モラトリアム人間(3)

 僕は信頼できる先輩、優奈さんに相談したいことがあると言っていつものバーで待っていた。優奈さんは仕事で二十二時頃になると言っていたので、僕はそれまでカクテルを嗜みながら読書に耽ることにした。ここは暗黙の了解としてそれぞれのプライベート空間に踏み入ってはならないというルールがあって、マスターはもちろんそこでお酒を嗜む客たちは一人で飲みに来ることはあれど、気まぐれに誰かに話しかけて関係性を築こうとする者はいなかった。僕はその空間がとても気に入っていたし、優奈さんと飲む機会がなくとも一人で訪れてただ何となく時間をつぶすのに使うことが時々あった。


 二十二時を少しばかり過ぎた頃、カランカランとドアベルが軽快な音が鳴ったので一瞥すると、そこにはオフィスカジュアルな服装な癖して長い金髪と少し派手なメイクが特徴的な女性、優奈さんがいた。


 優奈さんは僕の隣に座って反対側のスツールに荷物を置くとマスターに灰皿とバーボンを頼んだ。


「ごめんねヒロくん。仕事が少しばかり長引いちゃって」


 優奈さんはポーチから煙草を取り出してジッポーで火をつけた。


「相変わらず多忙そうですね」


 僕は本に栞を挟みカバンにしまった。


「本来は忙しくないはずなんだけどね。クレイジーな上司がなにかと難癖つけて退勤間際に仕事を押し付けてくるもんでね」


「目を付けられるようなことをしたんですか」


「心当たりは、あるかな」


 優奈さんは出されたバーボンの香りを味わってから一口つけた。


「上司から言い寄られていたのよ。私はあなたにそういう気はないし身体の関係は持つ気なんて毛頭ないって言った次の日から露骨なパワハラよ」


「それはひどい」


「そんでさっき、上司より偉い人にそいつの彼是について言いつけてやったわ。明日から私の顔色を窺う毎日になるだろうね」


「スカッとしますね」


「そう、だから今日の酒は一段と上手いわ」


 そう言って優奈さんはバーボンを飲み干して次のウィスキーを頼んだ。


「で、今日はどうしたの?」


 僕は蓬川さんのことについて話した。


 優奈さんは僕の話を途中で遮ることなく静かに聞いてくれた。


 僕が一通り話し終えると、彼女は話を区切るかのように煙草を吸った。


「要は付き合いたいけど君のしょうもない気苦労が足枷になっているわけだ」


「端的に言うと、はい」


 僕は自分の複雑な考えを無下に扱われた気がして辛くなった。


 優奈さんは煙草を灰皿に置く。


「この場合の行動指針は、リターンとリスクの比重で考えればいいんじゃないかな」


「リターンとリスク」僕は反芻した。


「告白した場合としなかった場合をそれぞれ想定してみるの」


 優奈さんは付け加えて言った。


 そして僕が理解した素振りを見せると彼女は続けて話した。


「まずリスクね。告白が失敗して憂鬱になるか、告白しなくて憂鬱になるか」


「どちらも嫌です」


「そりゃそうだよね。どちらも自己嫌悪に陥るのだから」


 優奈さんは灰皿に置いた煙草を再び吸って宙へと吐きだす。


「じゃあ次はリターンの観点で。成功した幸福と告白しなかった幸福」


「そりゃ前者の方が大きいです」


「君はそう判断するのであれば、答えは前者になるね」


 僕は彼女の論理展開を咀嚼して疑問点を口にする。


「ただ、リターンとリスクを総合したら、それぞれの度合いが違うし一概には結論を出せないんじゃないですか」


「もちろん度合が違うだろうね。たとえば好機を掴めずに失敗した場合はこれ以上になく絶望しちゃうかも」


「そういう可能性だってあります」


「ただ、今の君はその感情を想定できるのかい?」


「それは…分かりません」


 僕は彼女の言葉に押し黙ってしまった。


「過去の事例があればそれを参考に推し量ることはできるかもしれない。ただ君の場合は私が知っている限りそんな経験がない。だったら全ては同一に見ても良いんじゃないかしら?」


 優奈さんは優しい口調だけど僕を突きさす言葉を投げかけた。


 そして彼女はいつもの言葉を付け足す。


「もちろん、君に当てはめて考えただけで、君の中で咀嚼してほしいのだけれど」


 僕はそれに反論するわけでもなく、ただ少し笑ってみせて残りのカクテルを飲み干した。


「どちらにせよ告白した方が君にとっては良い経験になると思うな。そうすれば、私が楽しめるからさ」


 優奈さんはそう笑って「アードベッグのロック。ダブルで」とマスターに注文した。


 僕も彼女と同じものを注文した。



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