第1話 二分の一の倒木

 木が倒れた。


 穏やかな町に珍しく風が吹き荒れた夜、海沿いの国道脇、二本並んで立っていた桜の木のうちの一本が、まるで身を折るように倒れた。暗闇の中、その瞬間の苦し気な悲鳴を聞いた者は、残された隣の桜の木以外には誰もいなかった。


 夜が明けて、そのすぐ脇の喫茶店兼住宅の建築工事に集まった男たちは、心底驚いた。大工たちの朝は早いのだ。


「え? どうなってんだ?」

「倒れたんだよ、あの桜が。それも一本だけ」

「えー? そんな気配なかったのによぉ」

「どうするんや、これ。工事どころちゃうやろ」

「まあ良かったなー、建物に当たらんで」

「こんなのが屋根に倒れよったら、また梁からやり直しじゃろが」


 男たちは次々に叫び、珍し気に倒木を取り囲む。折れた断面は鮫の歯のようなギザギザが並び、人が触れることを拒んでいるようだ。一帯に漂うぼんやりした木の香りが、倒木の生命いのちの残り香のようで、大工たちの中には倒木に向かって手を合わせる者もいた。


 大工の棟梁らしきが、若い者に向かって叫ぶ。


「取り敢えず皆藤さんに電話しとけ。建物には支障ないけど、木をどかさんと車も入れんから、外構の業者に頼んでみるってな」

「はい、金はべつっすよね」

「そらそうやろ。俺らの責任やない。何かの保険が効くかも知れんけどな」

「はい。とにかく見に来てもらいます」

「おう」


 大工たちが走り回っている所へ、一人の男が通りがかり、携帯を手にした若い大工に声を掛けた。


「どうしたんや。木が倒れたんか?」

「え? あー、そうみたいっすね。来てみたらこうなってたんですわ」


 五十代の勤め人に見える男はズカズカと敷地に入り込み、折れた木の断面をしげしげと眺める。若い大工は男に問うた。


「あの、警察の人っすか?」

「いや、高校の教師や。生物教えとるし、ここの桜は毎日ほど見とったから馴染みやねん」

「あー、それは、ちょっと残念ですね」

「あのな、兄ちゃん」


 男はぐいっと乗り出す。


「はい?」

「始末してくれる業者さんにな、切り株には土、掛けて埋めよって言うといてくれ。多分根元で切りよるやろ」

「埋めるんすか?」

「これ、桜やからな、このまんま放っといたら隣の桜も枯れてしまうから、倒れた方は空気に当たらんようにしとくのがええんや」


 若い大工は戸惑った。内容は元より、赤の他人に指図されることかどうかが良く判らない。彼は不審気な顔で返す。


「まあ、外構の人が来たら言ってみますけど、そうなるかどうかは俺では判りません」

「棟梁にも言うといてくれ。ほれ、時々昔の遺跡とか土の中から発掘されるやろ?」

「え? はあ」

「あれも土の中で空気に触れんから保存されとる訳や。勿論モノや条件によるけどな、土がラップみたいに守りよる。このまんま放っといたら腐ってしもうて、隣の桜に移るかも知れん。もう一本も倒れたら難儀やろ」

「はあ」

「植木屋のおっさんも多分判りよる。ほんで、倒れた木はな、切り出したらええ無垢板になるで」

「板ですか?」

「2年ほど乾かさんとあかんけどな、大工やったら記念に何か作れるやろ。木は死しても身を残すって言うからな。ほな、頼むわ」


 突然一方的な依頼を受けた若い大工は棟梁に相談出来ぬまま、倒木の処理に借り出された外構業者にそっと耳打ちし、外構業者も訳が判らぬまま、その意を受け入れた。そして駆けつけた建物オーナー・皆藤夫妻には、


「切り株は取り敢えず危なくないようにしておきましたから大丈夫です。後は外構で綺麗にしますよ」


と誤魔化した。まだ二十代のオーナー夫妻も、購入したばかりの土地の仔細を把握しておらず、外構業者の言葉に感謝し、その後も気に留めなかった。


 そして若い大工は、自分のアイディアとして無垢板の切り出しを棟梁に申し出て、頷いた棟梁は建物完成の2年後のサプライズを目論んだ。


 今から十数年前、瀬戸内海に面した生田という小さな港町での出来事だ。

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