第7話 ヴァルガリアスの魔力

 なんとも意地悪く、兇悪な表情を見せたヴァルガリアスを前に、エスティアは血の気が引く思いを味わっていた。


「ヴァルガリアス様……!」


 名を呼んでみるが、男はエスティアには構わず、魔法の鎖から解き放たれて自由になった我が身をたしかめている。自らの手を見下ろすと、握ったり開いたりしつつ指先に魔力を集めてみて、にぃ、と、笑った。


「ああ、たしかに動けるし、力も使えるようだ……ははっ、見たか、クソ女め」


 建国の聖乙女クリスタをののしって笑ったヴァルガリアスの紅玉の眸の奥に、ちか、と、刹那、ひどくくらい光が宿ったのをエスティアは見た。


 その後、いままで笑っていたのが一転して、いかにも憎らしそうにぎりぎりと歯を喰い締める。


「あの女……俺をこんな目に遭わせやがって。しかも自分は、もうとっくにくたばってんだろうな。ちくしょうめが!」


 鼻頭に皺を寄せ、聖乙女に対して口汚なく文句を言う。


「っ、あの……!」


 それを聴きかねたというわけではないけれども、エスティアは意を決して、再び男に声をかけた。


「あぁ?」


 男はいかにも面倒くさそうに、その紅玉の眸をエスティアに向けた。凄むような顔で見られ、一瞬、びく、と、ひるみそうになりながらも、エスティアは必死にこらえる。気を取り直して、森閑の泉のような深いフォレストグリーンの眸を、改めて真っ直ぐに相手に向けた。


「おっしゃるとおりに、封呪は解きました。ですから……恐ろしい魔物から、どうかわたしたちを、フィニス村を、お助けください」


「ああ、そういえば、そんな話だったなぁ……けど、どうするかな」


 ヴァルガリアスは、いかにも意地悪げに、片頬を歪めてみせる。


「この国の民は、俺をこんなところに封じ籠めやがった女の建てた国の人間だろ? 復讐の対象になりこそすれ、助けてやる義理なんぞないような気がしてきた」


 くつくつくつ、と、低く喉を鳴らす男を前に、そんな、と、エスティアは息を呑んだ。


「……約束が、ちがいます」


 真っ直ぐに相手を見据えたままで、そう責めてみる。が、男ははぐらかしでもするかのように、くすん、と、肩をすくめるばかりだった。


「俺は、お前らの言うところの、魔王なんだ。信じるほうが莫迦ばかなのさ。――ちがうか?」


 はは、と、あざけるように笑われて、エスティアはわずかにうつむいた。


 言われてみればその通りなのかもしれない。


 事実、エスティア自身だって、自問自答していたではないか。他に助かるための選択肢がないとはいえ、魔王などというものを解き放ってしまっていいのだろか、と――……それでも、そのうえで、相手の言葉を信じたのは、自分自身の選択で、判断だ。


 こんな展開だって、まるで予想しなかったわけではない。莫迦だとあざわらわれれば、そうなのだろう。


 きゅ、と、くちびるを引き結ぶ。


 頭ではわかっていても心は別物で、だから、瞼の裏が、じん、と、熱くなっていた。


 その刹那だった。それまで余裕の表情でこちらをからかうように見ていたヴァルガリアスが、ぎょっとした顔をした。


「っ、な、泣くとか、お前、卑怯だぞ……!」


 急に狼狽うろたえつつ、男は言う。


「泣いて、いません」


 エスティアは意地を張るように強い声で答えた。


「嘘つけ! 目が潤んでるだろうが! 眸の色が深くなって……」


 おろおろと言い募る相手を、エスティアは、き、と、フォレストグリーンの眸で睨んだ。


「……わたしが泣いたからといって、何だというのですかっ!? 魔王ともあろう御方が、気にすることではないでしょう?」


「っ、俺が泣かしたとか、後味が悪いだろうがっ!」


「あなたのせいなんかじゃありません! あなたのおっしゃるとおり、あなたの言葉をそのまま信じて、初めての口づけを捧げたわたしが……あなたのいうところの莫迦、とんだ愚か者だったというだけのことなのでしょう。――はじめて、だったのに……生涯、誰にも、捧げるつもりなんかなかったのに……」


「う……いや、その……」


「いいんです、わたしは莫迦でも。だって、誰かを疑うことに、きりなんかないもの。際限なく疑ってかかるなんてさびしいことをするくらいなら、信じて莫迦を見るほうが、わたしにとってはましなのです。――ええ、ええ、莫迦で悪かったですね……っ!」


 そう言ったときだった。泣くつもりなんかなかったのに、感情の高まりとともに、ぽろ、と、まなじりからはついに涙がこぼれ落ちてしまっていた。


 すると相手は、ますますぎょっとした表情をする。


「っ、だから、泣くなって! ……ああ、もう! わかった、わかったよっ。やりゃあいいんだろうが、やりゃあ!」


 ちくしょうめ、と、毒づきながら、相手は自棄やけっぱちのように口にする。


 エスティアは相手の言葉に、きょとん、と、目を瞬いた。


(この人、なに……いい魔王なの?)


 悪ぶった態度をとるくせに、たかだか人間の小娘が、ただただすこし涙を見せたというだけで、ほだされてくれるのか。すくなくとも、とんだお人好しなのではないだろうか。


「まあ……封呪を解いて、この俺を解放した功には、いちおうむくいてやるべきだよな」


 ぶつぶつと言い訳のように言った男は、逞しい腕をエスティアのほうへと伸ばしてきた。そして、こちらが戸惑う間もあればこそ、有無を言わさず強引にエスティアの腰のあたりを抱くように引き寄せる。


「え……?」


 エスティアが声をあげたときには、こちらの身体を抱え込むんだ彼は、すらりとした長い足を窓にかけていた。かと思うと、そのまま、欠片かけらほどの躊躇ためらいいもなく、そこから身を乗り出し、虚空くうへと飛び出している。


(えぇ……!?)


 塔の最上階の窓から中空へと身を踊らせたヴァルガリアスの行動に驚き、エスティアは思わずぎゅっと目を瞑って、男の身体にしがみついた。


 風を切る音がする。


 身体が感じているのは、慣れない墜落の感覚だ。


 けれどもそれはわずかの間のことで、次には急に、虚空くうに舞う羽根みたいにすべての重みが消えてしまい、ふわりと身体が浮いていた――……比喩たとえなどではなく、ほんとうに、エスティアは男に抱えられたままで空中に浮かんでいたのだ。


 空には冴え冴えと月が輝いている。林は黒い夜闇の塊のように静かだ。


 自分たちが留まっているのは、ちょうど二階建ての家の屋根くらいの高さだった。


 足元の地上では、黒い獅子のごとき魔物たちが放った禍禍まがまがしいほのおが燃え立っている。塔の前に広がる、可憐な野の花の咲くうつくしい草原くさはらが跡形もなく焼かれているのが、あらためて、見て取れた。


(ひどい……)


 エスティアは眉をひそめた。


 魔獣たちが、空に浮かぶエスティアとヴァルガリアスに虚ろな目を向け、それから体勢を警戒の形に低めると、ぐぅるる、と、うなる。村へと続く林へ向かおうとしていた群れもまた、男の放つ気配に気がついたのか、足を止め、振り返った。闇色の火焔のようなたてがみも、背の黒い体毛も、威嚇のためか、それとも警戒からなのか、ざわざわと逆立っている。


 一斉に魔の物の視線を浴びて、エスティアの背筋は、ぞ、と、冷たく凍る。


 上目遣いに、そろ、と、自分を抱える男の顔をうかがい見ると、けれどもエスティアのおびえとは対照的に、ヴァルガリアスはいかにも余裕の表情で笑んでいた。


「はっ、小物どもめ……よりによってこの俺の居る塔を襲うとはな。身の程を知るがいい」


 低く呟くと、獣たちに向かって手をかざす。男の節ばった長い指の先に、急激に、辺りの力が集中してくるのがわかった。


 ヴァルガリアスの指先に集まる魔力は、エスティアの目には、繊細な糸のように見えている。闇と光とがり合わさったように、時に鈍く、時に鮮烈に輝きながら、それは男のてのひらの中央に集まり、こごっていった。


 やがて力の糸ははげしくうずを巻き出した。そう思ううちに、きゅぅう、と、収斂しゅうれんし、やがてある程度の大きさを持つ球体を形成する。


 その刹那、男が、にぃ、と、笑った。


く、消え失せろ」


 囁くような声で、まるで宣告するように彼が言ったと思った刹那だった。目にも留まらぬ速さで、ヴァルガリアスの手から球体が解き放たれる。一直線に魔物たちのほうへと飛んだそれは、相手に避ける間も与えず、その場で急激に膨張しはじめた。


 爆音は、いっそ、無音に似ていると思う。


 エスティアが、いっさいの音が空間から消失したかのように錯覚したときだった。目の前で、魔力の塊が一気に膨れ上がって炸裂した。


 ちかちか、と、くらむほどに明るい闇が輝いた。


 その言い方がひどく矛盾しているのは、エスティア自身にもわかっている。けれども、いま目の当たりにした光景は、そうとしか表現のしようがないものだった。


 あまりにも重たすぎる闇が、いっそ、まばゆい光に見えたのだ、と、そう思った。けれどもあるいは、それは耀あかるすぎるがゆえにうらはらの闇にも似た、光だったのかもしれない。


 爆発に似た瞬間の後には、限りない静けさだけがわだかまった。世界の終りであり、世界のはじまりのような、おそろしいほどの静謐せいひつだ。


 そしてそこに、魔物の姿はもはや一体も見えない。


 それどころか、そこに在ったはずの草も、木も、まるで最初から何もなかったかのように、すべて跡形もなく消し飛んでいた。


 後にはただ光の粒のような、あわのようなものが、螺旋をえがくように立ち上るばかりだ。それもやがて虚空に吸い込まれるようにして消えていった。


(たすかった、の……?)


 エスティアは息を呑むばかりで言葉もない。そろ、と、再びヴァルガリアスの顔を見ると、彼は何でもないような、むしろどこか詰まらなさそうな表情をしていた。


 宙に浮かんでいた身体が、ゆっくりと降下する。それにつれて、まるでヴァルガリアスの存在をけでもするかのように、それまで燃え立っていたほむらが割れた。


 男が地に足を付ける頃には、しん、と、黒い火焔のすべてはもはや消え失せている。


「あ、りがとう、ございます」


 大地に降り立つと、ようやくヴァルガリアスは、それまで抱えていたエスティアを下ろしてくれた。エスティアは改めて男を見上げ、戸惑いながらも、礼を言う。


「……べつに」


 相手はなぜかぶっきらぼうに答えた。


 そのとき、こちらを呼ぶ声が聴こえてきた。


「――エスティア……!」


 戸惑うような呼び声は塔のほうからだ。見ると、塔の扉が開いて、中へ避難していた人々がそこに姿を見せている。


 エスティアはその中に村の自警団長のダニエルの姿を目に留めると、ヴァルガリアスのもとを離れて、彼らのほうへと駆け寄った。


「みなさん……大丈夫でしたか?」


 騎士や自警団の面々をぐるりと見渡す。


「エスティアこそ、大丈夫なのか?」


 こちらを気遣ってくれたのはダニエルだった。


「はい、大丈夫です」


「そうか……よかった」


 ダニエルはほっと安堵の息を漏らすと、それから、ちら、と、すこし離れたところにたたずむヴァルガリアスをうかがい見た。


「……それにしても、これはいったい、どういうことなんだ……? 彼は……」


 ダニエルだけではない。騎士たちも、他の自警団の男たちも、みな一様に驚愕の表情をしている。否、驚きだけではなくて、どこか恐れるような、怯えるような眼差しで、塔の前に立つ見慣れぬ黒尽くろづくめの男へと視線を注いでいた。


「あの方が、助けてくださいました」


 エスティアは言った。


「それじゃあ……カエルムの塔の伝説は、真実だったということか」


 ダニエルが目をみはる。けれどもエスティアは、その言葉に頷いたものかどうか、すこしの間、迷った。


 ヴァルガリアスが強大な力を有する存在であることは、この場の皆が、まさにいま自らの目で確かめたところだ。そういう意味では、男を、塔の上の〈力ある御方〉と呼んでも、あながち間違いではないはずだった。


 けれども、フィニス村で聴かされる塔についての言い伝えでは、塔の上にいるのは精霊王の眷属だということになっている。


(彼は……聖乙女によって塔に封じられていた、魔王なのかもしれないわ)


 本人がたしかにそう言ったわけではなかったが、彼が塔の最上階で、魔法で出来た白銀の鎖によって封じられていたことは確かだ。そのことを、エスティアだけは知っていた。


 たとえ紛れもなく〈力ある御方〉であったとしても、それは、自分たちが言い伝えから思い描いていた相手とは、まるでちがう存在だ。


 いま目の前に立つのは、艶やかな闇色の髪、くらく輝く紅玉の眸を持つ、どこか妖しげな雰囲気を纏った男だった。エスティアが塔の上でヴァルガリアスを見たときにそうだったように、一見して、彼は精霊王の眷属だとは思われないなりと気配である。


 だらこそ、この場にいる人々の誰もが、どこか疑わしげな眼差しで男のことを遠巻きに見ているばかりなのだろう。


(どう、しよう……)


 男が自分たちの危機を救ってくれたのが事実だとしても、彼が魔王と呼ばれる存在ものかもしれないと知れば、人々はどんな反応をするだろうか。エスティアの頭に浮かぶのは、決して、穏やかな良い想像ではありえなかった。


 エスティアが言葉を探しあぐんでいる間にも、すでに皆は、男への疑念と警戒とを膨らませ始めている。その正体を、怪しみ始めている。


 それを感じ取るのだろうか、男は、にぃ、と、どこか挑発するかのように妖しげに笑んだ。


「ははっ……人間ども、俺が怖いか? ――懐かしい反応だな」


 地を這うような低い声で、あざけってみせる。


「なんならお前たちにも、痛い目を見せてやろうか。ん?」


 兇悪な表情で一歩を踏み出した男に、エスティア以外の誰もが、じり、と、後ずさった。


「――魔王」


 その言葉が聴こえたとき、エスティアは一瞬、騎士か自警団の誰かが、ヴァルガリアスをそう呼んだのだと思った。


 けれども、どうやらそうではない。その声は、この場ではなく、すこし離れた林縁から響いてきたもののようだった。


 エスティアが声のしたほうを見ると、そこには、黎明色と称される深い紺紫のローブをまとった妙齢の女が立っている。一見して、宮廷魔道士のように見えた。


「……魔、王……だって……?」


 今度こそ、その声はエスティアの傍にいる、ゴルドウォールの騎士のひとりがあげたものだった。


 フィニス村へと続く林のふちに姿を見せた女の声が投げかけた危殆おそれは、凪の泉に投じられた石がつくる波紋のように、じわ、と、幾重にも重なりながら、騎士や自警団の男たちの間に広がる。場は、ざわざわ、と、妙に浮足立ったような気配に包まれた。


 そして、広がったその波紋に、女魔道士は新たな一石を投じる。


「魔王よ……貴様、聖乙女クリスタの封呪を破るとは……この世にどんな災厄をもたらすつもりだ!?」


 そう責めるような言葉とともに彼女は、手にしたステッキの頭についた宝珠ほうじゅを、ヴァルガリアスのほうへと真っ直ぐに差し向けた。


 魔道士の後ろに、先日出逢ったレオンが纏っていたのと同じ衣装を身に付けた、すなわち王宮騎士団が姿を見せた。騎士たちは林を抜けるなり、魔道士の女に倣うように、塔の前に悠然とたたずむヴァルガリアスに剣先を定める。


「俺がクソ女の封呪を破って、何が悪いよ。文句あんのか? あ?」 


 女魔道士と王宮騎士たちとから真っ直ぐに敵意を向けられながら、それでもヴァルガリアスは平然としていた。否、むしろ、口にしたのは相手を挑発するかのような言葉だ。


 くらく輝く紅玉の眸で彼らのほうを見返した男は、にや、と、くちびるを歪めるようにして笑った。

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