モラトリアム人間(5)
僕は優奈さんの助言を咀嚼して、想いを伝えるべく、蓬川さんにアプローチしていくことにした。二人で課題に取り組んでいるときに、僕は今度の日曜日に蓬川さんが気になっているという映画を観に行かないかと誘ってみた。
蓬川さんは目を輝かせて「是非、一緒に行ってくれる人がいなかったので」と言って快諾してくれた。
その映画は大衆受けを狙った作品ではなく、俗に言うインディーズ映画と呼ばれる恋愛作品だったので、そう言った作品を扱っている下北沢のミニシアターに足を運ぶことになった。
五月の心地よい温風に当てられながら小田急改札口の前で彼女を待った。僕が出た改札口側はお洒落なカフェが並んでおり、その風景は漠然と抱いていたスランバーな下北沢のイメージを払拭してくれた。蓬川さんは待ち合わせ時間きっかりに到着し、僕の隣にひょっこりと付いた。二人してぎこちない様子で歩いていると下北沢系のチャラチャラしたカップルが前を通り過ぎて、それを見た蓬川さんは「何だか私達、初々しいカップルみたい」と口走ったので、僕の耳に熱が少しだけ帯びた。
僕達は駅近くにあるミニシアターに入り、何かを話すわけでもなく上映時間まで座席に座って静かにそのときを待った。映画が上映されると物語が緩やかな調子で抽象的に進んでいった。僕は結局その映画が何を伝えたかったのかは皆目見当がつかなかったけれど、ふと横に座る蓬川さんの横顔を見ると、物語の住人として没入しているかのように、ただ映画の虜になっていた。
映画が終わった後、どこかくつろげる場所に行くことになった。ミニシアターの館内にカフェが併設されていたので、そこで茶をしばくこともできたが、何とはなしに無視して繁華街の方に向かった。二人して余韻に浸る時間が欲しかったのかもしれない。
僕達が待ち合わせした場所とは逆側の改札口方面へと向かうと、そこは全く地区が違うかのように、退廃的で活気に満ち溢れる風景が広がっていた。古着屋は至るところに点在しているし、路上で素人アーティストが演奏を披露しているし、やんちゃそうな面をした住人達が街を闊歩しているし、僕は視界に次々と飛び込んでくる情報によって圧倒された。街全体が古着を纏っているみたいだ。
下北沢一番街に入って少しばかり歩いていると、「珈琲音楽」と書かれたレトロな看板が立て掛けられた喫茶店が目に入った。蓬川さんは立ち止まってそれを見つめていたので、僕は彼女に提案してそこに入ることになった。
出迎えてくれる店員もおらず入口でキョロキョロとしていると、厨房内で熱心に新聞を読んでいる老人がいた。その老人が店主なんだろう。しばらく見つめていると目が合ったので指で人数を伝えたら、顎でテーブル席に案内されたのでそこに座った。
店内は民族的なジャズ系統の音楽が流れていた。BGMは野蛮的なのに店はどこか落ち着いていて、変な居心地の良さを感じた。僕達はブレンドコーヒーを注文して徐に話し出した。
「蓬川さんって、こう、マニアックというか、ニッチなものが好きなんだね。映画もそうだし、それに」
このカフェだってそうだ、と言いたかったがTPOを弁えて言わなかった。しかしそれを蓬川さんは汲み取ってくれた。
「自分で言うのもなんですが、私って清楚系の感じなのにギャップがあるってことですよね」
「清楚系。確かにそうかもね」
僕は思わず笑みをこぼした。
「笑わないでくださいよ」
蓬川さんはプクッって頬を膨らませた。
「でも、そうですね。私がこういうのが好きなのも姉の影響なんです」
「蓬川さんってお姉さんがいたんだ」
「はい。姉は軽音部に入っていて、それもあってかは知らないですが、アート系が好きな人でした。姉がしつこく私に勧めるものですからそういうのに触れていくうちに、気が付けば世間一般から少し離れたものを道楽として嗜んでいたといったところです」
「へえ。じゃあこういう所とかよく行くの?」
「実はあまり。一人で行くのには度胸がないですし。だからといって、私の友達は大人しい子が多いから誰も行ってくれないし」
「その、男友達は?」僕は恐る恐る訊いた。
「私って、中高ともに女子校だったからあんまり男の人に耐性がないんですよ。サークルでも参加必須の懇親会でしか関わらないし、プライベートで遊ぶことなんてもってのほか」
「でも君は一人だった僕に声をかけてくれた」
そう言い放つと蓬川さんはポカンとしたが、少し間を空けて理解したようだった。
「そういえば、ありましたね。何だか、ヒロキくんって、話しやすいんですよね」
「話しやすい?」
「どういうわけかは分かりません。ただ、異性の私でも『この人は話しかけても大丈夫だ』と直感で分かるというか」
彼女は不思議そうに考え込んだ。
僕はそう言われて救われたような気がした。自分の他己評価なんて高が知れていると思っていたし、何も見いだせない自分に対して酷く陰鬱さを感じていたからだ。しかし、彼女の言う話しやすさとは、優奈さんに叩き込まれたその従順さが漏れ出していたのではないかなと思う。
「ありがとう。すごく嬉しいよ」
僕は素直な感情を口にした。
「それに、ゼミでヒロキくんのことをもっと知ったけれど、とても真面目で落ち着いている。ヒロキくんと二人きりだとしても身構えずにすむし、それに、楽しいです」
蓬川さんは初めの方は躊躇いなく僕を褒めたが途中から恥ずかしく感じたようで、徐々に彼女の頬は赤く染まっていった。
そして声を振り絞ってこう言った。
「だから、ヒロキくんに誘ってもらって嬉しかったです」
僕の中で彼女の言葉が反響して、騒々しいジャズ音楽など全く耳に入ってこなかった。
僕達は喫茶店を後にし、ただあてもなく下北沢の住宅街を散歩した。繁華街から一本横にずれるだけで喧騒はどこやら、閑散とした路地が続いていた。恐らくこのまま隣の駅に着けば解散するだろう。
「その、付き合ってほしい」
僕は何の前置きもなく蓬川さんに告白した。今が好機だと思ったし、自分としても感情の昂りとして追い風だったからだ。
「それは、恋愛として、ですか?」
蓬川さんは俯いてそう訊ねた。
僕は「そうだよ」と答えた。
彼女は少し間を置いて「初めての彼氏がヒロキくんで嬉しい」と言った。
僕は思わず蓬川さんを抱きしめた。彼女という輪郭が肌に染みこんできた心地がした。
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