第5話 塔上の出逢い

「あ、なたが……塔の〈力ある御方〉でしょうか……?」


 エスティアはの呼吸いきは、この高い塔の、永遠のようにも思えた長い階段を上ったせいで、掠れて途切れがちだった。それをなんとか整え、真正面の相手をうかがうように見ると、ゆっくりと問いを投げる。


 カエルムの塔の上にるのは、建国の後にこの地を去ることを決めた精霊王が残した、彼の眷属なのだと伝説は語っていた。


 ここは人智の及ぶ大地の果て、魔界との境だ。そんな、聖乙女と魔王との戦いの痕跡であるテネブラエの亀裂のかたわらだからこそ、聖乙女と精霊王とは、この地にカエルムの塔を、〈力ある御方〉を、配してくれたのだと信じられていた。


 フィニスでは、両親が、あるいは祖父母が、幼い子供に語って聞かせる。エスティアも、幼い頃に、母から聴いた。そしてまた、精霊王を祀る教会に身を寄せるようになってからは、老神官セルジュや巫女みこがしらのマニエルからも、その話は繰り返し聞かされた。


 疑ったことなどは、なかった。


 姿を現すことはなくとも、カエルムの塔には精霊王の眷属がいる。かの御方の加護のおかげで、フィニスはずっと平穏であり続けることができている。そう、心から信じていたからこそ、毎日塔へ通い、感謝の祈りを捧げてもいた。


(この、方が……?)


 エスティアは塔の上の人物を目の前にして、息を呑んでいた――……もしも彼が精霊王の眷属だというのなら、どうして、彼はこんなふうに魔法の鎖によっていましめられていなければならないのだろうか。


 自問しながらもエスティアは、いやな緊張に身体が強張るのを感じていた。


 目の前にいるのは、青年と呼んで差し支えないだろう、年若い見目の男だった。先日出逢ったレオンとサーシャの、ちょうど、中間くらいの歳の頃だろうか。


 上背があり、無駄なくひきしまったたくましくもしなやかな体躯たいくをしている。闇をつむぎだしたような、つややかなぬばたまの黒髪。どこかくらく妖しく輝く、底の知れない紅玉の眸。どこかつくりものめいてすらいる、整いすぎるほどに整った容貌は、平生へいぜいは人の美醜になどほとんど興味のないエスティアが見ても、うつくしいと感嘆せざるを得ないようなものだった。


 いっそ凄絶そうぜつなほどの迫力がある。くらく妖しく輝く紅い眸がこちらに向けられているというだけで、まるで威圧でもされているかのような凄みがあった。


 それとも、いまエスティアの足をすくませているのは、男がまとう気配なのだろうか。エスティアが感じるそれは、決して、たとえば教会にちているような清浄な空気ではありえなかった。


 静かだが、禍々まがまがしいとしか表現できないような気脈を感じる――……その気は、もしかしたら、いま塔の足下に迫る魔物たちの放つそれと似ているだろうか。あるいは、テネブラエの亀裂に投棄される魔禍まか結晶から延々と漂い続けるものとも近しいのかもしれない。


 蛇の舌のように妖しく揺らめき、黒い陽炎かげろうのように男にまとわりつくその気脈は、けれど、きよらかな白銀に輝く繊細な鎖によって、彼の身体ごといましめられているように見えた。


 男を縛りつけるその鎖は、おそらくは高位の魔法によるものである。強い魔力が鎖のかたちをとって顕現しているのだ――……彼は、そうまでして封じられなければならない存在ものなのだろうか。


 エスティアは言葉もなく立ち尽くし、ただ、男のほうへと眼差しを向ける。


 しばらくして、男が、にぃ、と、片頬を歪めた。


「〈力ある御方〉だって? なんだそりゃあ」


 くつくつくつ、と、低く笑う。小馬鹿にしたような、こちらへの嘲りを隠さない笑み方だった。


「俺がそんな上等な名で呼ばれるモンに見えるか? だったら、お前の目は随分な節穴だなぁ。――ま、俺に力があるってことについては、あながち間違いでもないがな」


「あなた、は……?」


 エスティアは恐る恐る尋ねた。


 相手は、くく、と、また喉を鳴らす。


「さぁて、いまの俺が何と呼ばれているものか、こっちが聴きたいくらいだが。なにしろあのクソ女にここに封じられてから、もう随分と時も経った……もう、いちいち数えるのもきるほどの時間がな」


「クソ女って……」


「はっ。クソ女はクソ女さ!」


「まさか、建国の聖乙女、クリスタ様……?」


 目の前の男が――本人も自ら口にする通り――強大な力を誇るものであろうことは、エスティアにも十分に感じられた。だとすれば、そんな相手をこうして長い時にわたってとらえておける者など、建国の聖乙女か精霊王くらいしか思いつかない。その上で、目の前の男が〈クソ女〉と評するならば――オリーブグリーンの髪と鬱金うこん色の眸を持つ男性体だと伝わる精霊王ではなくて――聖乙女クリスタだろうか、と、そう思っての発言だった。


 エスティアの言葉を聴いた途端、相手はいかにも不愉快そうに凛々しい眉根を寄せた。ち、と、鋭い舌打ちまでが聴こえてくる。


「なんだ、あいつ、国まで作りやがったのか。――まあ、そんなことは、どうでもいいが」


 相手がそう言うからには、男の言う〈クソ女〉とは、本当にクリスタのことのようだった。


 聖乙女に対してなんという不敬な物言いだろう、と、リサルグ女王国の民であるエスティアは、建国の祖を悪し様に呼ぶ男にすこしばかり腹立ちを覚えはする。が、男の失礼な発言をとがめ立てるよりも、もっと気にかかることがあった。


「あなたは、聖乙女クリスタによって、ここに封じられたのですか……?」


 エスティアは、自分がこれまで聴かされていた塔に関する言い伝えが、どうやら真実とは大きくかけ離れていたらしいことを、いままさに思い知っていた。


 たしかに、ここカエルムの塔には、力ある者がいた。


 けれどもそれは、精霊王アルグスの眷属などではない――……ありえない。精霊王に連なる者が、こんなふうに、聖乙女クリスタによって封じられなければならない理由など、ありはしないだろう。


 エスティアは改めて男を見る。


 黒い髪、紅玉の眸。そして、彼の、禍々しい気配。


 輝く白銀の鎖によって壁に縫い止められるように拘束されているこの男は、あるいは、精霊王とは真反対の存在ものなのではないのか――……建国神話において、聖乙女が最後に退けたと言われている、まさにその相手。


「……魔、王」


 エスティアが口にすると、相手は興味深そうに、紅い眸をすがめてみせた。


「なるほど、いまの俺はそう呼ばれるもののようだ」


 に、と、口の端を吊り上げ、彼はさも可笑しそうに笑った。


(そんな……)


 一方のエスティアは絶句する。


 一縷いちるの望みに賭けて、塔の最上階まで上ってきた。それは、そこに精霊王の眷属が在ると信じ、窮地にある自分たちを、あるいはフィニスの村を、助けてほしいと懇願するためだった。


 けれども、いま目の前にいるのは、むしろ魔の化身けしんとされる存在ものなのだ。


「ふん……どうした、娘よ。顔が青いぞ? ――だが、どうもこの俺を怖がる表情かおではないようだがな」


 男がエスティアを紅い眸でじっくりと眺めながら言う。


「お前、ここへ何をしにきた? どうやらお前はここにいるのが魔王と呼ばれる存在ものであるとは知らなかったようだが……〈力ある御方〉、とか、言ったな。では、なんぞ助力でも請いに来たのか? なにやら、塔の下に奇妙おかし魔物成れの果てが集っているようだが」


 相手が滔々と述べ立てた言葉に、エスティアは言葉を呑む。それを見た男は、片眉をあげて見せた。


「ははっ。どうやら、当たりだな」


 男はまた笑い、くちびるは三日月のように歪めたままで、紅い眸をすぅっとすがめる。


「なあ、娘。お前が望むなら、この俺が手を貸してやらんでもないぞ? ずいぶんと久方ぶりに人と喋って、いまの俺は、少々気分がいいんだ。お前の思う〈力ある御方〉とは違っても、俺に力があるのは事実だしな。下にいる小物どもなど、一瞬で灰燼かいじんに帰してやろうじゃないか。――ただし」


「……ただし?」


 エスティアは警戒しつつも尋ね返した。にやにやと笑いながらこちらを眺める相手に、フォレストグリーンの眸を真っ直ぐに向ける。


 男はこちらの眼差しを受けて、また、ゆっくりと目を細めた。


「この忌々いまいましい封呪ふうじゅをなんとかしてもらわねば、俺は力を振るえない」


 男が要求したのは、男の身体に絡みついて彼を縛りつけているらしき白銀の鎖を解くことだった。


(どう、しよう)


 エスティアは無言で目をまたたく。


 塔の下には、いま、複数の兇悪な魔物が迫っていた。ゴルドウォールの騎士たちやフィニス村の自警団の力だけでは、この絶望的な状況を切り抜けることは不可能だ。そのうえ、このまま時が過ぎれば、今度はフィニスの村さえもが危機におちいるだろうことは明白だった。


(ダニエル団長、セルジュ様、マニエル様、エマさん……村のみんな)


 親しく大切な彼ら、彼女らを助けるために、いまエスティアが取れる方策は、目の前のこの男にすがりつくことくらいである。けれども、彼がもし建国の聖乙女によってこの塔に封じられた魔王だったとしたならば、封呪を解いて彼に自由を与えることが、もっともっと大きな災厄わざわいを呼ぶ可能性はないのだろうか。


 いま彼がエスティアに力を貸すと言うのも、目的は、エスティアに自らを拘束する封呪を破らせることかもしれない。


(どうしたら、いいの……?)


 判断しあぐね、エスティアはきゅっとてのひらを握り込む。


 刹那、しん、と、場に静謐が満ちた。


 そのとき、ごぉおぉおん、と、風が腹に響くような重たくすさまじい音を立てた。


 否、それは風の音などではなく、魔物たちの咆哮ほうこうのようだ。エスティアは弾かれたように窓に駆け寄り、そこから塔の真下をのぞいた。


 獅子に似た姿をした魔物たちは、なおも、塔の裾にたかっている。そして、そのまわりには、黒々としたほむらが盛り立っていた。


 それだけでももちろん恐ろしい光景だ。が、ふいに、黒い獣のうちの何頭かが、塔に背を向けた。


(な、に……?)


 エスティアが魔獣の取った行動の意味が理解できずに戸惑う刹那のうちにも、身をひるがえした獣たちは、一斉にフィニスの村のほうへ向けて群をなして駆け出していく。標的を切り替えたのだ。


 はっと息を呑んだエスティアは、弾かれたように男を見た。もはや迷っているいとまなどない。


「っ、どうしたらいいの!?」


 叫ぶように問うた。


「どうやったら、あなたを縛るその鎖は解けるのですかっ!? わたしがあなたを解放します。だから、どうか、みんなを、わたしの村を、救ってください。おねがいします……!」


 フォレストグリーンの眸を潤ませたエスティアの言葉に、男は、にや、と、笑った。


「――口づけを」


 要求は端的だった。


「……え?」


 相手の言葉の意味がわからなくて、一瞬、エスティアは目を瞬いた。


「俺に、口づけしろ」


 繰り返された男の言は、やはりごく短い。エスティアは森閑の泉のごときフォレストグリーンの眸を、今度は大きくみはっていた。


 男が求めた行為を理解し、かぁ、と、頬を染める。


 言葉を失ったエスティアに、男は、くつり、と、喉を鳴らした。


「封呪を解くのは、愛の口づけ……だ、そうだ。――ああ、文句なら、あのクソ女に言えよ? まったく趣味の悪いこと極まりないよな」


 いかにも冗談めかして言いながら、男は意地悪くわらう。紅玉の眸がこちらを見据えていたが、その目はあからさまにエスティアの反応を楽しんでいた。

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