第4話 魔物の襲撃
急報を持ってきたルーカスと共にカエルムの塔の下へ駆けつけたエスティアは、その場の惨状を目の当たりにして、思わず立ち尽くしてしまった。
妖しい月光が
レオンが要請してくれて、ゴルドウォールの
騎士のひとりはテネブラエの亀裂との間にある林のほうへと剣先を向けていた。が、その身体が小刻みにふるえているのようなのが見て取れた。明らかな
(なにがあったというの……?)
エスティアは信じられない思いで呆然と目の前の光景を見ていた。
それでも、いつまでも放心してばかりもいられない。何のためにここへ来たのだ、と、自分を叱咤し、気を取り直した。
フォレストグリーンの眸で真っ直ぐに現状を見据える。手にした箱を持ち直して、まずは一番近くにいる怪我人のほうへと駆け寄った。
「エスティア……なにを、しに……」
力なく座り込むのは、自警団の団長、ダニエルだ。エスティアを見ると、掠れた声でそう言った。
「ダニエルさん、大丈夫です。すぐに手当をしますから……!」
エスティアが治療のためにてのひらに力を集中させ、傷を負ったダニエルの身体に向けて
「に、げろ……林の奥、に、魔物、が……すぐに、ここを、はなれるん、だ」
途切れ途切れに、自警団の団長はそう警告した。
「俺たち、では、止め、られん……騎士たちが、いても……だから……」
「っ、団長さんを放ってはいけません! もちろん他の皆さんも、騎士の方々もです!」
エスティアは首を振った。
が、ダニエルは
「い、け……! このままでは、フィニス村が、あぶない。村人を、教会に集め、て、老神官様と巫女様、それとお前の魔法とで、結界を……村の皆が助かる方法は、それくらいしか、ない」
そこまで言ったところで、ダニエルは、ぐぅ、と、呻いた。かと思うと、続けて激しく咳き込み出す。ごほ、と、くぐもった音と共に吐き出されたのは、どろりとした血の塊だ。
「でも……ダニエルさん」
エスティアは迷う。自分の力では、きっとここの全員の完全なる治癒などは不可能だ。それは、たぶんこの惨状を目にした最初に、もうわかってしまったことだった。
かといって、傷ついた村の男たちや、それからゴルドウォールの騎士たちを、このままこの場に残して村へ戻ることなど、とてもではないが、エスティアにはできない。けれども、どうしたらいいのかが、まるでわからなかった。
(わたしは……何て無力なの)
エスティアは、きゅう、と、眉根を寄せる。瞼の裏が、じん、と、熱くなった。
「いいから、いけ……!」
けれども、その時にはもはや、すべてがすでに遅かった。
どぉおぉん、と、大きな音が響いてくる。エスティアはびくりと肩をふるわせて、反射的に音のした背後を振り返った。
どうやら木が倒れた音のようだ。
けれども、それだけではない。
同時に、ぐぅる、ぐるるるぅ、と、低い唸り声が、地を這うようにして響いてきていた。
耳にするだけで、背筋がぞっと凍り付くような声音だった。尋常のものではないのが、本能的に察せられる。
生ぬるい風が吹いた。
エスティアの淡いピンクブロンドの髪が、風にわずかに
さわさわ、と、葉擦れの音がする。
続いて、一斉に飛び立つ鳥の羽音と、
次の瞬間、林から何かが飛び出してくる。
獅子だ――……否、獅子のような姿をした〈何か〉、だった。
繁みを抜けたところで獣は立ち止まり、ぐるぅるる、と、喉を鳴らした。そうしながら、まるで
闇か影かの、不気味で大きな
獣の
そのとき、及び腰ながらも林に向けて剣を構えていた騎士が、黒い獣の尾にの一振りにかけられて、呆気なく弾き飛ばされた。
エスティアは、ひ、と、息を呑む。恐ろしさで身が竦む。弾き飛ばされた騎士を救いにいかなければ、と、頭では思うのに、凍った身体は思いに反して動いてはくれなかった。
呼吸すらが、重い。
テネブラエの亀裂の傍にありながらも、フィニス村は魔物の被害の極端に少ない場所だった。エスティアは、不意に、自分が本物の魔を目にするのは、いまが初めてなのだということを意識した。
目の前の黒々とした獣の、大きく
ふぅ、ふぅ、と、荒い呼吸音のようなものをもらす口の中には、尖った牙と、赤い舌とがのぞいている。地を蹴る太い肢先に見える爪もまた、恐ろしく鋭かった。
辺りを見回していた魔獣の目が、ふと、エスティアたちのいるほうへと視点を定める。その瞬間、空気が凍りついたようだった。動けない。
そんなエスティアのすぐ傍では、自警団の団長のダニエルが、怪我を押して、歯を食いしばりながら、剣の
「だめです、団長さん。怪我が……」
しかしダニエルは、無理にも身を起こそうとする。
「エスティア……はやく、村へ……」
絞り出すように言う。
「俺らが、なんとか、時間を稼ぐから……命を捨てて、でも」
必死の顔で告げられるが、エスティアは必死に
フォレストグリーンの眸には、涙が滲む。
「だめです、ダニエルさん……戻るなら、みんなで……」
エスティアが涙声で言った、まさにそのときだった。
がさ、がさがさ、と、繁みを分ける音がする。それはエスティアたちにとっては、恐怖と絶望が近づく足音のように感じられた。
厭な予感を覚えつつ、動けないまま、林のほうを見詰める。
そうするうちに、黒々とした体毛も恐ろしい獣たちが、次々とそこから姿を現した。
「は、ははは……だめだ、こんなの、もう……」
そうつぶやいたのは、村の自警団の男だったろうか。絶望に暮れるその声を、エスティアも大きな恐怖とともに聞いていた。
尋常のものでない魔の獣たちが、次々と林から出てくる。それらはきっと、いまここにいる騎士たちや自警団の男たち、エスティアをも含めた皆を、すぐにも
そして、その後は、どうするだろう。エスティアは想像し、背筋が凍りつく想いを味わった――……魔物たちは、きっと次には、フィニスの村へ向かうのではないのだろうか。
村が魔に
「フィニスは、おしまいだ」
誰かのつぶやいた、そんな声が耳に届く。
「そん、な……」
エスティアは目に涙を浮かべつつ、呆然と魔物たちのほうを見ていた。
(だってここには、カエルムの塔があるのに……精霊王の眷属、〈力ある御方〉がいらっしゃる場所なのに、そんなことって……)
いままでフィニスが魔物に襲われなかったのは、ほんとうに、幸運なる偶然でしかなかったのだろうか。高い塔の上の偉大なる存在のことは、単なる、古い伝承にすぎなかったのだろうか。
(いいえ……わたしは、信じてる)
エスティアは無意識に
「みなさん、どうか諦めないでください! ここはカエルムの塔の直下、きっと、塔の御方がわたしたちを守ってくだるわ。――まずは、塔の中へ……きっと、ここよりは安全です。身体を動かせる方は、動けない方に肩を貸してさしあげてください。さあ!」
エスティアはその場にいる騎士、自警団の男たちを励ますように声をかけると、自らはダニエルの身を支えて、塔のほうへと歩き出した。
エスティアが動いたのをきっかけに、絶望に暮れて呆然自失していたその場の誰もが、はっと我に返ったようになる。そして、めいめいに塔の出入口を目指して動き出した。
騎士のひとりは、
「あと、少しです」
最初に塔に辿り着いた騎士が、重たい扉を開いてくれる。エスティアは団長を塔の中へと運び込むと、自らは再び外へ飛び出した。
迷わず、魔物のほうへとてのひらを
(万物に宿る精霊たち、偉大なる精霊王……みんなを守るための力を、どうかわたしにお貸しください)
目を閉じて、祈る。ぽう、ぽう、と、エスティアのてのひらには、澄んだ白銀の光が集まってきた。
魔物たちに向かって、力を放つ。それはほんの刹那、兇悪な魔物たちを怯ませた。
「いまのうちです。みなさん、急いで!」
エスティアの声を合図に、その場の全員が塔の中へと駆け込んだ。エスティアも再び塔へと戻り、分厚い扉が閉じられる。ほう、と、誰からともなく、安堵の息が漏れた。
しかし、気を抜けたのも一瞬に過ぎない。
どんっ、と、空気を振るわせるような衝撃が走った。
すぐそばから、苛立つような、獣の低い
ぞっとする。
けれども、背筋を恐怖にふるえる間もなく、今度は奇妙な熱風がエスティアたちを襲った。
「っ、火だ……!」
塔には、壁に添うようなかたちで上へと伸びる螺旋階段がある。それを駆け上り、途中にある明かり取りのちいさな窓から外を見た騎士が、叫ぶような声でそう言った。
エスティアも階段を上り、外の様子を確かめ、息を呑む。
塔のまわりは何頭もの魔獣に取り囲まれ、しかも、この世のものとも思われない黒い
(なんてこと……)
退路はすでに塞がれている。いくらこの塔に立て籠もってみたところで、もしかしたら、わずかな時間の身の安全を確保したにすぎないのかもしれなかった。
「おい、みな……とりあえず上階へ移動しよう」
誰かが言い、エスティアたちは助け合って、螺旋階段を上った。ひとつ上の階は何もない
地階に居続けるよりは、このほうが、いくぶんかはましであろう。そうは思うものの、見まわしてみれば、誰もかれも、その表情は沈鬱なものだった。
魔物たちは、下で体当たりを続けている。塔の壁が、扉が、いったいいつまでもつものかは、まったくの未知数だった。
外の魔物を何とか退治しなければ、事態は解決しない。かといって、いまここにいる、怪我を負った自警団や騎士、そしてエスティアの力で、それがかなうとも思われなかった。
皆、そんなことはわかっている。
だからこその暗く重い表情なのだ。
(でも、ここは、カエルムの塔だわ……わたしは、諦めたり、しない)
エスティアは自分に言い聞かせるように心の中で呟くと、まだ上へと続く螺旋階段のほうへ、森閑に眠る泉のように澄んだフォレストグリーンの眸を向けた。
たとえばもっと塔の上階へ逃げて、救援を待つという方策はどうだろうか、と、考える。けれどもすぐに首を振った。
もし誰かがここへやってくるとしたら、まず最初は、きっとフィニス村の誰かのはずだ。エスティアを追って、老神官セルジュが来るかもしれない。巫女頭のマニエルかもしれない。誰にせよ、こんな状態の場所へ足を踏み入れて、無事で済むわけがなかった。
それに、いまは塔に集っている魔物たちが、いつ標的を変えてフィニス村を襲いにいかないとも限らないのだ。
持ってきた道具と薬、それから魔法とで、傷ついた者たちのひととおりの手当てを終えると、エスティアはもう一度、螺旋階段へと視線を向けて、きゅ、と、くちびるを引き結んだ。
「わたし……塔の上へ、上ります」
ぽつん、と、けれども、決意を込めて言う。
「塔の〈力ある御方〉に……助力を、お願いするわ」
森閑に湧く清らかな泉のような深いフォレストグリーンの眸に、刹那、強い光が宿った。エスティアは、塔の内壁に添うような形で螺旋を描きながら上階へと続くらしい階段へと近づいた。
「待て、エスティア……あんなものは、きっと言い伝えにすぎない」
言ったのは、自警団団長のダニエルだった。塔の上へと辿り着いたところで、そこに伝承の言う〈力ある御方〉などいるわけがない、と、エスティアに向けられるダニエルの眼差しはそう語っていた。
けれどもエスティアは、ふるふる、と、ちいさく
「行ってみなければ、わかりません。わたしは……信じる」
にこ、と、笑う。
けれども、半分は強がりだったかもしれない。
信じている。行ってみなければ、わからない。けれどもそれ以上に、そこに在るのだという精霊王の眷属に頼るよりほか、いま、フィニスが魔物に蹂躙されずに済む方策がなかった。
いま、エスティアに出来るのは、一縷の望みに賭け、可能性を信じて、この塔を上っていくことくらいだ。それでも、否、だからこそ、何もしないままではいられなかった。
(きっと、いらっしゃる……わたしたちを、救ってくださる)
エスティアは祈りを捧げるときのように、一度、そっと目を閉じた。
ひとつ深呼吸をすると、階段へと足をかける。き、と、遥かな上階を見据える。
いつも外から見上げる塔は、天を突くように、高く高く
(出来ることを、出来る限り、やりたい……やらなければ)
そう改めて決意して、深い緑色のスカートの裾を持ち上げた。
「エスティア……」
ダニエルが憂わしげな眼差しを向けてくれる。彼がエスティアの身を案じてくれるのを十分に感じながら、だからこそエスティアは、にこ、と、強いていつものように笑ってみせた。
「大丈夫です。わたしは怪我をしていませんし、魔法だって使えますから。――行ってきますね」
そう言って、階段を駆け上りはじめる。
二階、三階、四階、と、伽藍堂の空間だけがある場所をいくつも越えて、螺旋階段を上へ上へとのぼっていく。
息が切れてくる。
膝が笑い、足が悲鳴をあげ始める。
それでもエスティアは止まらなかった。足が
(わたしが行かなければ……大好きなフィニスが、滅んでしまうかもしれない。みんなを、守りたいの……だから、行かなきゃ……上まで)
次第に
やがて、もはや頭が真っ白になり、何も考えることが出来なくなった頃、壁に縋るようにして階段を上るエスティアの頭上から、ふと、これまでにない
(な、に……?)
エスティアは光のほうへと目を向ける。次の階の入り口が見えていた。そしてそこは、明らかにいままでの部屋とは違っていた。
息を乱し、倒れ込むように、エスティアはその階へと足を踏み入れる。長く長く、永遠と思えるほどに続いた階段は、まさに、そこで途切れていた。
(たどり、ついた、の……?)
ふらり、と、倒れそうになり、壁に寄り掛かる
そして、
誰か、いる――……それは男のように見えた。
その人物を目にしたエスティアは、けれども、〈力ある御方〉についての伝承はやはり真実だったのだ、と、素直に喜ぶことなど出来なかった。
なぜならその男は、白銀に輝く、おそらくは魔法の力を
黒尽くめの服を
端正に整った面立ちの、いまは閉じられている瞼がわずかにふるえる。エスティアは思わず身を固くした。
白い瞼が持ち上がって、その下の眸がのぞく。血のように昏く
「客か……珍しいな」
男は、くく、と、低く喉を鳴らした。
にぃ、と、口の端を歪めて笑う表情は、とてもではないが、万民に崇め奉られる尊い精霊王の眷属とは思われなかった。
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