


「優奈さんは僕にとっていつも正しい道を示してくれる。だから自分の全ての決断を優奈さんに委ねたいくらいです」


 僕は情けなくそう嘆いた。


 優奈さんはしばらく何も言わずに、灰皿の吸い殻から吐き出される白煙をじっと眺めた。


 僕の言葉が行き場もなく煙に溶け込んで、二人の空間をさまよっているような気がして居心地が悪くなった。


 そして優奈さんはニッと笑った。


「じゃあ、全部、私の言う通りになる?」


 その言葉は悪魔のささやきのようで、僕に不安と安心を与えてくれた。


「是非、そうさせてください」僕は頷いた。


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