WEEKEND
@mikantopenguin
第一話
いつも通りの通学路をいつも通りのメンツで帰っていたあの日、俺は人生で初めての一目惚れをした。
その日は中間テストの最中だったこともあり、まだ太陽は高い位置にあった。苦手な化学や数学は今日いろいろな意味で終わったので、明日は社会と国語だけ。社会は少し勉強する必要があるかもしれないが、国語の方は漢字をささっと見て終わり、というかそれすらもしないでダラダラとyoutubeを見るような気がする。
初夏の昼下がりは、アスファルトと太陽でホットサンドにされた気分になる。
上下両方向からジリジリと焼かれ、早く冷房の効いた室内で冷凍庫のクーリッシュを食べたい。
そんなことを考えつつダラダラと歩いていると、副部長の木崎(きさき)が口を開いた。
「あちぃ。汗ヤバすぎる。」
そう言われて木崎の方を見ると、確かに顔中から汗が流れ落ちている。そう言えばこいつ部活中も異様に汗かいてるなぁと思ったら、名指しで呼ばれた。
「ゆうや、お前、シーブリーズねぇの?」
「今日部活ないから持ってないわ」
今日はそもそもいつもと鞄が違うので、シーブリーズなんて入れてるわけがない。
「使えねぇな」
汗だくのままちょけた様子で吐き捨てられたが、この偉そうな態度はいつも通りだ。
「うるせぇクズ。自分で持ってきやがれバカ」
「クズでバカとか本当のこと言ってやんなよ」
と、応戦してきたのは幼なじみの本谷(もとや)だ。
「お前ら、部活始まったら覚えてろよ〜。副部長権限でランメニュー増やしてやる」
「そんな権限ねぇじゃん、副部長様」
「そもそも何でお前が副部長なんだよ、クズでバカのくせに」
軽口をワイワイ言いながらも、頭の中は家に着いたら何をするかでいっぱいだった。
次の交差点が三人の分かれ道で、そこから俺と本谷はすぐのところに家があるが、木崎の家はまだずっと先なので確かにシーブリーズくらい欲しくなるかもしれない。
方向としては俺が右、本谷が左、木崎はまっすぐだ。
「じゃな、お前漢字くらいやれよ」
と、バカいじりを続けるが先ほど「家が遠くてちょっと可哀想」と思った気持ちが乗ってしまったのか、自分が思ったよりも優しい響きになった。
「うるせえ、おかんか」
すかさずツッコミを入れられた。
「赤点取っても課題助けねぇからな」
「わーってるよ。じゃな」
「じゃな」
木崎と本谷に雑に手を上げて別れ、早く家に着きたい気持ちが強くなる。友人たちが見えなくなるくらいまで歩いたら、勝手に足が早歩きのペースになった。そうして早歩きをしていると風が頬を撫でるのが心地よくて、気がつけば途中から走り出していた。ほとんど何も入っていないリュックが走るのに合わせてガサガサと揺れる。
走っているといつもよりすごく近くになるもので、後二つ曲がり角を曲がったら、すぐに家に着く。
一つ目の曲がり角をスピードをなるべく保ったまま曲がったところで、白いワンピースを着た同い年くらいの女の子とぶつかりそうになった。
「あ!すんません」
咄嗟に口から滑りだす謝罪と一緒に急ブレーキをかけると、鼻腔に甘ったるい匂いが入り込んでくる。一瞬だけ目が合った。黒目がちな瞳とは対照的に肌が白く、髪も栗色で柔らかそうなふわふわのロングヘア。ぶつかりそうになりながらも触れるか触れないかくらいの距離感で二人はすれ違い、お互いにちょっとだけ振り返る。
その子は照れたように斜め下を見たままペコっと頭を下げて、そそくさと歩き出していた。歩くたびにふわふわと揺れる髪の毛が、さっきの真っ黒な瞳との対比を想起させて心臓の辺りをくすぐる。
白いワンピースに足元は白いスニーカーとパステルオレンジのレースっぽい靴下を合わせている。年齢は同じくらいだろうけど、この辺で見たことない。
急に自分が走っていたことが恥ずかしくなったが、走っている理由はあの子にはわからないはず、大丈夫だ。ただアイスが食べたくて走っているわけではなくて、もしかしたら知人の誰かの危機に駆けつけるところとか、何かの提出書類を間に合わせなきゃいけないとか、そういうちゃんとした理由だったと思われたかもしれないし。
ドギマギとしながらも、ちょっとだけその後ろ姿を見ていると、ちょうどその時彼女が何かキラキラ光るものを落とすのが見えた。
”?”
逡巡しつつ、ちょっと拾いに行こうか迷う自分がいる。後ろ姿を見ていたことがバレそうだからやめようかなと思ったその時。
ひゅっと風が吹いて、背中に張り付いていたワイシャツが一瞬涼しくなる。それがどう自分に影響を与えたかわからないけど、その風に背中を押されるままに俺はキラキラを拾いに行っていた。10メートルくらい小走りで走って拾ってみると、それはオレンジの花の模様がついた髪飾りだった。彼女はさらに5メートルくらい先を歩いてるので、ちょっと大きな声で呼びかけた。
「あの!これ、落としました」
少々呼吸を整えながら駆け寄ると、彼女はフワッとスカートを膨らませながら驚いた様子で振り返った。
「え・・・あ!」
パッと両手で後ろでハーフアップに結んでいた髪の結び目を確認する。
「ほんとだ、ありがとうございます!」
そう言って笑った顔が子犬みたいに可愛い。
ウルウルとしたあの黒目がちな瞳が、こちらを見てへにゃっとしている。
その笑顔とさっきの甘ったるい香りが混ざり合ってクラクラとする。不器用にそれを女の人に渡すと、再度深くお辞儀をしたその人は、大切そうに髪飾りを握りしめ、会釈をして行ってしまった。
髪飾りを渡した時の手が小さくて、手首も指も全て細くて折れそうで、手が一瞬だけ触れたことが頭を掠めてむず痒い。
その後も少しだけ、ふわふわと揺れるように歩く彼女の後ろ姿をこっそり見つめて、頭の中からアイスのことなどすっかり無くなったまましばらく太陽に焦がされていたのだった。
でも、たったそれだけのことだ。中学生だったあの頃から5年たっても彼女をこの辺りで見かけたこともないし、もちろん相手の学校や、年齢や、名前も何もわからない。ただ、秋になるとあの時の懐かしい匂いが漂ってくることがある。
「金木犀の匂い」
そう教えてくれたのは、その当時の同級生だったみさという女の子だった。多分俺のことをちょっと好きだったんだと思う。向こうから誘われて、サッカー部の部活の帰りに何度か一緒に帰ったことがある。友人たちに冷やかされながらも、途中から家の方向の違うみさを送って帰る。
みさは、バスケ部で部長をしているショートカットの活発な子だった。中性的な顔立ちに、溌剌とした雰囲気と、誰にでも対等に接する性格のいい子という印象を持っていた。同じ部活の男子の中にもみさのことを好きなやつは何人かいる、いわゆるカースト上位の女の子というやつで、めんどくさいから嫌われたくないという下心もあった。
夏が終わったと確信が持てるほど涼しい秋風の吹く日だった。
「この匂い好きなの?」
普段自分から話しかけることのない俺がふと「この匂いなに?」なんて聞いたから、気になったんだろう。今更だけど、この匂いを教えてくれたのがみさであることに何となく罪悪感を覚える。
「まぁ、なんかいい匂いだなって」
「だよね、私もこの匂い好き」
「ねぇ。ゆうや君ってさ休みの日は何してるの?」
「ん〜、ゲームとか。Youtube見たりとか。特に何もしてないよ」
「え、じゃあさ〜・・・・・」
この後も、質問されるどうでもいい事項に答えながらダラダラと長い長い帰り道を二人で歩いた。何を聞かれたかは正直全然覚えていない。
ただ、「金木犀」それがあの時の少女の匂いだということだけが頭に残った。
結局、みさとはどうともならなかった。多分、俺はすごく冷たかったと思う。というよりは自分から何かを話しかけたのはこの時だけだったと思う。
どうしてたったあれだけの瞬間で、こんなにも記憶に残っているのだろう。
ふわふわとした長めの栗毛と、柔らかくて弾むような声と話し方、白いワンピースにあの髪飾り、何よりもあの甘ったるい匂いのことを。
中学2年生の時に会ってから、高校三年生になるまで、秋になるたびに金木犀の匂いを嗅いでは、あの日のあの瞬間のことを思い出していた。その期間、俺には何人か彼女はできたし、ちゃんと好きにもなっていた。でも好きな人がいても、ふとした瞬間に金木犀の匂いで記憶がフラッシュバックする。
あの時に振り返った彼女が、子犬のような笑顔が、脳裏に焼き付いてスローモーションのように流れる。
高校3年生になった今でも、どこかでまだ彼女を探しているのだろうか。
「金木犀ってどんな花だっけ」
受験シーズンいよいよ本番に差し掛かるという時期、推薦で大学がほぼ決まった俺は、突然思い至って、そのまま最寄駅の花屋をなんとなく眺めてみる。
”金木犀・・・ないな”
そもそも金木犀って匂いだけするけど、姿はなかなか目にすることがない。匂いが印象深くてなかなか会うことができないところも記憶の中にいるあの子にそっくりかもしれない。
「何かお探しですか?」
買うつもりはないからちょっと離れた場所から探してたのに、店員さんに声をかけられてしまった。
「あ、いや。なんでもないっす」
気まずくて逃げるようにプイッと横を向いて行こうとした時、ちょっとだけその店員さんの顔が目の端に写って、2歩くらい歩き出したのに振り返る。店員さんの栗色の髪がふわりと揺れて小さな肩に見覚えがあるような気がしてならなかった。店内に戻ってしまうその女性の背中に、あの時のように声をかけた。
「あの!」
「はい?」
花屋の女性が振り返る。今度は白いワンピースじゃなくて、エプロン姿だし、ハーフアップに結んだ髪じゃなくてふたつに括ってあるけど、あの日の記憶にある彼女がそこにいた。黒目がちな瞳が、まっすぐにこちらを見てキラキラと輝いている。
あまりに驚いて、ちょっと言葉に詰まってしまったが何とか答えることができた。
「・・・あ、金木犀ってありますか?」
ニコッと笑ったやっぱり子犬を連想させる笑顔に完全に思考が追いつかない。
二度目に出会ったその子はあの日と同じように、花の香りをまとっていた。
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