大討伐と二度目の別離(五)

 南壁五メートル、北壁八メートル。ロッドベリー砦の城壁は高くそびえ、その上に立てば天に瞬く星々が間近に見える。少し背伸びをすればその輝きを手にすることができるのではないかと思えるほどに。


「何してるの? 背伸びなんかして」


「いやあ、星を捕まえられるかなって」


「相変わらず面白いことするよね、リナちゃんって」


「えへへ、もうちょっとな気がするんだけどなあ」


「ふふ、もう少し背が伸びたら届くかもしれないね」


 心から可笑おかしそうに微笑み、リージュまで私の真似をして夜空に手を伸ばす。銀細工のように繊細な髪が夜風に流れて胸が高鳴る。

 私はいつからこの子を特別な存在だと思っていたのだろう。きっと出会った時から夢中になっていたのだ、こうして風に揺れる銀色の髪に、曇りのない金色の瞳に、はかなげな細い体に、柔らかくて白くて小さなお手々に。




 でも私達に与えられた時間はたった一刻。もともと時間に正確なリージュだけれど、神聖勇者セイクリッドの下で厳格に定められた刻限に遅れることは許されない。


「一刻かあ、短いね。やっと会えたと思ったのに」


「うん、寂しいね」


「また会いに行くよ、冬になったら暇になるんだし」


「駄目だよ。また無茶する気でしょ」


 弟と妹は元気? 最近はどんな研究をしているの? ちょっと痩せたんじゃない? 自分のことを後回しにしちゃ駄目だよ? リージュはいつも人のことばかりだから……


 また無茶してない? お酒飲みすぎてない? ちょっと背が伸びたんじゃない? 手紙に書いてあったエクトール君って人とはどうなの? リナちゃんって勢い任せなくせに奥手だから……




 そうじゃない、私がしたいのはこんな世間話じゃない。限られた時間でもっとこの子に近づきたい。


 私は後悔している、リージュを手放してしまったことを。それが彼女のためだ、この子には才能に相応ふさわしい場所があるなどと自分に嘘をついてごまかしていた。

 神聖勇者セイクリッドを敵に回そうが、家庭の事情があろうが、そんなことに構わず言いたかった。「リージュを返せ」と。でも彼女の恵まれた生活を見ると何も言えなくなってしまった、私では与えられないものが多すぎたから。


 だからこの口から出てきたのは、思いとは全く関係のない言葉だった。


「あのおとぎ話みたいだね。ほら、一年に一日だけ空に虹の橋が架かって、海のむこうの王子様が花売りの娘に会いに来るってやつ」


「ううん、そんなお話あったかなあ」


「知らないの!? 『雨雲と王子様』だよ、みんな知ってるじゃん」




 頭の中で渦巻く思いと口から出てくる言葉が一致しない。もう時間がない。二人励まし合って苦難を乗り越えて、一緒に借金を返して、死線を越えて……共に過ごしたあの短い時間の何と尊かったことか。控えめに微笑むこの小さな体を抱き締めて、どこか遠くに連れ去ってしまいたい。


「……そろそろ、行くね」


「……うん」


 控えめに胸に飛び込んできたリージュを、私は抱き留めることができなかった。そうすれば戻れなくなることを知っていたから。




 小さな背中が階下に消える。満天の星の下で一人になった私は、急に厳しい顔をしたと思う。


 おかしい。『雨雲と王子様』といえば、イスマール侯国どころか世界中で親しまれているおとぎ話だ。

 博識なリージュがそれを知らないはずがない。それにあの芋虫の飾り紐ストラップを買ったときの会話も忘れていたようだ。思えばもっと前、冬にリージュの家を訪れた帰りにお弁当を持たせてくれた。その時「前にも作ってくれたね」と言っても彼女は覚えていなかった。


叡智えいちの杖』の代償とは……もしかして。

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