第8話 白髪の幽霊
その夜、絵梨は営業を終えて誰もいない店内の明かりを点けた。いよいよ翌日から始まる授業の予習をしておこうと、2階の居住スペースから降りて来たのだ。1卓の椅子を引いて座ると、卓上LEDスタンドをONにする。ペーパーナプキン入れやタバスコは勉強の邪魔にならないよう、そして客席側から取り易いように端っこに固めて置かれているので、スペース的には充分である。絵梨はリュックから教科書やノート類、ペンケースを取り出した。
ここで受験も頑張ったんだ。改めて絵梨は1卓の天板を愛おし気に撫でた。
小学生の時、こっそり針で刻んでしまった悪戯書き。うさちゃんと桜姫を描いたんだ。桜姫である私とうさちゃんが遊んでいるところ。そう、学校でウサギを飼い始め、そのお世話係に任命された時だ。ウサギなんて触ったことも無くて怖かったのだが、ウサギの方もブルブル震えていた。この子も私が怖いんだ…。そう思うと猛烈にウサギが可愛くなって無理やり葉っぱを食べさせたりした。可哀想だったかな、今考えると。
その隣には小学校3年か4年の時、彫刻刀で開けた穴。消しゴムの消しかすを丸めて埋めていたっけ。それからこっちは咄嗟に書いて消えなくなった筆算の跡。たまたま持っていたペンが油性だった。消えないとは思わなかったよ。
そして今では赤面してしまう、中2の時に好きになった男の子のイニシャル。バレンタインを渡す時に告って見事に断られた。だって、もう隣のクラスの女の子と付き合ってるなんて全然知らなかったんだもん。ああ恥ずかしい。幸い、彼は岡山市内の私立男子校に行ったって聞いたから、ばったり出会う機会は無さげだ。良かった…。
それからこっちは高校受験の勉強中だ。店のBGMで流れていた曲、エルガーの『愛の挨拶』。思わずワンフレーズの音符をここに刻んでしまった。タンタラタラララ ランランラン ♪ お父さんが好きだからって何回もかけるんだもん、覚えちゃうよ。でも、受験の時も、こっそりこれを聴いてメンタルを保ったんだ。私もいつの間にか好きになってた。
これ、まさに私の歴史だな。黒に近い歴史だから消したいような、残したいような…。ま、お店がリフォームされて1卓が要らなくなっても、このまま2階に持って上がれば歴史は残る。そう、1卓のせいではない。みんな私が仕出かしたことだ。だから安心して、1卓ちゃん。絵梨は歴史を指でなぞる。歴史はこれからも続くのよ。
絵梨は立ち上がると窓のカーテンを開けてみた。目の前の桜の木、街灯に照らされ花たちが
こうやってカーテンを開けて、ちらちら桜を見ながら宿題をした春もあった。風に飛ばされたのか、窓にケムシがへばりついて悲鳴を上げた初夏もあった。夏は陽射しを遮って店のオーニング代わりになってくれた。秋には大量に葉っぱを散らし、掃いても掃いても片付かない地面に辟易していた。そして葉っぱを落とした冬の桜木は、妙に清々しく、そして寒々しかった。冷たい海風を素通しして、窓ガラスが揺れたっけ。
絵梨は卓に戻る。初日の授業は、数学Ⅰ・地理に英語が二つと、えっと、芸術説明会にホームルーム。予習って言っても習ってもいない教科なんだから限界あるよね…。取り敢えず1卓に教科書を並べる。そうそう、今日のテストの時、シャーペンの芯がラストだったんだ。ペンケースの中から替芯を出してシャーペンに補充する。マーカーもこれだけあれば大丈夫よね。授業がタブレットになったらノートはどうするんだろう。絵梨は首を傾げ、ふと窓の外を見た。
誰?
桜の木の下に誰か立っている。こんな時間に国道を歩く人なんて滅多にいない。その上ピンポイントで桜を見上げてるって、お花見には見えないし。絵梨は立ち上がり、向こうから見つからないよう位置を変えて、その誰かを観察した。
老人だ。頭は総白髪。幹の表面を触って、触った指をじっと見たり、幹に抱きついたりしている。国道を車が走って来るとふわっと木の陰に入り、通り過ぎるとまたふわっと出て来る。幽霊? 絵梨は目が離せなくなった。
15分程で老人は姿を消した。絵梨が目を
うわ、まじ、怖い。
絵梨はそそくさとカーテンを引き、1卓に戻る。
「ねえ1卓ちゃん、変なのが居たの。やっつけておいてくれる?」
絵梨はテーブルを軽く叩くと、教科書類をリュックに入れ、急いで両親のいる2階へと駆け上がった。
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