第3話 王宮騎士レオンとの遭遇

「大丈夫ですかっ!?」


 エスティアは、考えるよりも先に、林のほうから姿を見せた騎士たちのほうへと駆け寄っていた。


 騎士は二人連れで、ふたりともに負傷しているようだ。いくぶん年嵩としかさに見える男のほうが――と言っても、三十歳さんじゅうになるやならずといった青年ではあったが――傷が深いらしい。もう片方の騎士に肩を支えられているような有様だった。荒く乱れた呼吸をしていて、痛みになのだろう、眉根を険しくひそめている。


「ひどい怪我……急いで手当てをしなければ」


 エスティアは痛ましく男を見詰めて、独り言のように口にした。


 一方、男を支える年若いほうの騎士は――それでもエスティアよりもいくつかは年上だろうが――駆けつけたこちらに、すこしばかりいぶかるような視線を向けてくる。


 もう暮れの時刻だ。それにも関わらず、魔界との境であり、魔禍まか結晶が投棄される場所でもあるテネブラエの亀裂に近いあたりをうろうろしている若い娘を、どうも怪しんでいるようだった。


 けれども、エスティアはそんなことには構わず、青年騎士に支えられている負傷した騎士の側へ寄る。近づいて確かめると、いったい何にやられたものか、王宮騎士団の制服は無惨に裂けて、肌に走る酷い傷が見えていた。


 まだ血が流れている。放ってはおけない。


「ここに彼を、あおけに寝かせてください」


 エスティアはひとつ深呼吸をすると、怪我をした騎士を支えている青年騎士に言った。


「しかし……」


「わたしは近く村、フィニスにある教会にお仕えする、巫女みこです」


 怪しい者ではない、と、言っておいて、戸惑う様子を見せる相手を、エスティアは有無を言わさぬ強い眼差しで見上げる。


「治療します。早く」


 エスティアの澄んで深いグリーンの眸に促されたのか、はっとした相手はようやく躊躇ためらいを捨て、こちらに言われたとおりに負傷した騎士をその場に横たえた。


「お願い、します」


 騎士がふるえる声でちいさく言う。エスティアは頷くと、一片の躊躇ちゅうちょもなく騎士の傍らの地面に膝を着いた。


 ほう、と、ひとつ深呼吸をする。両のてのひらを虚空へ向け、それから祈るときのように目を閉じると、わずかにうつむいて、意識を手に集中させた。


(偉大なる精霊王アルグスの眷属けんぞく、この世のすべてに宿る、数多あまたの精霊たち……どうかお力をお貸しください)


 心中に呼びかけると、指先に、ぽう、と、ぬくもりがともる。目には見えずとも、あたりに満ちる精霊が、エスティアに力を貸し与えてくれたのだ。


 エスティアは瞼を持ち上げると、地面に横たえられてぐったりとする騎士の傷口のあたりに、己のてのひらをかざした。


 春の陽射しにも似た透明であたたかみのある光が、細やかな砂の粒子のようになって、エスティアの指先のまわりにちらつく。それは、きらきら、と、まるでこずえしげる葉にもつれる陽光のごとくに輝いた。そして、男の傷のあたりへと、流れとなって注がれていく。


 エスティアは、く、と、くちびるを引き締めた。


(傷が深い……治しきれないわ)


 ちら、と、眉をひそめつつ、それでも必死に力を籠めた。


 やがて、負傷した騎士の険しかった表情が、ふ、と、ゆるむ。彼の瞼が開き、力ない視線ながらもこちらを見返してきた。


 それを目にしたエスティアは、安堵から身の力が抜けるのを感じた


(精霊王、精霊たち……ご助力に感謝いたします)


 目の前の騎士の命を繋ぎとめられたらしいことに、エスティアは胸の前で軽く手を組み、刹那、目を閉じて感謝の祈りを捧げた。


「隊長……! レオン隊長、大丈夫ですかっ!?」


 エスティアと共に不安げな眼差しで負傷した騎士を見ていたもうひとりの青年騎士は、彼の目が開くや、そう畳みかけるように呼びかけた。それに対して、相手が、こく、と、ちいさく頷いてみせる。それを見たエスティアは、青年騎士とともに、ほう、と、安堵の息をついた。


 途端に、ついに限界を感じて、身体がふらついてしまう。均衡を崩しかけたエスティアを、隣から、慌てたように騎士の青年が支えてくれた。


「あ、ありがとうございます、レディ」


 彼の声は、感激にか、わずかに震えていた。


「わたしにできることをしただけですから」


 エスティアはわずかに呼吸を乱しながら、ちら、と、青年を見て微笑んだ。


「私からも、礼を……おかげで命拾いしたようだ。ありがとう」


 怪我をした騎士が絞り出すようにゆっくりと言いつつ、なんと身を起こそうとする。


「ご無理をなさってはなりません。傷が完全にえたわけではありませんから……」


 エスティアは慌てて、相手を押しとどめようとした。けれども、騎士はわずかにかぶりを振ると、顔をしかめつつも身体を起こした。傍の青年が、男の背を支える。


 心配そうに覗き込む麾下きかに、平気だ、と、目配せをしておいて、男はエスティアのほうへ顔を向けた。あたかみのある薄い金茶の髪がわずかに揺れる。青味の強いグレーの眸は、エスティアを映すと、そっとすがめられた。


「それにしても驚いたな……レディは魔法が使えるのか。しかも、詠唱えうしょうもなしに」


「わたしの魔法など、使えるというほどのものでもありません、騎士様。いまも、完全に治癒させることは、できていませんし……」


 エスティアができたのは、流れ続けていた血を止めたことと、すこしばかり痛みを和らげたことくらいのものだった。たとえば王宮に使える宮廷魔道士と呼ばれる者だったならば、はじめからなかったかのように、彼の傷を治してしまうことも可能だったろう。


 そう考えれば、自分の力不足が申し訳ない気分だった。


「いや、すばらしい力だと思う。ご存知かはわからないが、強い魔法を使える者は、年々減っているからな……中央でも、いまや数えるほどだ。――レディはよほど精霊に愛されていると見える」


 騎士は穏やかな表情で笑った。


「そんな、わたしなんて」


 騎士の男の思わぬ言葉にエスティアは目を瞬き、それから慌てて首を振ってみせた。とんだ買いかぶりだ、と、思う。


 精霊王を祀る者であるという性質上、教会に仕える神官や巫女は、大なり小なり、魔法の使い方を身につけるのが普通だった。が、それはたいていの場合、癒しや守護――結界――といったもの、しかもごく感嘆な魔法でしかない。


 魔道士たちが使うような、詠唱をともなう、本格的で複雑な魔法になど、エスティアは触れたこともなかった。


「精霊王の加護を得た建国の聖乙女は詠唱なしでも強力な魔法を使ったと言われているが、君を見ていると、詠唱はあくまでも効果的に精霊の力を引き出す手段に過ぎないのだろうという気が、確かにするな。それは魔法の本来の在り方とは関係のないものなのだろう。――うん、あいつの言う通りかもしれない」


 ほう、と、男は息をついた。


 あいつとは誰だろう、と、ふと思い、エスティアは目を瞬く。それでも、初対面の相手に不躾に訊ねることでもないかと思って黙っていると、男は、ちら、と、苦笑してみせた。


「魔法研究に没頭している、ちょっと変わった知り合いがいてね」


 その相手を思い出したということらしかった。


「ええっと、レディ……」


 そこで口籠るのは、相手はこちらの名を呼ぼうとしてのことらしい。それに気がついたエスティアが改めて名乗ると、騎士は真っ直ぐにエスティアを呼んだ。


「レディ・エスティア。とにかく、あなたの力は素晴らしいものだと、私は思うよ」


「あ、ありがとうございます」


「なんなら王都へ上って、本格的に魔法を学んでみてはどうだろう? いずれ立派な魔道士におなりだろう……っと、初対面の私などが、偉そうに言うことではないか」


 ちら、と、またも苦笑するような表情を見せた騎士は、世辞ではなく、エスティアを買ってくれているようだった。


 それは十分に感じ取りながらも、エスティアは小さくかぶりを振る。遠慮というのではなく、エスティアは、生まれ育ったフィニス村を離れることなど考えたこともなかった。


「わたしは生まれ育ったこの村が好きですから……フィニスの巫女として、これからも毎日、塔の御方に祈りを捧げられる暮らしを続けられれば、それだけで満足です」


 言いながら、背後のカエルムの塔を振り仰ぐ。


「おや、欲がない」


「そうでしょうか」


「だろう? 王宮付きの魔導士になれば、地位も名声も、もちろん富も手に入る。それだけの素質が、あなたにはあるように思うが」


「わたしの望む暮らしに、それらは必要ありませんから」


 エスティアが、ふわ、と、笑って言うと、相手もまた口許に、そ、と、笑みを刷いた。それから、くすん、と、肩をすくめてみせる。エスティアの言葉を、そんなふうにただ穏やかに笑んで受け入れる彼もまた、地位や名声、富などに対する強い指向を持たない類の人間だということなのかもしれなかった。


「私は王宮騎士のレオン・ノヴァック。こっちは部下のサーシャ・ハサノフだ。――もしレディの気が変わって、いつか王都へ来られるようなことがあれば、ぜひ、私を頼ってくれ。出来る限りの口利きをすると約束する」


 そう言って、騎士レオンは人好きのする笑みを浮かべる。エスティアも、にこ、と、穏やかな微笑を返したが、それよりも、ずっと気に掛かっていることがあった。


「わたしのことなどよりも、騎士様、きちんと怪我の手当てをしなければ……どうぞ、フィニスの村の、わたしの仕える教会までお越しください。応急処置ではありますが、出来ると思います」


「いや、お心遣いはありがたいが……我々はこのまま、一刻も早く王都へ戻るつもりだ」


「ですが……」


「怪我のことなら、レディの魔法のおかげで、問題ない程度だ。本当に助かった、感謝する」


 そう言ってエスティアを安心させようとするかのように笑みを浮かべた後、レオンは部下に目配せをした。サーシャも、こく、と、頷く。


 レオンの怪我は相当にひどいもので、エスティアの魔法では癒せてはいない。血を止めて痛みをやわらげた程度で大丈夫なはずもなかったが、王宮騎士である彼が怪我を押してまで帰途を急ぐのには、それなりの理由があるはずだった。


「この辺りで…何かあったのですか?」


 ふと不安に駆られて、エスティアは口にしていた。


 レオンの怪我の原因は何なのだろう。カエルムの塔の奥にあるのは、人の世界と魔の世界を分け、魔禍結晶の投棄場ともなっているテネブラエの亀裂なのだ。


(まさか、魔物? ……いいえ、そんなはずはないわ。だって、塔には〈力ある御方〉がいらっしゃるのに)


 フィニスは魔界に近い辺境にありながらも、これまで、大きな魔物の被害に遭ってこなかったのだ。エスティアは自分の脳裏を一瞬かすめた疑念を、すぐに自ら打ち消した。


 フォレストグリーンの眸に色濃い不安を浮かべたエスティアを前に、レオンは再び、今度は困ったような、あるいは苦い表情をして、部下と顔を見合わせる。


「魔物……としか、言いようがないものでした。けれども、通常のそれとは、明らかに違った」


 そう言ったのは、部下の騎士、サーシャのほうだった。それは、魔物であるはずがない、あってほしくない、と、そんなエスティアの想いを否定するような言葉だ。


 エスティアは息を呑む。それを見ながら、レオンは、ふう、と、吐息した。


「最近、どうもテネブラエの亀裂から魔禍結晶を不正に持ち出している者らがいるらしいという疑惑があってな」


「魔禍結晶を……なぜ?」


「わからない。持ち出しが事実かどうかも、な。私たちはそれを調べに、王都から来たのだが」


「そして実際、僕とレオン隊長とは、怪しげな人影を目撃しました。ですが……」


 そこで口籠ったサーシャは、ちら、と、レオンのほうを見た。


「その途端、隊長が何物かに襲われたのです」


「まるで図ったかのようなタイミングで、な」


 サーシャの言葉を継いだレオンはまた、ちいさく嘆息した。


「まるで目撃者の我らを邪魔しようとするかのようだった。が、もとより魔物、魔獣などは、人に従ったりするような存在ものではない。そんなことはあるはずはないのだが……だからこそ、どうもきな臭い」


 それでレオンは早々に王宮へと戻り、上層部にこの事態についてはかりたいということのようだった。


「わかりました。それでは、これ以上お引き止めしては、お邪魔ですね。――どうぞ、道中お気をつけて」


「お気遣いに心より感謝を、レディ・エスティア。――そして、あなたも十分に気をつけてくれ」


 真摯な声で告げられて、エスティアはフォレストグリーンの眸を瞬いた。じっとレオンを見詰めると、難しい表情かおをした彼は、ちら、と、眉を寄せてみせる。


「我々を襲った魔物は、なんとか魔禍結晶に封じてはある。もっとも、あいつが本当に魔物だったかどうかもわからないが、な。――ともあれ、しばらく警戒するに越したことはないから」


「はい。神官さまや村長には、わたしからそうお伝えしておきます」


 エスティアは緊張した面持ちでそう言った。レオンは、うん、と、頷くと、麾下のほうへと視線をやる。


「サーシャ、ここから一番近い、騎士団のいるまちはどこだ?」


「たしか、ゴルドウォールです、隊長」


「そこの騎士団に連絡を取れ。――騎士を派遣し、しばらくフィニス村周辺の警邏を強化しするように、と」


「わかりました」


 フィニスへの気遣いをうかがわせるふたりの遣り取りに、エスティアは深々と頭を下げた。


「ありがとうございます、レオン様、サーシャ様」


「いや、礼を言われるほどのことではないさ。――何もないことを祈っている」


 吐息と共にレオンはそう言って、村の入り口までエスティアに同行してくれた上で、王都への帰途を急いでいった。


(なにも、ありませんように)


 エスティアはふたりの背を見送って、何にともなく祈るように思う。


 けれども、エスティアのこの願いは、その日からわずか半月ほどで、手酷いかたちで打ち破られることとなった。




「老神官様!」


 宵も近い刻限になって教会に飛び込んできたのは、フィニス村の自警団に属する青年のひとりだった。


 寝支度のため、寝間着に着替える直前だったエスティアだが、手を止めて、慌てて部屋から駆け出した。間を置かずすぐに巫女みこがしらのマニエルも姿を見せる。


「ルーカス? こんな時間にどうしたのだ」


 教会を預かる老神官セルジュはすでに部屋から出てきていて、血相を変えた青年に事情を聴こうとしている。エスティアとマニエルとも、彼の傍へ歩み寄った。


「魔物です、神官様」


 青年ルーカスは、荒らぐ息の下で言った。


 エスティアたちは、一様に息を呑む。


「いま、カエルムの塔のあたりで、自警団とゴルドウォールの騎士たちが応戦しています。怪我人が、たくさん、出てる」


「なに?」


「治癒魔法が使える者が、必要です」


 言いながらルーカスは、ちら、と、エスティアを見た。


 このフィニス村でまがりなりにも魔法を使えるのは、教会に所属しているエスティアたち三人しかいない。その中では、おそらくエスティアの力が最も確かなものだった。村人は誰でも知っている。


「セルジュ様、わたし、行ってきます」


 エスティアは迷いなく言って、言うが早いか、薬や包帯など怪我の治療のために必要なもの一式が入った箱を取りに、いったん部屋へと駆け戻った。

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