ヴァルガリアスに口づけを。
あおい
第1話 精霊盈ちる国の辺境
「口づけを」
男は言った。
エスティアは、は、と、息を呑んだ。
「我が力を求めるならば、口づけを」
こちらの反応を確かめたあと、男は繰り返した。その
「さあ、どうした? ……村を救いたいのではないのか、清純なる
エスティアを見る相手の眸が、すぅ、と、
エスティアは、きゅ、と、眉根を寄せ、きつくてのひらを握り込んだ。
***
代々女王を
王よ、万物の
一切はあなたの恩寵、一切はあなたへの供物。
わたくしは感謝し、祈り、このくちびるはあなたへの讃美を
親愛なるあなたよ。
どうか、わたくしのうたうこの
リサルグ女王国の建国神話は、建国の
かつてこの地に
最後に乙女の前に立ち
乙女に追いやられた混沌は、彼女と魔王との決戦ののち、世界の端、魔界へと逃れていったのだという。
聖乙女は女王となり、ここに、精霊たちの加護を享受して栄えるリサルグ女王国が誕生した。
そのリサルグ女王国の辺境には、いまなお、人の世界と魔界とを分ける世界の境界線が深々と大地に刻まれている。そこは、闇の満ちた底知れない峡谷だった。
そして、その傍らに
***
「あら、エスティア。もう日暮れだっていうのに、これから出掛けるのかい? あぶないよ」
教会の門を出たところでエスティアに声をかけてきたのは、教会の近所に住む婦人だった。どうやら畑仕事を終えて、これから家に帰るところのようだ。
「ご心配ありがとうございます、ミアさん。でも、大丈夫です。塔まで行って帰ってくるだけですから」
エスティアにとっては、通い慣れた
「そうかい? でも、気をつけていくんだよ。――それにしても、遅くなってもお祈りを欠かさないなんて、ほんとにエスティアは熱心だよねえ。あんたが生涯純潔を旨とする
ミアはそう言って、感心したように目を細める。
「そんな、とんでもないです。わたしなんかまだまだで……!」
エスティアは恥じらう表情をして、顔の前に掲げた両手を軽く左右に振ってみせた。
「わたしたちが魔物に襲われることなく毎日を平穏に暮らせるのも、塔にいらっしゃる〈力ある御方〉のおかげですから。せめて、日々無事に過ごせることへの感謝の祈りを捧げるくらいは、教会に仕える
エスティアは、いまや茜からマゼンタ、濃紺へと、実に神秘的でうつくしいグラデーションをえがく薄暮の空を振り仰いだ。
夜の
には、黒々とした影のごとくに見えている、高い高い建物がある。林を抜ける細い道の先、木々を遙かに越える高さの古びた塔が、ひっそりと
春の陽射しのように淡いストロベリーブロンドを耳にかけながら、森閑の泉のように澄んだフォレストグリーンの
「〈力ある御方〉か……あんた、それを本当に信じてるのかい? さすがに敬虔で信仰深い巫女だけあるねえ。」
ミア婦人は、エスティアの様子に、苦笑するような表情を見せて言った。
「まあ、ここはこんな村だからさ……塔の話も、まるで
ふう、と、嘆息し、軽く
それがわかっても、エスティアは特に気を悪くするでもない。誰が信じなくとも、自分の信仰には影響はないのだと、ちゃんとわかっていた。
凜と背筋を伸ばして、真っ直ぐにミアを見る。そしてまた、春に花の
「わたしは信じてます」
きっぱりと言う。
「だって、ミアさん、事実、この村は魔物に襲われたりはしないんですもの」
「まあ、それはそうねえ……でも、そんなのは、ただの偶然かもしれないじゃあないかい?」
「ふふ、そうかもしれませんね。でも、わたしは、誰かがわたしたちを見守っていて、加護してくださってるんだって思うほうが、好きなんです。なんだか心強いじゃないですか」
そう言ってにっこりと笑うエスティアを前に、婦人は苦笑した。
「あんたが信じるっていうんなら、別にいいんだけどね。それで何の損をするわけでもないんだし。――でもねえ、エスティア、世の中には悪いやつだっているんだよ。あんたみたいに何でもかんでも信じちゃうと、ひどい目に遭うことだってあるんだから……」
「ご心配ありがとうございます。気をつけます」
「ほんとにわかってんのかねえ、この
「だって、何かを疑うのって、どこまでいっても
ふふ、と、エスティアが笑うと、まったくこの
ちょうどそこへ、今度はひとりの、壮年の男が姿を見せる。
「ああ、エスティア、これから塔かい? 今日はずいぶんと遅いじゃないか」
ミアの後ろから声をかけてきたのは、エスティアたちの暮らす村で自警団の団長を担うダニエルだった。やはり、暮れかかった時間に村から多少距離のあるところへ出掛けようとしているエスティアを、心配そうに見る。
「ダニエルさん、こんばんは。今日はちょっと薬草を
エスティアは、
「誰かに言って、送らせようかい?」
「ありがとうございます、お気持ちだけいただきますね。自警団の皆さんもお忙しいでしょうし、ひとりで大丈夫ですから」
「けどなあ、若い娘さんなんだし」
「平気ですよ。だって、わたしがこれから行く塔にいらっしゃる〈力ある御方〉は、尊い精霊王の眷属だって話でしょう? そんな方のいらっしゃるところで、誰も悪いことをしたりしないわ」
「うーん、そうかねぇ。おまえさんは、ちょっと人を信じすぎじゃねぇかな」
「ねえ、そうよね! もっと言っておやりよ、ダニエル。この
口を極めて言うミアも、それからダニエルも、自分のことを心から案じてくれていることが、エスティアにはわかる。ちいさな村だが、それだけに、誰もがみな家族のような存在だった。
(あたたかい場所……やっぱりわたし、フィニスが大好きだわ)
エスティアは、生まれたときから暮らす我が村を思い、自然と笑顔になった。
「ほんとうに平気です。いつもの道ですし、これでも巫女ですから、いちおう、魔法だってすこしは使えます。今日はすこし遅くなったから、さっと行って、さっと帰ってくるつもりですし」
「わかった。とにかく、気をつけるんだぞ」
「ほんとうにね!」
「はい、ありがとうございます。じゃあ、行ってきますね、ミアさん、ダニエルさん」
エスティアはふたりに向かってぺこりと頭を下げると、林の細道へと歩を進めた。エスティアの向かう先には、残照の中、黒い影となって
エスティアが暮らすのは、リサルグ女王国の辺境にある、フィニスという村だった。幼い頃、
リサルグ女王国の教会で
精霊王アルグス。
そして、精霊たち。
この世にある万象は、精霊が宿ることで息づき、力を得る。火も水も、風も土も、光も闇も、すべてに精霊は
その精霊の
また、精霊王アルグスは、リサルグ女王国の建国神話における英雄でもあった。リサルグの初代女王、建国の聖乙女クリスタの傍らに常にあって、彼女がこの地を平定するのを助けたのが彼だと伝わっているのだ。
この世の主であり、建国の立役者でもあるアルグス。
彼はさらに、魔から人々を守護してくれるものとしても、信仰を集めていた。
精霊王だけが、唯一、魔を滅することができたとされる――……否、ほんとうは、魔王と呼ばれる存在もまた、圧倒的な力を以てそれを
(魔王は、建国の聖乙女によって、ずっと昔に滅ぼされてしまったのだものね)
エスティアは、暮れかかって、ますます深くなっている
さぁん、と、わずかに温い風が吹いて、エスティアのピンクブロンドを揺らした。生成色のブラウスの襟を無意識に直すようにしたエスティアは、そのまま、塔への道を急いだ。
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