勇者リナレスカ・エブリウス(一)

 夏風にひとつ頭を振ると、視界の端で亜麻色が流れた。今日もいい風、私の好きな草原の匂いがする。何もない緑の中をどこまでも駆けていきたい気分になる。




 もはや私の故郷とも言えるロッドベリー砦、ここに帰ってきたのは二年ぶりだ。

 もちろん砦自体は何も変わっていないのだけれど、こうしてしばらく外で過ごしてみると見えてくるものもある。


 なだらかな丘の頂上にたたずむ威容。黒っぽい城壁、数々の煉瓦レンガ造りの建造物、四方の監視塔。この最大で二千人余りが滞在できる砦を築くには、費用の捻出、地形の調査、資材の運搬、人員の確保、妖魔の襲撃に備えながらの作業、大変な苦労があったことだろう。


 北には魔の領域とされる『ドゥーメーテイルの大樹海』が果てしなく広がり、背後には人口約二十万のロッドベリー市をはじめ多数の町村が点在。広大な平野を大河ルルリスが緩やかに横切り、その両側に豊かな穀倉地帯が広がる。

 つまり巨額の費用をついやして百年前に建造された砦が今なお維持され、軍民合わせて一千余りの人々を擁して守っていることにはそれだけの理由があるということだ。


 二年前の私はこれらの事情を何も考えず、ただ自分が寝て起きて暮らす場所、としか認識していなかった。師匠と一緒に旅をして、少しは視野が広がったと思って良いのだろうか。




 そして今、雑草だらけの屋外訓練場。私は小剣に模した短い木剣を手に、ジョン小隊長と向かい合っている。

 この人は砦の雑用係だった私に剣術の基礎を教え、俊敏さと声の大きさから伝令兵に推薦してくれた恩人だ。軍歴三十年になろうかという大熟練兵ベテランで、半白髪で小柄ながら引き締まった体つきをしている。


「む、やるな!?」


「……」


 小隊長の木剣を左腕の籠手こてで受け流す。小さな楕円盾オーバルシールドを備えた金属製のこれで相手の攻撃を受け止め、あるいは受け流して右手の小剣で突くというのが今の私の基本戦術だ。


 これは「非力ですばしっこいだけのお前がどうやったら生き残れるか、自分で考えろ」という師匠の教えを自分なりに解釈して編み出したものだ。やることが単純なので未熟な私でもそれなりに戦えるし、何より身軽なので敵わない相手と見ればすぐに逃げ出せる。


 ……などと余計なことを考えているのは、実は余裕があるからだ。小隊長の打ち込みは体に力が入りすぎていて予備動作が大きく、次にどんな攻撃が来るのかわかってしまう。だから私は左腕だけの小さな動作で簡単に受け流せるし、相手はその防御を崩そうとさらに力を入れて無駄な動きをするので、こちらはもっと余裕ができてしまう。


「ならばこれでどうだ!」


「……」


 力のこもった上段からの斬り下ろし。でも間合いが遠いし体の向きに違和感がある、これは陽動フェイントだ。惑わされずに続く横薙ぎを受け止め、よろめいた演技をして軽く木剣を突き出す。お互いの武器が体に触れる寸前で止められた。


「ふう、引き分けか。ずいぶん上達したな、さすがは『飲んだくれエブリウス』殿の弟子といったところか」


「はい! ありがとうございます!」




 そう、私も自分の成長に驚いていたところだ。呼吸を乱して座り込む小隊長とは対照的に私はうっすらと汗をかいただけ。ジョン小隊長の実力はそう高いものではないが、それでも歴戦の大熟練兵ベテランには違いない。この人を完封できるほどの力が身についているとまでは思っていなかった。

 最初に剣術を教えてくれたジョン小隊長を越えられて嬉しい。でも同時に、年齢を重ねて小さく見えるようになった恩人に一抹の寂しさを覚えたりもする。


 この二年間、剣術の教本を何冊も手に入れて読みあさったし、旅先の腕自慢に挑んだこともあるし、自分なりに工夫して修練も重ねてきたものだ。

 それを認めてくれたのか、何だかんだと言いながら師匠はたまに稽古をつけてくれた。そして次の段階に進む暗示ヒントをくれた。最後には必ず「自分で考えろ」と付け加えるのだけれど。


「あれからもう二年になるか。若者の成長は早いなあ」


「はい。小隊長もお元気そうで安心しました」


「そうでもないぞ。肩やら腰やら膝やら、もうガタガタよ」


「ふふ。肩を揉んであげましょうか?」


「そうだな。少し休ませてくれ、若者の相手はキツいでな」




 訓練場の隅に座り込み、肩を揉みながらしばしの歓談。


 小隊長はこの二年間のことを聞きたがったし、私もこうして話したかった。その目と話し方はとても優しくて、娘の成長を喜ぶ親そのものに思えた。

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