不合格体験記

紫田 夏来

不合格体験記

 午前五時五十分、まだ夜が明けぬうちに家を出て、私は最寄りの地下鉄駅へ向かった。二月上旬はまだ凍える寒さで、感染予防のためのマスクのせいで眼鏡が曇る。必要最小限の荷物と緊張と恐怖を持って、私は出征した。

 三日間に及ぶ私立入試の初日。地域のすべての私立高校が、決められた三日間のうちのいずれかの一日で、一般入試を実施する。推薦で受験した者はもう進路が決まっているが、一般組はこれからだ。私立が終わったら本命の公立、それは卒業式より後の三月である。

 同じ学校を受験する友達と改札で落ち合い、列車に乗った。前日に学校の体育館で行われた事前指導で、私たちより早く出発する生徒はいないということが判明していた。事実、道中で知り合いと会うことはなく、それどころか、まだ五時台で、ゴミ出しの主婦すらいなかった。いちばん力を入れて取り組んだ問題集の一冊だけしか持ってきていないのに、リュックが妙に重たく感じる。

 市内の端っこの駅で乗り、一回乗り換えて反対側の端っこへ。友達と話していたはずだが、何も記憶に残っていないということは、私は上の空だったのだろう。

 地下鉄のくせに最後の区間は地上を走る。空が明るくなっていて、乗車時間の長さを痛感した。二度目の乗り換え駅で下車して、回送に変わり、去ってゆく青を見送った。青い列車がいなくなると、ホームに別の青が顔を出す。

 空が綺麗だ。

 朝陽あさひが綺麗だ。

 眼下に広がる住宅街を照らすオレンジ色の淡い灯り。

 気分が高揚する、ということはなかった。ただその悠々と昇る姿に見惚れていた。セーラー服の襟元で結んだスカーフで眼鏡を拭き、曇りと汚れを視界から消し去る。その行動は、問題を見とおして答えを読み取る、そのための願掛けのつもりでもあった。

 あの灯りのように、ペンで机上を照らしてみせようぞ。

 意気込みは強くなるが、同時に不安も大きくなる。もし解らなかったら、もし名前を書き忘れたら、そんな嫌な想像が頭の中を支配していく。今まで全てをかけて取り組んだ成果を出せなかったら、私の中学時代は意味を持たなくなってしまう。あのオレンジは緊張感ばかりを後押ししてくる。きっと大丈夫と自分に言い聞かせて必死に抑えつけようとしても、無意味だった。実体のない塊が喉につまる。

 しかし、あれは見事に美しい。今までに感じたどんなものより麗しい。記念写真を撮ろうという考えすら浮かばなかったくらいで、あれから視線を逸らすことは不可能だった。

 その高校に向かうための路線は一つしかない。大勝負の日、皆が余裕を持って行動しようとするため、早い時間ほど混雑していたと後から知った。学ランやセーラー服、時々ブレザー。制服で列車は満員だった。そういえば、地上に出てから、友達とは何も話さなかった。

 バスに乗り換えて、数キロ先の戦地に到着。校門の前には進学塾の講師たちが集まっていた。残念ながら、私が直接お世話になった先生は一人もいない。友達が心強い声援を受けているのを間近で見て、ひとたび戦場に踏み入れたら彼女も敵になるのかと思い知った。しかし、私にだって味方はいるわ。

 先日、塾から記念品を受け取った。小さくて薄っぺらいものだったが、教室は盛り上がり、生徒たちはそれぞれに開封しようとしていた。しかし、手渡した男性の若い熱血教師が申し訳なさそうに言っていた。

「それ、今はまだ見ない方がいいと思う……。」

 その台詞を聞いた私は、初日の開始直前に開封すると決めた。きっと先生たちからのお言葉だろう。個別のメッセージだったら一層嬉しいが、生徒は大人数なので、まさかそんなことはあるまい。私は脆い方ではないという自負があったので、どんな感動を誘う言葉だろうと、水分ではなく養分に変えることができるだろうと思っていた。

 問題集の振り返りを終え、携帯の電源を切り、筆記用具を取り出す。準備万端となったところで、私は味方の力を受け取ろうと、封を開けた。

 心臓が跳ね上がった。

 先生からのお言葉ではない。個別のメッセージでもない。

 特製のハンカチと、母からの手紙だった。

 手書きではなかったが、内容でわかる。なんてことない普通の語彙だけど、ほんの数行だけだけど、これには情が込められている。私に向かって話す声が聴こえてくるようだった。

 私は泣かないという自信は、儚く散った。

 この場で慟哭したらおそらく退室。全て無かったことにしてしまえばいいという理性はあっさりと情に負けて、スカートのポケットに味方たちを突っ込んだ。ただでさえ多めに持ってきたティッシュなどでいつもより膨れたポケットはさらに太り、腿に当たって邪魔だった。

 最初の科目は国語だった。本文がまるで頭に入ってこない。その代わりに味方たちが目の前に現れる。彼らが問題冊子の前に立ちはだかり、何も考えられなかった。そのあとも、全ての科目が同様だった。

 落ちたという確信、オレンジの灯りの記憶、そして、あたたかい人の心。

 大切に抱いて、持ち帰った。

 あの朝陽が私の心を捕らえたのは、必然だった。


 2020年2月4日、江南の滝高校を受験した少女。後に、以上のように記した。

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不合格体験記 紫田 夏来 @Natsuki_Shida

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