第6話 封呪解除のために

「わ、たしは……巫女みこです」


 男に口づけを要求されたエスティアは、頬に血が上るのを感じながら、掠れた声でかろうじてそう言った。


 教会に属し、精霊王に仕える者は、身を清純に保たなければならないとされている。巫女であるエスティアはもちろん、いままでに、誰かと口づけなど交わしたことがなかった。


 精霊王の彫像にぬかづき、その爪先にくちびるを寄せる。あるいは、彼の眷属、精霊の宿る自然物に対し、感謝の祈りを込めて口付ける。


 巫女であるエスティアが行う接吻は、生涯、それだけだ。


 それしか許されない身であるのに、そんなエスティアに男はいま、禁を破るその行為を捧げるように言っている。エスティアは、きゅ、と、柳眉を寄せた。


「ははっ、巫女ねぇ。うん、たしかに、それっぽい……あのクソ女とおんなじ匂いがするもんな。――が、それがどうした?」


 男は無情にも言い放ち、また、乾いた笑いをもらした。


「口づけぐらい寄越してみろよ……我が力を欲するなら」


 こちらの反応を確かめてひとしきり面白がった後に、そう、改めて繰り返す。エスティアを見る紅玉の眼差まなざしは、できるか、と、エスティアをこころみるようでもあり、また、できないのか、と、こちらをあざけるようでもあった。


「さあ、どうした? 村を救いたいのではないのか、清純なる巫女みこの娘よ。――それなのに、お前は、口づけひとつが惜しいのか?」


 またあざわらうように言われて、エスティアは思わず、き、と、強い眼差しで相手を見返した。


 だが、それすらも男を楽しませるだけだったようだ。相手はにやにやと笑いながら、エスティアを挑発するかのように、明らかな呆れを籠めて、肩を竦めた。


「まあ、無理ならいいさ。俺は別にこれまで通り、この塔の上に囚われ続けるというだけのことだしな。困りはしない。――でも、いいのか?」


 紅い眸を細め、男はこちらをうかがい見る。


「かわいそうになあ。下の人間どもも、それから村のやつらも、このままじゃあ、遠からず魔物の餌食だろう。――ああ、でも、そうか。お前だけは、ここにいれば、助かるものな。自分は助かるというのに、わざわざ他人のためにまで、大事な巫女の清純をけがす必要もないよなぁ?」


 くつくつ、と、喉を鳴らしながら男は言う。その厭味いやみったらしい言い方に、エスティアはますます相手をきつく睨み据えた。


 けれども向こうは、ちっともこたえたふうを見せない。


「そう、睨むなよ」


 ただおかしそうに、低く喉を鳴らして笑うだけだ。


「まあ、いいさ。決心がつかんなら、やめおくのが賢明さ。だいたい、お前がいま俺に口づけたところで、愛など籠もるわけもないんだしな。そんな乾いた接吻では封呪が解けるかどうかもあやしいし、いっそけみたいなもんだ。そんな賭けのために戒律を破るんじゃあ、割に合わないってのも、わかるよ。――にしても、ほんっと、悪趣味だよなぁ? 俺なんぞを愛する者など未来永劫現れるわけもないから、この封呪もまた永遠に解かれることはないって、大方おおかた、あのクソ女の狙いはそんなと、こ……」


 水が流れるように次々と連ねられていた相手の言葉は、けれども、そこで強制的に遮られていた。


「ん……ん、ぅ」


 エスティアが男の胸に飛び込むような形で、その逞しい胸板に手を添え、爪先立ち、自らのくちびるを相手のそれに押しつけたからだ。


 あたたかなくちびるが触れ合う。


 その刹那、ぱちん、と、まるで泡沫うたかたが弾けるような感触があった。


 ――……ヴァルガリアス。


 そのときふいに、エスティアの頭にそんな音が浮かんだ。


 くちびるを離して、まだ吐息のまざるような距離で、瞑っていた目をエスティアは開ける。間近に、彫刻のように整った、浮き世離れした美貌が見えていた。


「ヴァルガリアス……」


 脳裏に響いた音を、エスティアは声に出してつむいでみる。


 そして、ほう、と、息をつく。


「な……っ! お前……」


 男は困惑気味に眉根を寄せた。


 けれどもエスティアは男の戸惑いなど気にせず――そのとき、何故かそうしなければならないような気がしていて――男の頬に、そっと両のてのひらを添える。とろ、と、フォレストグリーンの眸をすがめると、そのまま再び爪先立つように伸び上がった。


 間近で、紅玉の眸を覗き込む。


(なんて深い、神秘的な色なの……)


 こわいほどだ、と、思いながら、エスティアはゆっくりと瞼を閉じた。そして、もう一度、男のくちびるに己のそれを重ね合わせる。


「……んっ……」


 ふたりのくちびるが再度ふれあった、次の瞬間だった。あたりに、きいぃん、と、高く澄んだ音が反響した。


 それにはっとしたエスティアが男から離れると、いまのいままで男を雁字がんじがらめに拘束していたはずの白銀の鎖に、細いひびが入っている。そうかと思ううちに、ぱき、ぱきぃん、と、澄んだ音を立てながら、それらは次々に割れこぼれていった。


 粉々に砕けて床に落ちると、そのまま、きらきらと輝く砂粒のように崩れ、形を失っていく。やがては光の粒子となって、まるで螺旋をえがくように虚空へと舞い上がると、空間のなかに融けるようにして消え失せた。


 ――……ヴァルガリアスを解き放つ者よ。そなたに加護を。


 再びエスティアの耳の奥に、幻のような声が反響した。


 少女のそれのごとく澄んだ声音が祝福を告げたように思ったとき、エスティアは一瞬、胸元にまるで焼かれるような熱がともったような気がした。


 けれども、痛みにも似たその感覚は、ほんの短い間で消えうせてしまう。


(な、に……?)


 男からすっかり身を離したエスティアは辺りを見回したが、もちろん、この空間には男と自分とのふたりしかいはしなかった。聴いたと思った声はいったい気のせいだろうか、と、そう考えたけれども、それにしては、その声はあまりにもはっきりしていたような気がする。


 それでも、エスティアにはそれ以上、その声について考えているいとまがなかった。


「お前……なぜ、俺の名を知っている?」


 目の前の男が、低くうなるように言ったからだ。


「……あなた様は、ヴァルガリアス様とおっしゃるのですね」


 エスティアは、男――ヴァルガリアスを見ると、ほう、と、吐息するように言った。


 先程まで壁に縫い止められて男の身体は、いまやすっかり解き放たれている。自由になった身で、彼はエスティアを、じろ、と、睨んだ。


「気安く呼ぶな、娘」


 凄むように言われる。


「エスティアです」


「あ?」


「わたしは、エスティアと言います。――わたしだけがあなたの名を知っているのでは、対等ではありませんから」


 真っ直ぐに言うと、ヴァルガリアスはいかにも不愉快そうに、ち、と、舌打ちをした。しばらくエスティアのほうを怖い表情かおをして睨んでいたが、こちらが動じないと見るや、はんっ、と、鼻を鳴らして視線を逸らした。


「――それにしても、まさかほんとうに解けるとは、な」


 気を取り直したように男は己の手を見詰めて、満足げに喉を鳴らして呟いた。相手の発言はまるで、己の告げた方法で実際に封呪が解けるとは信じていなかったかのようなものである。初めての口づけを捧げさせられたエスティアは、どういうこと、と、わずかに眉を寄せた。


「……あなたがおっしゃったのではないですか、愛の口づけを、と……」


 言いながら、自ら口にした言葉によって改めて、目の前の男とくちびるを重ねたのだということを意識する。急に恥ずかしさが込み上げて、エスティアは思わず目許を染めた。し


 かし、ヴァルガリアスはエスティアのたまらぬ羞恥になど、気がつかないふうだ。


「ははっ……結局、愛なんぞ関係なかったということだろう」


 莫迦ばか莫迦しい、と、乾いた笑みをもらした。


 その後で、またどこか不快そうに、あるいは憎々しげに、凛々しい眉をひそめて、鋭い舌打ちをする。


(なん、だろう……まるで、遠い痛みをこらえるような)


 もちろん気のせいかもしれないが、刹那、エスティアの眸には、いま目の前にいる相手がひどく傷ついた者のように映っていた。


 だからだろうか、エスティアはきゅっとくちびるを引き締めると、森閑の泉のようなフォレストグリーンの眸を、ひた、と、ヴァルガリアスに据えていた。


「〈力ある御方〉」


 敢えて、そう呼びかけている。


「わたしは、この塔にいらっしゃる御方に、ずっとずっと、祈りを捧げてきました……感謝と、ありったけの親愛とを、籠めて」


 もちろん、エスティアが日々祈りを捧げてきた相手は、エスティアの想像の中の〈力ある御方〉、精霊王の眷属だったかもしれない。それでも、エスティアが毎日欠かすことなくカエルムの塔に通い、そこにるのだという相手を想い続けてきたことは、紛れもない真実なのだ。


「だから、いまわたしがあなたに捧げたのは……愛の、口づけだわ」


 真っ直ぐに言って相手を見詰めると、男は刹那、驚いたように息を呑み、目をみはった。


 刹那、何かを言いたそうにしたけれども、結局そのくちびるは閉ざされたままだ。やがて紅玉の眸をすぅっと細めると、相手はその口の端を何とも意地の悪い形に持ちあげた。


「まあ、なんでもいいさ、そんなこと」


 どこか投げ遣りな調子で言う。


「とにかく、忌々いまいましいあの女の封呪が解けたんだからなぁ」


 くくくく、と、いかにも可笑おかしそうに、ヴァルガリアスは低く喉を鳴らした。


 そうかと思ううちに、あははは、と、勝ち誇ったかのように高らかに笑い出しさえする。


「さて、と……せっかく自由になったことだし、手始めに何をしてたのしむべきかなぁ」


 にぃ、と、口の端を吊り上げた表情は、いかにも兇悪な魔王のそれのように見え、エスティアの背を凍りつかせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る