第2話 カエルムの塔とテネブラエの亀裂

 エスティアの暮らすフィニスは、何の変哲もない辺境の村だった。ただ、ほんのすこしだけ、余所よそとは違っていることがある。


 そのひとつが、いまエスティアが目指している塔だ。


 カエルム天空の塔とも呼ばれるそれは、まさに建国のその頃に、この地に建てられたのだと言われていた。その言い伝えの真偽のほどは定かではないが、石積みの外壁を緑のつたが覆うその塔が、ずっとずっと昔、それこそこの村が出来た当初にはすでにここにあって、以来、ずっとこの場所にそびえ続けていることは間違いなかった。


 エスティアは、塔に出入りする者を見たことがない。おそらく、村の誰も、ないだろう。その塔は、不思議なことに、誰かが管理しているふうがまるでなかった。


 けれども、長い間、風雪にさらされてなお、傷みも、崩れもせず、カエルムの塔は変わらぬ威容を誇り続けているのだ。


 カエルムの塔には〈力ある御方〉がいる、と、伝説は言う。


 それはいと高き者、尊き者、精霊王アルグスにちかしい眷属なのだ、とも、伝わっている。


 だから、テネブラエ暗闇の亀裂が走る地に最も近い村であるフィニスであっても、魔獣や魔物といった、魔の物が跳梁ちょうりょう跋扈ばっこするようなことがないのだ、と、フィニス村では、子供の頃に、誰も一度はそうした寝物語を聴かされて育つのだ。


 エスティアはその話を信じていた。


 テネブラエの亀裂――……カエルムの塔の存在のほか、もうひとつ、フィニス村の特殊性なところ。


(かつて聖乙女と魔王が激しく戦った、その痕跡だというけれど……)


 リサルグ女王国の端の大地に刻まれた深い深い溝、大地の裂け目は、人智の及んでいる場所と魔物たちの領土とを、物理的に分断している。それが、テネブラエの亀裂と呼ばれる峡谷だった。


 その向こう側は、かつて建国の聖乙女に追われた混沌たちが逃げ込んだ場所である。精霊王の加護の及ばない、魔獣、魔物のうろつく未開の地だとされていた。


 建国の聖乙女は、いま国のある地から魔王を退けた。そのはげしい戦いの後、そこには、世界を分かつテネブラエの亀裂が残された。


 その向こうは魔界だから、と、この付近の地に暮らす民のことを、偉大なる聖女は案じたのだろうか。峡谷の傍らに、高い塔――カエルムの塔――を建てさせて、精霊王の力を宿す者をそこに配したのだという。


 聖乙女は、リサルグの初代女王として即位した。


 大地は平らげられ、自らが地上で果たすべき役割を終えたと悟った精霊王は、聖乙女の傍らを去っていった――……その加護だけを、この国に残して。


 精霊王は、いまはただ教会で祀られ、信仰の中に、あるいは伝説の中にのみある存在となっている。それでも、リサルグ女王国において、その実在を疑う者などありはしなかった。


 すべてのものの中に精霊は宿り、日々、その助けを借りながら自分たちが生きていることを、誰もが身に染みて知っている。


(だったら、あの塔の〈力ある御方〉だって、きっとほんとうに塔にいらっしゃるわ)


 やや足早に林を抜けたエスティアは、いまは薄暮の中にたたずむカエルムの塔を、その真下から遙かに振り仰いだ。


 塔の前は、やわらかな草地となっている。白や黄などの可憐な野の花が、風にそよいでいた。


 エスティアはその場に静かにひざまずく。


 胸の前で手を組み合わせ、わずかにうつむきがちになって、目を閉じた。


 肺の奥深くまですぅっと息を吸って、ゆっくりと吐き出す。


 もう一度吸ったあと、歌うようにくちびるに乗せるのは、精霊王を讃美する詩だった。教会の祭壇で、あるいは食事の前に、夜眠るときに、と、生活の中の様々な節目節目に、人々が唱えるものだ。


あかときの光とともに、万物に精霊いのちはやどる。陰翳いんえいとばりは下りて、万象ばんしょうは闇に包まる。王よ、万物の主たる御方よ。一切はあなたの恩寵、一切はあなたへの供物。わたくしは感謝し、祈り、このくちびるはあなたへの讃美をうたうために開かれる。親愛なるあなたよ。どうか、わたくしのうたうこのうたが、あなたに聞き届けられんことを」


 祈り終え、エスティアは立ち上がった。


 塔のまわりは、そこだけ、木々が開けた場所となっている。ぽかりと空いた空間から、暮れた空が覗いていた。吹き渡る風が静謐で清らかな夜と草の匂いを運んでくるようだった。


 いつ来てもここの空気は澄み渡っていて、清浄だ。


 エスティアはひとつ深呼吸をしてから、きびすを返しかけた。けれどもふと立ち止まり、塔の向こう、暗い林の続く先のことを考えてみる。


 カエルムの塔のわずかに奥で大地は唐突に途切れるのだ、と、エスティアは知識としてそれを知っていた。実際に目にしたことはないが、それはきっと事実なのだろう、と、思わせるだけのひどく禍々まがまがしい気配が、塔の向こう側から立ち上り、漂っているような気がした。


 林の続くその向こう、そこにはテネブラエの亀裂がある。


 深い峡谷を越えれば、向こう側は、魔界だ。


 けれども、瘴気しょうきもといは、実は魔の世界だけではなかった。建国後しばらくすると、テネブラエの亀裂には、もうひとつ、ある重要な役割が与えられたからだ――……魔禍まか結晶けっしょうの投棄場所というものである。


(魔物を封じた石が捨てられる場所……)


 エスティアは無意識に、きゅ、と、首をすくめていた。


 精霊王アルグスに守護されるリサルグ女王国には、目には見えずとも、そこここに精霊の存在がちている。精霊たちは人々に力を貸し、さまざまな恩恵を与えてくれる、欠くことのできない存在だ。


 けれども、時に、精霊は狂う。


 何をきっかけにしてのことなのか、変節して、魔に化生けしょうしてしまうことがあるのだった。


 そして、人間は、どうやったって魔物や魔獣を滅ぼすことができない。魔法を使い――すなわち精霊の力を借りてすら――それは人の手では不可能なことだった。


 魔を完全に滅することができるのは、精霊王のみ――……正確には、精霊王と、魔王のみ。


 けれども、もう、役割を終えた精霊王は、この地から去ってしまった。魔王もまた、聖乙女によって、遠い昔に滅ぼされた。


 では、どうするのか。


 滅ぼすことができないならば、せめて、封じておくしかない。特別な水晶に魔物を封じたもの、それが、魔禍結晶と呼ばれる石だった。


 それに封じられてさえいれば、魔物として暴れて、人々に害をなすことはなくなる。


 それでも、魔禍結晶そのものが周囲に禍々まがまがしい瘴気をき散らし続けることは止められず、そうすると、どこかそれを、人々の生活から離れた場所に溜めておく必要が生じてきた。


 そして選ばれたのが、テネブラエ暗闇の亀裂だ。


(でも、大丈夫だわ。だって、〈力ある御方〉が……精霊王のご加護が、フィニスこの村を守ってくださっているんだもの)


 エスティアはもう一度、今度は立ったままで塔のほうへと祈りを捧げると、今度こそきびすを返した。


 空は西にわずかばかりのマゼンタ色を残しながら、あとはすっかり、濃紺のとばりが下りきろうとしていた。


「ずいぶん遅くなってしまったわ」


 エスティアが独りち、足早にもと来た道を戻ろうとしたときだった。


 ふいに、ガサッ、と、しげみを分けるような音が耳につく。


 塔の向こう、テネブラエの亀裂のほうからだった。エスティアはどきりとして、思わず立ち止まってしまっていた。


 カエルムの塔より向こうには、なお林が続いている。が、魔禍結晶の処分のためにやってくる王宮騎士や魔道士くらいしか、その林に立ち入っていく者はいないはずだった。


 それに、そういうときには、村には必ず通達されることになっているのだ。けれども、最近どころか、ここ二、三年ほどは、一度も通達はなかったと記憶している。


 エスティアは息を呑み込み、おそるおそる、音のしたほうを振り返った。


 間違いなく、林の奥、テネブラエの亀裂のある方角から、何ものかがこちらに近づいてきている。嫌に鼓動が鳴っていた。


(もしも魔物だったら、どうしよう……ううん、ここには塔の御方がいらっしゃるのに、そんなこと、あるわけがないわ)


 エスティアは改めて塔を見上げ、無意識に、祈るように胸の前で両手を組んでいた。


「どうか、お守りください」


 思わず小声でつぶやいた、瞬間だ。


 林を抜けて、ついにこちらへと飛び出してくる者がある。


「っ、誰かいるのか!? 手を貸してくれ……!」


 それは魔物ではなかった。人だ。


 どうやら二人連れである。格好からして騎士、それも、王宮騎士ではないかと判断された。


 怪我でもしているのか、一人の男は、もう一方の騎士に支えられて、かろうじて立っているという有様だ。そろいいの騎士団の制服は、泥だけでなく、どうも血でも汚れているらしいことが見て取れた。


「どう……なさったのですか!?」


 騎士たちのまとう服にある血の染みを見た途端、エスティアは弾かれたようにそちらへと駆け出していた。

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