第86話 魔物スライムから、守れ


 突然のチロロの行動、ユウキの表情の変化。

 それを見た老婆と療養者の男は、一瞬、何事かと戸惑いを見せる。

 老婆が目を見開いた。


「この気配……もしや、魔物かね」


 窓の外を睨みながらつぶやく。

 直後、集落中に響き渡るような鐘の音が聞こえた。初めてこの地にきたユウキにもわかる。危険を報せる合図だ。

 老婆はユウキを見た。


「お前さんたち、どうやら魔物が来たことにいち早く気づいたようだね。本当にたいした魔力感知能力だ。私以上だね」


 そう言ってから、少年院長の肩に手を置く。


「だからこそ、坊やはここに残るんだ。保護者の嬢ちゃんと一緒に、大人しく待ってな。もし危険が迫ったら、ためらいなく逃げるんだよ。ここは坊やの故郷じゃないんだから」

「お婆さん」


 ユウキは尋ねた。その瞳は、真っ直ぐ、強く、老婆を見上げた。


「もしヴァスリオさんたちなら、こういうとき、どうすると思いますか?」

「どうするかって、あんた」


 老婆は困ったように答えた。


「あのお人好しで腕利きな連中のことだ。真っ先に迎え撃とうとするだろうさ」

「わかりました。では、僕もそうします」

「ちょっと、坊や!?」


 老婆だけでなく、療養者の男も慌てた。ふたりして引き留めようとする。

 ユウキは天使マリアを見上げた。


「天使様」

『ユウキの思うとおりになさい。あなたはヴァスリオのようになりたいのでしょう。いざとなれば私も加勢しましょう』


 ありがとうございます、と頭を下げる。

 そしてユウキは老婆たちにも一礼すると、チロロを追って家を飛び出した。


 鐘はひっきりなしに鳴り続けている。それに合わせ、戦う術を持たない人々が慌ただしく走っていた。

 鐘の音は、ユウキたちが入った入り口とは反対方向から聞こえてくる。遠く、チロロの後ろ姿も見えた。

 ユウキと天使マリアは、集落の人たちが走る流れに逆らい、現場へと向かう。


 入り口に近づいてくると、武装した衛兵たちがぱらぱらと走り集まってくるところだった。皆、戸惑いと焦りの表情を浮かべている。

 どうやら、魔物の接近に気づかなかったようだ。

 老婆の危険予知がなされた上での事態。魔物の動きが集落の人々の想定を超えていたとわかる。


 その証拠に――魔物の姿はすでに集落の目の前まで迫っていた。


「あれは……スライム!?」


 走りながらユウキはつぶやく。目をみはる。

 それは、ユウキが聖域で出会ったスライム一家とはかけ離れた姿をしていた。


 大きい。

 そして禍々しい。

 三階建ての建物ほどはある高さ。横幅も集落の入り口はゆうに飲み込めるほど。

 全身が毒々しい赤黒色に染まっている。まるで時間の経った血が意志を持って蠢いているような悍ましさがあった。


 ユウキは唾を飲み込む。


 ――病室でよく見た血の色。

 まるで病気そのものの化身にユウキには見えた。


 集落は堀で囲まれている。入り口には堀をまたぐ桟橋がかけられていた。

 その橋を越えた外に、チロロが一匹、魔物に対峙していた。

 周囲に人の姿はない。

 魔物はチロロの威嚇に少し怯んだ様子だ。その場で身体を震わせている。


 ――が、逃げる気配もない。


 衛兵たちの声がユウキの耳に届く。


「これほど大きな個体は初めてだ……我々で防げるのか」


 ユウキはまなじりを決し、桟橋へ出る。

 天使マリアが後ろから声をかける。


『ユウキ! 後ろは私が守りましょう!』


 そう言って、彼女はゆっくりと魔力を解放していく。周囲に衛兵たちが集まりつつある状況で、一気に魔力を解放すれば彼らにも悪影響があると考えたのだろう。

 ユウキは桟橋を走りながら、心の中に語りかけた。


「皆を守るよ。力を貸して」



 ――心得た。

 ――任せなさい。



 ユウキの身体から魔力が溢れていく。天使の力と違い、少年院長の魔力は人々に勇気として浸透していく。


 チロロのすぐ横に並んだ。魔物は目の前。

 保護者フェンリルは語気を強めた。


『戻れユウキ。ここは余が時間を稼ぐ』

「僕も守る」

『そなたは院長だが、まだ子どもだぞ! 集落を守る義理もなかろう』

「僕、ヴァスリオさんみたいになりたいんだ。あの人ならきっとこうするよ」


 チロロの柔らかい毛並みに手を添え、魔物を見上げる。


「それに、このまま集落が襲われてしまったら、家族院の皆を救うための薬も手に入らなくなってしまうかもしれないじゃないか」

『減らず口を』


 そう言いつつも、チロロの口調は和らいだ。


 魔物スライムに動き。

 不定形の身体を巨大な網のように広げ、集落の入り口ごと人々を飲み込もうと覆い被さってきたのだ。

 背後で悲鳴が聞こえる。


 ユウキは魔物スライムから目をそらさなかった。脳裏に、これまで家族院の皆と過ごした楽しく幸せな日々を思い浮かべる。


 絶対に取り戻すから。僕が、皆を元気にするんだ。


 強い決意とともに、手を掲げるユウキ。

 そこから吹き出した魔力が、魔物スライムと集落の間に広がる。

 七色に輝く美しい結界が、魔物スライムの侵攻を完璧に受け止めた。

 火にくべた薪が鳴らすようなパチパチという音が、あちこちから立ち上った。結界に触れた魔物スライムの身体が、ボロボロに崩れる音である。

 敵ははっきりと苦しんでいた。


 衛兵のひとりがつぶやく。


「なんて力だ……こんな子がいるなんて」


 ユウキの後方で加護の力を高めていた天使マリアは、力を抜いた。彼女は一目で、自らの加勢は必要ないと理解したのだ。

 魔物スライムが結界に抗えた時間はわずかだった。

 ひときわ甲高い音とともに、魔物スライムは後方に弾き飛ばされたのだ。


 緊張感から、ひとつ、息を吐くユウキ。

 魔物スライムが蠢く。諦めた様子はない。

 ユウキはぐっと肩に力を込める。


「何度でも、守る……!」


 さらに結界を強化しようと構えを取った。


 そこへ、どこからか飛来した魔法の炎が、魔物スライムを直撃した。


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