叡知の杖(二)

 依頼者はザックさんという剣士で、ミルカさんという勇者の仲間だったそうだ。行政府で名簿を確認してみると、確かにミルカさんの名前には二重線が引かれ、備考欄に「死亡」と記されていた。

 その生々しさに息を呑む。勇者とはこういう仕事なのだと改めて認識する、私の名前にいつ二重線が引かれないとも限らないのだ。


 ミルカさんが命を落としたというのはイスマール侯国北東部、レマ湖という大きな湖の中央にある小島。そこには古代の遺跡があり、地下への入口を見つけて中を探索していたところ、遺跡の守護者と思われる岩人形ロックゴーレムと戦い敗れたのだという。ザックさんは命からがら逃げ帰ったものの、友人である勇者の安否が気にかかり依頼を出したのだそうだ。




「私が逃げ出したとき、ミルカはもう致命傷を受けていました。あれからもう十日以上が経ちます、生きているとは思えませんがせめて遺品だけでもと思い……」


 馬車の中で肩を落とすザックさんに掛ける言葉もなく、目に涙がたまってきた。大切な仲間を失った悲しみはどれほどのものだろう、せめて遺品だけでも持ち帰りたいという気持ちもよくわかる。私だってもしリージュを失ってしまったら三日は泣いて暮らすことだろう。

 ……などと思い涙目で隣を見ると、リージュは意外にも平静な面持おももちで資料に目を落としていた。長い前髪の奥で思考を整理しているような、何かを探るようなその表情を見て、なぜか急に涙が引っ込んだ。




 レマ湖は直径約十キロメートル、外周約四十キロメートル。はるか昔に起きた噴火の後にできた湖で、その水は大河ルルリスを通じてやがて外海に注がれる。湖の南側には細々ほそぼそと漁を営む名前の無い漁村があり、そこから南西に五キロメートルほど川を下るとカミパという村に行き当たる。その一帯では豊富な湧水を利用した酒造が盛んである……とは、毎度のごとくリージュが事前に調べてくれた情報だ。


 その漁村で買ったという古い手漕ぎ船が湖のほとりに放置されていた。十数日前、ザックさんと勇者ミルカさんはこれで二人で湖に漕ぎ出し、帰ってきたのは一人だけだったという事だ。


「そういえば男性を魅了するという人魚セイレーンが出るって話でしたけど、ザックさんは大丈夫なんですか?」


「ああ、俺にはこれがあるんだ」


 そう言って見せてくれたのは、木で作られた薄い板状の護符アミュレット古文字アルートと複雑な紋様が刻まれたそれは魔術師が魔力を込めたものであり、魅了耐性、催眠耐性、魔法耐性、熱耐性など、紋様と文字によってそれぞれ異なる効果があるという。効果は時とともに薄れるものの、魔法を使えない者が妖魔に対抗するためには非常に有用であり、高名な魔術師が力を付与した品は特に高値で取引されている。


「島に近づくと刃魚スパーダが出るかもしれん、気を付けてくれ」


「うええええ……」


 刃魚スパーダ。刃のように鋭い背びれを持つ肉食魚で、その背びれで自分達よりも大きな獲物を集団で切り裂いて食べてしまうという。水中の網を切り裂いてしまうばかりか時には水面から飛び出して鳥や人間を襲うこともあるため、非常に美味であるにも関わらずこの魚が生息している場所では漁業が栄えないと言われている。





「……なんか聞こえる?」


「出たな、人魚セイレーンだ」


 静かにぐ湖上、どこからともなく聞こえる微かな歌声を感じ取ったのは私。これでも元伝令兵クルソールだ、音や光や振動、五感を働かせて周囲の様々な情報を感じ取らなければ生き残れない。船上に片膝をつき、右足の軍靴に手を伸ばして気配を探る……


「そこだ!」


 軍靴に差してあった投剣ティレットを引き抜き、水面から顔だけを出していた何者かに向けて投げつける。これは短剣に似た柄の無い投擲とうてき専門の武器で、飲んだくれエブリウス師匠からその技術とともに譲り受けたものだ。致命傷を与えるには小さすぎるが、急所に命中すれば十分に戦闘力を削ぐことができる。

 距離は目測で約十八メートル、射程距離からすればやや遠い。だが放たれた投剣ティレットは低空を這うように飛び、一度だけ湖面に跳ねて目標物に突き立った。


「―――――!!!」


 奇怪な叫びを上げてのたうち回る魚影。いや、これは魚影と呼ぶのだろうか? 先程まで美しい歌声を響かせていたそれは、美しくも恐ろしげな顔の半分を血に染めて牙を剥きだした。




 人魚セイレーン。流れの緩やかな大河や浅瀬に棲むと言われる妖魔。女性の上半身に魚の下半身、魅惑的な容姿に反して性格は獰猛で、【魅了チャーム】の効果がある歌声で人間や亜人種の男性を惑わせ、水中に引きずり込んでは食べてしまうという。


 よし命中! と拳を握ったのも束の間。湖面にいくつもの飛沫が上がり、大人の頭ほどもある影が次々と飛び出した。それらは明確に船上の私達に向かって飛び、銀色の背びれを輝かせて迫る。


刃魚スパーダ!」


 短い注意はザックさん。声と同時に直剣を掲げて刃魚スパーダを撥ねのけたあたり、なかなかの腕なのだろう。私はといえばそんな余裕も腕力もなく、左手に着けた籠手でなんとか受け流すばかり。汗と湖水が飛び散る中で微かに赤い色が混じったけれど、船の中央で身を屈めて詠唱するリージュだけは何としても守らなければならない。


「千年の雪、万年の氷、姿を変えし水の精霊、億のつぶてと成りて舞い踊れ!【氷雪嵐ブリザード】!」


 粗末な木の棒から氷雪が烈風とともに噴き出し、辺り一面に吹き荒れた。水飛沫がそのまま氷の粒と化し、飛び出した刃魚スパーダが空中で凍りつき硬い音を立てて落下する。


「さっすがぁ! やったね!」


「うん。守ってくれてありがとう」


 そう。この子は知識があって思慮深いだけでなく魔法まで使えるのだ。頼りになる相棒に向けて右手を掲げると、優秀すぎる勇者補佐は控え目に掌を合わせてくれた。


「きみは魔法が使えるのか。すごいな、名前は何といったかな」


「……リージュ、です」




 逃してしまった人魚セイレーンは仕留めていたら何ペタになったかな、などと間抜けなことを考えていた私の横で空気が張り詰めた。

氷雪嵐ブリザード】のために急激に下がった気温のせいではなさそうだ、どうやらザックさんとリージュはお互いを警戒し合っている。


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