叡知の杖(六)

 よし!と覚悟を決め、リージュのを背中に受けて床を蹴る。だが自慢の脚力に任せて加速しようとして一歩目でつまずいた。


「えっ、何これ!?」


 つまずいたのは私の間抜けのせいではない、思った以上の加速に姿勢を制御できなかったためだ。


「【身体強化フィジカルエンハンス敏捷アジリティ】。効果は百秒だけだよ」


「わかった!」


 完全に理解したわけじゃないけれど、何となくその名称で予想がついた。これは私の敏捷性を百秒間だけ増幅させる魔法のだ。


 速い! 何これ! ザックさんが放った闇色の触手を、光の矢を置き去りにして瞬く間に室内を駆け抜け、壁を蹴って方向転換。敵の懐に飛び込んで右手の剣を叩き落とした。だが自分でも笑ってしまうほどの加速力に再び姿勢を崩してしまう。


めるなよ、クソガキ!」


 私が体勢を立て直す間にザックさんが放ったのは【火炎嵐ファイアーストーム】。広範囲に巻き起こす炎で敵を焼き払う魔法だが、私は砦の戦闘でこれを見たことがある。効果範囲を見切って再び加速しつつ壁を、次いで天井を蹴って術者の頭上へ。


「ええい!」


 強化された脚力でその脳天を蹴りつける。よろめく敵を目の端で確認、着地と同時に渾身の後ろ蹴りソバット。ザックさんは杖を手放して壁まで吹っ飛んでいった。


「すごい! すごいよこれ! こんな魔法があるんだ!?」


「うん。でも百秒経つと……」


 喜びのあまり飛び跳ねていた私だったが、膝が突然かくんと折れて尻餅をついてしまった。起き上がろうとしても力が入らない、十キロを全力で駆けた後のように膝が震え、激しくき込む。


「そうなるの。過剰な力を使った反動が後から来るんだ」




 気を失ったザックさんを縛り上げている間、リージュはずっと白銀色の杖を仔細に調べていた。手をかざし、目を凝らし、光を当て、何やら考え込む。


「ねえ、その杖は何だったの?」


「あ、ごめん。この杖ね、神託装具エリシオンみたい。『叡智えいちの杖』だって」


神託装具エリシオン!?」


 神託装具エリシオン。その名の通り古代の神々が作ったとされる武具や道具で、それぞれ強力な効果を付与されている。だがそれに見合った不利益デメリットが存在するものがほとんどで、必ずしも所有者に恩恵をもたらすとは限らない。


 有名なところでは敵の攻撃を完璧に遮断する代わりに所有者の幸運を奪い取る『不幸の盾』、圧倒的な身体能力を得る代わりに所有者が次第に至高神の意思に染まっていく『至高の鎧』などが挙げられる。このイスマール侯国が豊かな自然に恵まれているのは侯爵家が『豊穣の水瓶みずがめ』を所有するためとも伝えられているが、その真偽は定かではない……


「やったね! これを売れば借金どころか大金持ちだよ!」


「うん……」


 価値ある品と知ったからそう見えるのだろうけど、繊細な装飾が施された白銀色の杖は神々こうごうしく、いにしえの女神が使っていたと言われても信じてしまうほどに美しい。

 神託装具エリシオンは当然ながら極めて希少で、その価値は計り知れない。強力な効果を持つ品であればどれほど金を積んでも欲しいという者がいるだろう。貧乏勇者が一夜にして大金持ちになるという物語のほとんどに神託装具エリシオンが絡んでいるくらいだ。




 ミルカさんの遺体を埋葬し、ザックさんを連れてロッドベリー市に戻った私達は行政府にて一通りの事情を説明。これにはミルカさんの身分証明プレートとザックさん自身の証言、それから『叡知えいちの杖』が証拠となった。


 ザックさんは約束の報酬二〇〇万ペタなどというお金は持っておらず、私達に支払われたのは所持金の二〇万ペタと護符アミュレットなどを現金化した三〇万ペタのみ。

 ただしお金の他に、値段がつけられないほどの神託装具エリシオン『叡知の杖』を手に入れた。これは当然のことで、勇者とその一行が任務中に拾得した物品には所有権が認められるという暗黙の了解があるのだ。


「あの……リナちゃん。やっぱりこれ、売らないで私が使っちゃ駄目かな」


「え? いいよ、もちろん」


 リージュが今まで使っていたのは、何とただの木の棒を自分で加工したものだという。優秀な彼女に比べてあまりに粗末な代物だと私も思っていたくらいだから、反対すべき何物もない。


 それにこの子はきっと、神託装具エリシオンを売って大金を得たところで自由にはなれないだろう。あの母親のことだ、いくらお金があったところですぐに使い切ってしまうに違いない。


 この子はもっと幸せになっていいはずだ、広く認められていいはずだ。粗末な木の棒を持って勇者補佐などという小さな器に収まっていて良い訳がない。

 優秀な魔術師であるリージュが神託装具エリシオンを得れば、狭く薄暗いあの家から飛び立って広い世界で存分にその翼を広げられることだろう。大した才能も無い私なんかよりもずっと多くの人々を救えるに違いない。




 この時私はそう思った……そして後になって後悔した。無理にでもあの忌まわしい杖を手放させておけば、と。


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