第2話 桜姫

 それから数年後、若夫婦が営む喫茶店はそれなりに繁盛し、店を見守るように残っている桜の木の周囲には幼い少女が駈け回っていた。夫婦の娘である。


 喫茶店の敷地内に聳える桜の木は、彼女の恰好の遊び相手だった。少女は聞き分けが良く、道路に飛び出したり、知らない人について行ったりはしなかったのだが、店のシンボルツリーには甘えっ放しだった。太い幹に小さな手を掛けてよじ登ろうとして、たまたま窓から見ていた客がマスターに通報し、慌ててマスター、つまり父親に引き離されたり、手が届く範囲の枝を次々に折って母親に叱られたり、少女は桜の木にまとわりついた。しかし気のせいか、桜の木はそれを許し、寧ろ楽し気に見えた。


 少女は小学生になると喫茶店の中で過ごす時間が増えた。宿題は勿論、健気に店の手伝いまでするようになったのだ。すると桜の木は少女を外へ誘うように花びらを撒いて葉を揺らした。少女はまんまと乗せられて外へ飛び出し、桜の木を見上げて何やら喋りかける。新しい客が店の入口に近づくと少女は踵を返し、客に近寄ると頭をペコっと下げて挨拶をした。


 愛らしい少女に『いらっしゃいませ』と言われてメロメロになった客は一人や二人ではない。いつの間にかそれを聞きたさに訪れる客も増え、少女は文字通りの看板娘になった。


 春には母親に言いつけられて、表で桜の花びらを集めた。木の根元にしゃがみ込み、一人で喋りながら丹念に綺麗な花びらをより分け、小さなタッパウェアに入れると母親の元に届けた。散り始めた桜が、自然と少女の頭や肩に花びらを降り積もらせる。常連客は『桜姫だな』と笑い、父親はこっそりそれを写真に収め、娘に見せた。


 本当に桜姫みたい…。 少女は自覚した。桜の四季と共に歩む自分を。


 中学生になると『流石に桜姫は褒め過ぎ』と思うようになるが、心の中では益々桜の木を愛おしく思う気持ちが強くなった。思春期に掛かり、少女にも人並みに悩みが増えた。常連客は、丁度店の窓からは見えにくい向きで、桜の幹に背中を預け、ぼーっと過ごす少女に気づくようになる。マスターに報告するも、父親であるマスターは、


「何悩んでんだか親には絶対言いませんけどね。桜の木に相談しているんでしょうけど、桜語で喋られるとちっとも判んない。何しろ桜姫として育っちゃったもんですから、私なんざ、執事みたいなもんですよ」


 と笑い飛ばした。しかし多感な頃の少女は、身の周りで日々起こる言動の一つ一つに悩む。


「あの子、今日も口を利いてくれなかった。私、なにか気に障る事、言ったかなあ。ねえ、どう思う?」


 少女は木を見上げる。桜は、


『そりゃ思い切って姫がその子に聞いてみるしかありませんな』


とばかりにさわさわと葉を揺らす。


 またある日は


「私の髪、真っ黒でストレートなんだけど、ちょっとくらい茶色で軽くウェーブしてるのが良かったなあ。これって一つにまとめると何だか『今からお掃除頑張る!』みたいになるんだもん。ウェーブしてるとさ、『今日はポニテなの?何か気合入ってるねぇ、あ、まさか…告るの?』とか期待されちゃうんだよー。告る相手なんかいないけどさー、バカみたいだよね? 真っすぐ下がってるだけなんてさ」


 すると桜の枝からスルスルと何やら下がって来る。先端で緑色の小さいものが身をくねらせている。


「きゃあーー!!!」


 少女は慌てて身を起こし逃げる。桜の枝の下から飛び出すと、


「ちょっとやめてよ! ケムシはちゃんと葉っぱの中に仕舞っといて!!」


と叫んだ。その声に気づいた常連客はマスターに報告する。


「マスター、桜姫が桜の木と揉めてますよ」

「はは。大丈夫ですよ、すぐに仲直りしますから」


 父親の見立ての通り、しばらくすると桜の木の手招きに応えるかのように、少女は木の下に舞い戻り、ブツブツと会話している。


 そう。桜の木も精一杯少女の期待に応えるべく、毎年たくさんの花を咲かせ、花びらを撒き、若々しい葉っぱで陽射しから少女を守り、秋には葉を落として翌年に備えて力を蓄えた。まるでそれが自らの使命であるかのように。


 しかし、十年後…

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