モラトリアム人間(6)
僕は蓬川さんと恋人同士になった。
その日から僕の世界は蓬川さんを中心に華々しく輝いて見えた。脳内お花畑というのはこのことだ。僕には蓬川さんという寄る辺がいて、彼女は僕を好きでいてくれる。僕の世界は今まで無味乾燥でただ優奈さんに従って生きてきたけれど、蓬川さんが僕の存在意義を見出してくれた。僕は何でも蓬川さんの為に頑張ることができた。ゼミの課題は以前の進捗が無意味であるのではないかというくらい、飛躍的な成果を上げることができたし、実際に八月のゼミ発表会で一同を唸らせるプレゼンを見せた。
僕は蓬川さんが望むことを何でも叶えた。付き合って一か月記念日となる日、かねてから蓬川さんが訪れてみたいと言っていた港区にあるホテルのレストランでディナーをすることになった。別にそのホテルに宿泊するわけでもないけれど、とにかく、彼女は24Fから一望できる夜の景色とお酒に酔いしれたいと言っていたので窓際の二人席を予約した。メニューに目を落とせば、いかに庶民の生活で安住していたかを思い知らされる程に洗練されていて、そして値段が高かった。周りの客は皆スーツ姿かブランド物を身に纏った上流階級と思わしき人々ばかりで、僕達だけがパズルの形の合わないピースのように思えた。僕達はとりあえず、一番安いコース料理を注文した。
「予約してくれてありがとう。何だか私達、セレブみたいだね」
「セレブにしては僕ら若すぎない?」
「ふふ、そうだね。でもインスタを見ていると、他の子もこういう高級そうなお店で写真撮ってたよ」
「そりゃインスタ映えしそうだ」
僕達が他愛のない話をしている間に前菜が運ばれてきた。カラフルに彩られたサーモンのカルパッチョだった。
そして僕達の料理を待っていたかのように、綺麗なピアノの演奏が店内を包みだした。ステージで音楽家が披露してくれているらしい。奏でられたその音色は、この場に相応しい緩やかな音階で紡ぎ出され、どこか荘厳で、そして幻想的であった。
「この曲、知っている。ミスティーっていうらしいよ」蓬川さんが言った。
「ミスティー。霧って意味で?」
「そう、霧。言われてみると、霧の中で当てもなく彷徨っている風景が連想されるよね」
「たしかに。もっとナイト・スペクトラムとか、そういうのだと思った」
「それは今の情景に引っ張られすぎだよ」
蓬川さんは笑った。
「ねえ、初めてヒロキくんとデートした日、覚えてる?」
「もちろんだよ」
「喫茶店でジャズが流れていたじゃない。あれを聴いてからジャズが癖になっちゃったの。前のは今とはかなり別ベクトルだけど」
「相変わらず抽象的なことが好きなんだね」
「そうかもしれないね。歌詞がないから作曲者や音楽家の真意は分からないけれど、逆に自分で解釈しちゃって良いって面白くない?」
「そうかもしれない」
「蓬川さんはこれを聴いて何を連想するの?」
「うーん。ヒロキくんみたいだな、って」
「それは僕がクールってことかい?」
「部分的にはそうかも」
「部分的にはそう」僕は呟いた。
「なんだろう。ヒロキくんって、表面的には理解できるんだよ。話しやすいとか、落ち着いているだとか。でも、それがヒロくんの全てかって言われると、違うと思うの。本当のヒロキくんはずっと向こうにいて、ヒロキくんを知ろうと前へ進んでもどんどん霧が濃くなっていく感じ。哀しいようで、心地良いみたいな。その心地良さって、もっとあなたのことを知りたいって好奇心からくるんだと思うんだよね」
「僕をずいぶん複雑に解釈してくれるんだね」
蓬川さんは「あなたもまた、人間だし」と言って、語り終えてウイスキーに一口つけて夜の静かな喧騒を見下ろした。僕は何かを言うわけでもなく、ただぼんやり食べ終わった器に目をやって、次の料理を待った。
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